序. 神の怒りから何を聴く?

 5月から、毎月一回、ローマの信徒への手紙を取り上げております。最初の11節から7節までの箇所は、手紙の挨拶の部分ですが、ここで、筆者のパウロは最初に自分のことを「神の福音のために選び出され使徒となったパウロ」と紹介するとすぐ、その「福音」について説明を始めました。「福音」とは一言で言うと、<神の御子イエス・キリストを語ること>だと言っておりました。次の8節以下は、小見出しにあるように、パウロのローマ訪問の願いを述べた箇所ですが、その目的は15節で言っているように「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」(15)ということですが、ここでも「福音」と言った途端、1617節で、その福音について、「わたしは福音を恥としない」と言い、「福音には、神の義が啓示されています」と述べて、その福音は「信仰を通して実現される」と語るのであります。この1617節は、この手紙全体の結論であるとも言われる箇所です。そして18節からは本論に入るのですが、福音という喜ばしい知らせについて語り始めるのかと思いきや、人間の罪に対して神様の怒りが現されたことを語り出して、それが延々と320節まで続くのであります。因みに39節を見てください。こう言っております。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」これが、18節から320節までの部分の結論であります。福音という喜ばしい筈の話を始めたのに、私たち人間は皆、罪の下にあるということを、これほど言葉を尽くして語らねばならないのは何故なのでしょうか。もしかすると、まず神様の怒りのことを語って、人を脅かしておいて、その後で救いのことを述べることによって救いの有難さがよく分かるようにしようということでしょうか。人間の罪に対する神様の怒りが語られているこの部分から何を聴き取ればよいのか、そのことを、ご一緒によく考えてみたいと思います。

1.神の義と怒りの啓示

 まず、18節を読んでみます。不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます。――いきなり、人間の不義とか不信心に対する神の怒りということが述べられているように見えるのですが、実は、この文章はその前の17節につながっていて、ギリシア語の原文で見ると、18章の初めには、「なぜなら」という言葉があるのです。では、17節では何が語られたかというと、「福音には神の義が啓示されていますが、それ(即ち、神の義)は、初めから終わりまで信仰を通して実現される」ということでありました。ここでまたギリシア語の原文の話をしなければならないのですが、17節で「福音には神の義が啓示されています」とある「啓示されている」という言葉と、18節で「神は天から怒りを現わされます」と訳されている「現される」という言葉は、原文では同じ言葉なのです。つまり、17節と18節は、どちらも神様の啓示の内容であって、17節では福音によって神の義が啓示されたことを語り、同時に18節では、神の怒りが啓示されたと言っているわけで、神の義と神の怒りとは、矛盾することではなくて、一つの神様の御心の表と裏のような関係だということです。「神の怒りを現わされる」と聞くと、人間が神様の言うことを聞かないで、勝手なことばかりしているので、大変に腹を立てておられて、そのために災害が起こるとか病気になるとか、人間に不幸なことが起こるという風に考えてしまうのですが、神様がお怒りになるのは、私たちが腹を立てて相手をやっつけるようなことではありません。神様のお怒りはどのように現されるのかと言えば、神の義が現されたという福音と同じことの裏表なのであります。福音はどこで現されたかというと、この手紙の初めにあったように、主イエス・キリストによって現されました。中でも主イエス・キリストの十字架の御業によって現されました。キリストの十字架というのは、神様の愛の現れでありますが、その十字架こそが、神の怒りの現れなのであります。つまり、十字架の福音が、神の義を現していると同時に神の怒りを現わしているということであります。ですから、神の怒りや人間の罪のことが延々と語られる118節から320節までは、決して福音と矛盾することが語られているのではなくて、福音によって現された神様の義のもう一面が語られているのであるということであります。ですから、これからしばらく神の怒りのこと、私たちの罪のことを聞いて行くのですが、それは救いのことを聞く前段階としての脅しではありません。むしろ神様の怒りの中にこそ、神様の愛があり、救いがあるのであります。カール・バルトはこう言っております。「神の怒りを、何かしら、神の愛にそぐわない、これと対立するもののように、理解してはならない。むしろ、神の愛を、かくのごとく、燃え焼き尽くす愛、と理解しなければならない」と。人間の親であっても、子に対して怒ります。しかしそれは、腹を立てるというのとは違いますね。子を愛すればこそ、怒るのであります。人間の場合は、時々、親の方の都合で子に腹を立てて、暴力を振るったりする場合があって、その場合は親の愛から出た怒りとは言えませんが、神様はご自身の都合で怒られることはなくて、いつも愛から出た怒りであります。十字架の愛で現されるような怒りなのであります。

2.不信心と不義

 さて、そういう前提(視点)で、神の怒りについて見て行きたいのですが、18節は、神の怒りがなぜ現されたのかということについて、「真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます」と言っておりまして、神の怒りの原因は、人間の不信心と不義であると言います。

