序. 弟子たちの開眼に向けて

 先週は、今日の箇所のすぐ前に書かれている、一人の盲人の目が開かれたという出来事から御言葉を聴きました。盲人の目が開かれる出来事は、福音書の中であちこちに印象深く記されているので、簡潔に記されたこの箇所があまり注目されないように思われるのですが、マルコ福音書をまとめた人は、前後の関係の中で欠かすことの出来ない重要な出来事として位置付けているということを申しました。
 どういう位置づけかと申しますと、8章の初めには、七つのパンと少量の魚で四千人の人が満腹したという出来事が書かれていて、弟子たちはその出来事を身近に体験したのですが、814節以下の箇所では、自分たちがパンを一つしか用意していなかったことで論じ合っていて、それに気づかれた主イエスが、「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか」と、厳しくお咎めになったことが書かれていて、その後に、盲人の目が開かれた出来事が出て来るのであります。つまり、弟子たちには、主イエスがどのようなお方であるのかということが分かっていない・悟っていないという意味で、主イエスのお姿が見えていない盲人であって、その心の目・信仰の目が開かれなければならないということであります。そして、その出来事を聴いている私たちもまた、信仰の目が開かれなければならない盲人であるということが示されていたのであります。
 そして、今日の27節以下は、そのような弟子たちの心の目・信仰の目が開かれて行く過程が、福音書の終わりまで書かれて行くことになるのですが、今日の箇所はその最初に位置づけられる出来事でして、ここではペトロが弟子たちを代表して、主イエスが何者であるかを告白したことが書かれているのであります。これは弟子たちの信仰の目が開かれつつあることを示す場面であります。そういう意味で、この箇所は聖書の中でも最も大事な箇所の一つであると言えます。
 主イエスをどのようなお方であると認識し、告白するかということは、弟子たちにとって大事なことであるだけでなくて、私たちにとっても非常に大切なことであります。私たちが聖書を読み、こうして礼拝に来て御言葉を聴くということは、ただ、私たち人間の生活についてプラスになる教えを聞いたり、人生の生き方について正しい道を示されたり、慰められたり、励ましを与えられるというようなことに終わるものではありません。聖書が私たちに伝えたいと願っていることは、主イエスを信じるべきであるということ、主イエスにこそ救いがあるということに、はっきりと目が開かれ、その主イエスに従って行く生き方へと変えられるということであります。弟子たちは今、そのような信仰、そのような生き方へと心の目が開かれようとしているのであります。そして、私たちがそのような場面に出会っているということは、神様が、私たちの信仰の目をも開いて、弟子の一人としての新しい生き方へと導こうとしておられるということであります。

