そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
                         (マルコによる福音書829

 主イエスの弟子たちは、主と行動を共にしつつ、主の御言葉を聞き、数々の御業を目にしてきたのであるが、主イエスが何者であるのか、その真のお姿に目が開かれないまま、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか」(マルコ81718)との厳しいお叱りを受けた。その後、主イエスは一人の盲人の目を開かれて、主が弟子たちの霊の目をも開かれるお方であることを示されたあと、人々から離れて、弟子たちと共にフィリポ・カイサリア地方に出かけられた。それは、弟子たちをじっくりと教育するためであった。
 そこで主イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。これは人々の評判を気にされての質問ではない。弟子たち自身が主イエスをどう思っているのかを問い直させるためであろう。弟子たちは当時の人々が言っていることを、「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「預言者の一人だ」と答えた。人々が期待しているのは、世の中で正義が貫かれることや、自分たちの社会を作り直してくれたり、異教徒たちから守ってくれる人物が出現することであった。実は、弟子たちも、私たちも、そのような、自分たちの望みを実現してくれるスーパーヒーローの出現を期待しているのかもしれない。
 そこで主イエスは、標記のように、弟子たち自身が主イエスを何者だと考えているかをお尋ねになった。この問いは私たちにも向けられている。これは試験問題のように、正解を答えればよいというものではない。主イエスと自分の関係がどういう関係にあるのかが問われているのである。
 これに対してペトロは「メシアです」と答えた。「メシア」とは、ユダヤ人たちが待望していた「救い主・キリスト」を表す言葉である。これは思い切った告白であり、マタイ福音書では、この答えに主が喜ばれたことが記されている。だが、この答えを聞いた主イエスは、御自分のことを誰にも話さないようにと戒められた。なぜか。ペトロの答えは間違いではないが、人間的な期待をもってしかメシアであるキリストを見ておらず、十字架の主イエスがまだ見えていなかったからである。では、どのようにして弟子たちや私たちの霊の目が開かれるのか。難しいことではない。私たちは既に十字架と復活の主イエスを知っている。この主を受け入れ、信じ、告白するだけでよいのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年7月12日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書8:27-30 
 説教題:「
わたしを何者だと言うのか」 説教リストに戻る