 「不信心」とはどういうことでしょうか。普通は、<信心深い>というと、神仏を大切にして、宮詣でやお寺参りを欠かさないとか、仏壇やお墓を大切にするようなことを表していて、キリスト者に当てはめて言えば、日曜日ごとに熱心に教会の礼拝に通っているということになるのでしょうが、そのような目に見える形で現れるものでもありますが、問題は神様との関係がどうなっているかということです。神様を神様として敬っているか、神様の御心を訊ねて、その御心に従おうとしているか、ということが問われます。この手紙を書いているパウロは、ユダヤ教の最高指導者ガマリエルの下で学び、ファリサイ派のエリートとして誰よりも信心深い生活を送っていました。その頃の自分のことを、「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:6)と語っているように、信心深いという点では、誰にも負けない自信がありました。しかし、そのパウロが、キリスト者を捕えようとダマスコに向けて旅をしている途中で、主イエスの声を聞きました。それは、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という、怒りの声でありました。しかし、それは、単なる主の怒りの声ではありませんでした。それは、自分を誇り、そのために不信心に陥っていたパウロを救い出す愛の言葉であったのであります。パウロは、主イエス・キリストに出会うことによって、それまでの熱心さが不信心以外の何ものでもないことに気づかされたのであります。信心深いとは、自分の熱心さや自分の正しさを誇ることではありません。むしろ神様の前で自分が不信心であることに気づかされて、神様の前にひれ伏すこと、そして神様の御心に自分を委ねることであります。私たちもまた、聖書によってキリストと出会い、キリストの十字架に現された神様の怒りに触れ、自らの罪を知らされることによって、本当の信心へと、そして神様が備えてくださっている救いへと導かれるのであります。今日、洗礼を受けられる清水兄も、宗教界に身を置いて熱心に仏教のことなどを学ばれ、また自ら地蔵を祀られ、多くの人々を加持祈祷によって救われるという、信心深い生き方をされて来られたのであります。しかし、癌に犯された奥様を癒すことが出来ず、死なせてしまうという絶望を経験されて、これまでの信心が何の役にも立たないことに気づかれたのでありますが、それは今日の聖書の言葉で言うと、「神が天から怒りを現わされた」ということになるかもしれません。しかし、神様の怒りは、ただ辛い目に遭わせられるだけではなく、愛の籠った怒りであります。清水兄は、神様の怒りに出会われて、本当の救いへと導かれたのであります。

 18節にはもう一つ、「不義」という言葉が出て来ました。「不義」というのは、「義」の反対ですから、正しくないこと、悪いことであります。では、正しくないこと、不義というのはどこから出て来るのでしょうか。不義というのは、どこかに正しい尺度があって、それに照らして間違ったことというのではありません。聖書で「義」というのは、神様との正しい関係を意味いたします。ですから「不義」というのは神様との関係が損なわれていること、神様に対する誤った態度から出て来るのであります。そういう意味では先ほどの「不信心」とも通じることであります。神様との関係が間違っていると、人間との関係もおかしくなって、色々な問題も引き起こされます。なぜ、そんなことになるのか。――そのことで注目しなければならないのが、19節の初めの言葉です。「不義によって真理の働きを妨げる」と述べられています。ここで「真理」と言われているのは、一般的な真理ではなくて、神様に関する真理、言い換えれば、神様の御心であり、神様の御言葉であります。神様の御心・御言葉はイエス・キリストによって現されているのですから、主イエス・キリストそのものを真理と言ってよいわけです。ところが、人間の不義が真理の働きを妨げるというのです。神様は真理であるイエス・キリストによって、私たちとの良い関係を保ち、救いの御業をなさろうとしておられるのですが、それを妨げるのが、人間の不義であります。ですから、不義というのは、私たちのする個々の行ないが倫理的・道徳的に問題があるということよりも、主イエスの働きを妨げて封じ込めてしまうことであります。

 このように見て参りますと、人間の「不信心と不義」というのは、神様を神とせず、神様を崇めようとしない態度から来るもので、その態度があらゆる行動や生活の中に反映されてしまうわけであります。それに対して神様は怒りを現わされます。しかしそれは、先ほど申しましたように、腹を立てられるというようなことではなくて、神の愛から出る怒りであって、17節にあるように、神の義を現される、つまり御子イエス・キリストを十字架に架けるという形で現されたのであります。けれども人間は、その神の義さえも受け付けようとしないところに、人間の不信心と不義、人間の罪が極まるのであります。