1.「人々は、わたしのことを何者だと」

 では、主イエスは弟子たちの目をどのようにして開かれるのでしょうか。主イエスは、31節以下で、御自分の死と復活のことを教え始められます。それに先立つのが今日の箇所であります。弟子たちの目を開く決定的な御業である十字架と復活のことを話される前に、なさらなければならないことがありました。それが今日の箇所であります。
 まず27節を見ますと、イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった、とあります。なぜ、フィリポ・カイサリアという地方に行かれたのか。聖書の巻末の6番の地図「新約時代のパレスチナ」を見ていただきますと、ガリラヤ湖の上の方に「フィリポ・カイサリア」という地名があります。イスラエルの北の端であります。ヘルモン山の麓にあって、イスラエルの中では珍しく水の豊かな所で、山紫水明の地であったようであります。なぜそのような所へ弟子たちを連れて行かれたのか。その理由は聖書に書いていないので想像するしかないのですが、一つは、律法学者やファリサイ派の人々に煩わされずに、主イエスと弟子たちだけで心置きなく対話が出来る場所であったということかもしれません。しかし、この地は決して単に平穏な風光明媚な場所というだけではありませんでした。
 「カイサリア」という名前から分かりますように、ローマ皇帝カイサルの名前がついているのです。というのは、ユダヤ人の王であるヘロデ大王がここに神殿を造って、皇帝アウグストスの像を置いて、それを崇めたというのです。そのような、信仰に反するような場所を、主イエスは敢えて弟子たちの教育の場に選ばれたということなのです。むしろ、そういう不信仰な環境の中で、本当の信仰は何かということを弟子たちに考えさせようとされたのかもしれません。
 さて、そのフィリポ・カイサリア地方の村々に行く途中で、主イエスは弟子たちに、こうお尋ねになりました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」――こういう質問をされたのは、主イエスが人々の評判を気にしておられるからではありません。ここで「人々」というのは、信仰を持っていない人、キリストに対してまだ目が開かれていない人々のことであります。そういう人たちの意見を聞いてみてもしょうがないようにも思われるのですが、ここまでに見て来ましたように、弟子たちとて、主イエスがよく見えていないのであります。ですから、「人々」という中には、弟子たちも含まれているかもしれないのです。建前ではなくて、弟子たちの本音をお聞きになったと言えるかもしれません。この問いかけによって、弟子たちは自分たちが主イエスをどう思っているか、主イエスに対して何を期待しているのかを問い直された思いがしたのではないでしょうか。
 主イエスは私たちにも、同じように問いかけておられるのではないでしょうか。そして、私たちが主イエスに何を期待しているのか、その本心を自らに問い直さざるを得ないのであります。
 弟子たちは答えました。最初の答えは「『洗礼者ヨハネだ』と言っています」でした。既に614節の所で、主イエスの働きを耳にしたヘロデ王が、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と言ったことが記されていました。彼は洗礼者ヨハネを殺したことによる不安から、主イエスに対して怖れを感じていたのでありましょう。一方、民衆の中にも、あの洗礼者ヨハネの再来を期待する思いがあって、主イエスをこのように言う者たちがいたのかもしれません。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを説いて、洗礼を授けました。また、ヘロデの悪事を指摘したことで、殺される羽目になりました。そのような正義を貫く姿に主イエスを重ねて、期待をする人たちがいたということでしょう。
 また、人々の中には、「ほかに、『エリヤだ』という人も」いました。先ほど朗読していただいた旧約聖書のマラキ書3章の23節には、「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と預言されていました。エリヤというのは、旧約の預言者を代表する偉大な預言者であります。エリヤは、豊穣神バアルを信じる預言者と対決して勝利したことで有名であります。そのエリヤが終末に先立って再来すると信じられていて、主イエスをそのエリヤと重ね合わせる人たちがいたようであります。
 また、他には、「『預言者の一人だ』という人も」いたようであります。当時、久しく、尊敬できる預言者が現れていなかったようですから、民衆の中には預言者への待望があって、主イエスにその役割を期待する声があったのでしょう。
 いずれも、律法学者やファリサイ派の人たちの評価と違って、主イエスに対する高い評価が挙げられていますが、弟子たちの中にも同じような期待があったかもしれません。そこで期待されているのは、世の中に正義が貫かれることであったり、自分たちの社会を作り直してくれたり、異教徒などから守ってくれることだったりすることでありました。私たちが今の時代の中で期待するのも、時代をリ-ドして繁栄をもたらせたり、苦難から解放してくれたりする指導者が出現することであったり、生活の中で遭遇する様々な悩みについて指南してくれる大先生に出会うことであるかもしれません。しかし、主イエスは、そのような私たちの期待に応えるスーパーヒーローとして登場されたのでしょうか。もしそういうことであれば、それは結局、自分たちの人生を豊かにしたり、楽にするために、主イエスを利用しようとすることであって、主イエスを信じるということではないし、主イエスが与えようとしておられる救いにはつながらないのではないでしょうか。弟子たちも、私たちも、そのことが問われなければなりません。

2.「あなたがたはわたしを何者だと」

 そこで、主イエスは弟子たちにこうお尋ねになりました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」――これは試験問題のようなものではありません。正解があって、それを間違いなく答えれば済むというようなことではありません。弟子たち自身が、また私たち自身が、主イエスのことを本気でどう思っているかを告白することを求めておられるのであります。ということは、弟子たちが、また私たちが、その生活の中で、日々の営みの中で、主イエスをどういうお方として向き合っているか、ということが問われているのであります。頭の中で、主イエスがどういう人間であるかを知識として、或いはキリスト教の教義として知っているか、ということではありません。「わたしはあなたにとって誰ですか」「わたしとあなたの関係はどういう関係ですか」「あなたの人生にとって、わたしはどんな意味がありますか」と問われているのであります。ある人は、この問いかけについて、こう言っております。<愛する者同士は、たえず、互いに「愛している」と言って欲しいではありませんか。神が私たちを愛し、主イエスが私たちを愛しておられるということからすれば、神様が、そして主イエスが、私たちから「あなたを愛しています」という言葉を聞きたいと思われ、告白を求められるとしても、少しも不思議ではないのです>と。弟子たち、また私たちの本心が問われているのであります。本気で愛しているのか、本気で信じているのか、どんなことがあっても従って行こう、いつも一緒にいようという心構えがあるのか、ということが問われているのであります。そのような真剣な問いかけでありますから、答える方も真剣に答えなければなりません。