3.弁解の余地がない

 さて、パウロは更に、この人間の不信心と不義、つまり人間の罪の実態を掘り下げて参ります。19から23節の箇所のキーワードは、20節の終わりにある「弁解の余地がありません」という言葉です。ということは、神様の方では、あらかじめ手を打っておられるので、人間には言い訳ができない、ということであります。19節では、こう言っております。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。――では、何がどのように示されたのでしょうか。20節にこう書かれています。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らに弁解の余地がありません。つまり、神様の御性質、つまり神様の永遠の力とか神様としての性格は、神様が造られた被造物によって明らかだ、というのです。確かに、壮大な宇宙の仕組み、地球の自然の豊かさ、動物や植物そして人間に至るまで、綿密に造られた被造物のことを知れば知るほど、それらを造られた神様の偉大さ・素晴らしさを知ることが出来るのでありまして、詩編の作者も、こう歌っております。「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。」(詩編19:25)このように、被造物を見ることによって、ある程度神様のことは分かるのではありますが、それでもって、神様の御心の全てが分かるわけではありませんし、人間の罪のことまで認めることが出来るようになるわけではありません。それでは、人間には弁解の余地があるということになるのでしょうか。そうではありません。30節には述べられていませんが、既に17節までで語られていたように、主イエス・キリストの福音によって、つまり、十字架と復活の御業によって、神様がどういうお方であるか、どのような愛の御心をもって私たちと関わってくださっているのかが、明確に示されているので、もはや私たち人間には弁解の余地がない、ということであります。
 そのように私たちは神様のことを知ることが出来るようにされていながら、21節以下に指摘されているように、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなっているのであります。具体的に言えば、神を礼拝し、神様を中心とした生き方をしていないということでしょう。また、23節では、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた、と述べています。これは当時の状況が反映した表現になっていますが、言いたいことは、神ならぬ者が神として扱う偶像礼拝が行われているということであります。
 ここまで述べられて来たことは、ローマの教会の人たちだけのことではありませんし、当時のパウロ周辺の人たちのことだけではなくて、すべて私たちにも当てはまることであります。特に、このようにして教会に来ている人は、聖書を通して、神様の御心も、イエス・キリストによってなされた御業も知らされていながら、神様を神様として尊ぶ生き方をせずに、他のことに喜びや慰めを求めるような罪深い生き方をしてしまっている、ということが指摘されているのであります。

4.まかせられた――十字架への引き渡し

 24節以下は、そうした私たちの罪にまみれた生き方の実相を語っているのでありますが、一つ一つ詳しく取り上げる余裕がありませんので、ひっかかりを覚えざるを得ない一つの言葉について考えたいと思います。それは、24節以下に三度出て来る「まかせられ」という言葉であります。24節では、そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、とあり、26節では、それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました、とあり、28節では、彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され(この「渡され」は「まかされ」と同じ言語)、とあります。
 この言葉から私たちが学ばなければならない第一のことは、私たちは自分の生き方を自分の考えと判断にもとづいて決めている、と思っているのだけれども、実は、そうではなくて、神様が私たちの自由にまかせられたのである、ということであります。私たちが神様の御心に背く生き方をしているのは、自業自得ではなくて、そこに神様の意思が働いているということです。神様は私たちをロボットのように、御自分の考えのままに動かされるのではなくて、人間の自由な判断にゆだねられている、ということであります。そこに神様の深い愛があります。しかし、人間は、その与えられた自由を、誤って用いてしまう結果、神様の御心から大きく外れてしまうのであります。
 では、そのような私たちに対して、神様はどう対処されるのか。そのことが、実はこの同じ「まかされ」という言葉で示されているのであります。この言葉は、キリストが十字架に「引き渡された」と述べられるときに用いられているのと同じ言葉なのであります。神様が私たちの自由に「まかされた」結果、罪に陥ってしまったのですが、その私たちを罪から救い出すために、主イエスを十字架に「引き渡された」のであります。ここに、人間を愛し抜かれ、徹底的に責任を持たれる神様の愛が示されているのであります。

結.洗礼と聖餐の恵み

 今日は、私たちの不信心と不義という罪に対する神様の怒りについて考えました。神様の怒りというのは、気に入らないので腹を立てるということではなくて、神の義と裏表のことであって、神様は怒りを御子イエス・キリストに向けられ、十字架へと引き渡されるという、驚くべき神の義をもって解決されたのでありました。私たちはこの神の義を知らされているので、もはや弁解の余地はないのであります。
 今日はこのあと、洗礼式と聖餐式を行います。洗礼式とは、この神の怒りの現れとしてのイエス・キリストの十字架の死と復活の恵みを受け入れて、悔い改めて、神の国の一員とされることをしるしづけることであります。また、聖餐式は、既にその信仰に入れられている者が、パンとぶどう酒のしるしに与ることよって、与えられている十字架と復活の恵みを再確認することであります。
 私たちは、弁解の余地のない罪人でありますが、こうして十字架と復活という、神の義から出た神の怒りの恵みに与ることが出来ますことを共に感謝し、喜びたいと思うのであります。祈りましょう。

祈  り

造り主にして慈愛に富み給う父なる神様!
 私たちは、あなたの御怒りによって滅ぶべき罪人でありますのに、その御怒りを御子に向け給うて、その贖いによって、私たちを救い給う恵みを覚えて、御名を賛美いたします。
 このような恵みを受けながらも、なお、あなたを崇めることも感謝することも少ないものでありますが、どうかお見捨てにならず、生涯、あなたに従い続けることの出来る者とならせてください。
 また、どうか、あなたの恵みに気づいて、罪から贖い出され、救いに入れられる者を、次々と起こしてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年7月19日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙1:18-32
 説教題:「
弁解の余地がない罪」         説教リストに戻る