3.「あなたは、メシア(キリスト)」

 さて、そのような真剣な問いかけに対して、ペトロが弟子たちを代表するかのように、こう答えました。「あなたは、メシアです。」――「メシア」と訳されている元のギリシア語は「クリストス」で、口語訳聖書ではそのまま「キリスト」と訳されていました。「メシア」というのはヘブライ語で「香油を塗られた者」という意味で、旧約聖書では王や預言者が神様から任命される時に、香油を塗ったところからメシアという名前が起こって、「救い主」を表わすようになったのです。そのギリシア語訳がキリストであります。ですから、メシアでもキリストでも同じ意味です。当時のユダヤ人たちは皆、救い主メシアの到来を信じて待ち望んでいました。ですから、ペトロは、<主イエスこそ、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアである>と告白したことになるわけであります。これは、先ほどの世間の人々が言っている評価と比べれば、大変思い切った告白であります。「洗礼者ヨハネ」や「エリヤ」や「預言者の一人」といった過去の偉大な人物を超えて、ユダヤ人たちが待ち望んでいる「救い主メシア」と告白したわけですから、実に立派な、また正しい告白であったのであります。ですから、マタイ福音書の併行箇所では、この告白を聞いた主イエスは、「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ1617と言って、お喜びになったのであります。人間の知恵によるのでもなければ、人間の経験によるのでもなくて、聖霊の導きを通して、神様が与えてくださった告白である、ということをおっしゃっているのです。
 では、「目があっても見えない」と言われていた弟子たちの目は、ここで開かれたということなのでしょうか。

4.だれにも話さないように

 30節を見ると、こう書かれています。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。――ペトロの答えは、マタイ福音書が記すように、主イエスが大変喜ばれた告白でありますのに、それを誰にも言うなと戒められたということは、納得できないことに思えます。なぜ、せっかく燃え立った火に水を注ぐようなことをおっしゃるのでしょうか。
 確かに、ペトロの言ったことは正しいのです。主イエスこそ、ユダヤ人が待ち望んでいたメシアなのです。しかも、主イエスをそのように告白することは、この時の状況から言えば大変勇気のいることでもありましたから、誉められてよいことなのです。しかし、真実の全体を言い表しているわけではないのです。そこに間違いが含まれているのです。ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアの理解では、すべての人を救う真実のメシアとは異なるのであります。
 どう違うのでしょうか。今日の説教のはじめに申しましたように、マルコ福音書は「パン」の話にこだわって来ました。主イエスがメシア(救い主)と言いあらわすときに、それがパンの奇跡に結びついていることが大事なことなのであります。マルコ福音書では、このあとパンのことは最後の晩餐の記事まで出て来ないのですが、ヨハネ福音書では、五千人の人が満腹したというパンの奇跡のすぐあとで、主イエスが、「わたしが命のパンである」と語り始められるのであります。それは、御自分の体を命の糧として人々にお与えになるということであります。しかし、そのことをお話になると、人々の心は次第に離れて行くことになるのであります。マルコ福音書では、このあとパンの話は出て来ませんが、今日のすぐあとの箇所で、主イエスが十字架のことを話し始められると、主をメシアと告白した当のペトロが、主イエスをいさめ始めるのであります。つまり、ペトロのメシア告白には十字架の主が含まれていなかったのであります。十字架の主イエスがまだ見えていなかったのであります。まだ極めて人間的な期待をもってしかメシアであるキリストを見ていなかったのです。先週の箇所で目を見えるようにされた盲人が、最初は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」24)と言っておりました。この時のペトロもそのように、はっきりと目が開かれていない状態であったということです。メシアとしてのお姿がまだはっきりとは見えていなかったのであります。
 私たちもまた、主イエスに対して様々な期待をいたします。私たちに迫って来る色々な苦難や問題から助け出してもらう、あるいは、そうしたことが避けられるようにしてくださる救い主であることを願っています。そのことは間違いではありません。しかし、主イエスが解決なさろうとしておられることは、私たちの中にある根本的な問題、つまり罪の問題を解決することであります。そのためには、十字架を避けることは出来ないのであります。メシア(キリスト)が十字架で死んでくださらなければ、本当の救いはないのであります。神様との破れた関係の修復は十字架によってしか出来ないのであります。そのことは、自分が罪人であるということを告白することと一体のことであります。そうでないと、本当の救いが見えて来ないのであります。

結.私たちの開眼に向けて

 今日の説教の結びは、先週の説教の結びと同じことになります。私たちの心の目・信仰の目は、どのようにして開かれるのでしょうか。
 大変むずかしいことであります。弟子たちも最後まで出来なかったことであります。あれをすれば出来る、これをしなければならないというようなことでは、解決できないことであります。しかし、問題は、簡単なことなのです。ただ、イエス・キリストを信じるということだからです。私たちの罪の問題を、主イエスが十字架によって解決してくださったことを受け入れて信じ、告白することで、私たちの目も開かれ、救われるからであります。
 次週の礼拝で、清水芳太郎兄の洗礼式が行われます。清水兄の目が開かれ、救われて、神の国の一員に加えられます。私たちもその席に連なることによって、改めてメシア、イエス・キリストの救いに与って目が開かれた者であることを確認し、まどろみがちな目をもう一度パッチリと開かれたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

メシア、イエス・キリストの父なる神様!
 あなたは主イエス・キリストによって、私たちに出会ってくださり、私たちの目を開き、救い出そうとしてくださっていますのに、なお、ペトロの告白にも至ることができず、御心を痛めております。
 どうか、私たちの深い罪をお赦しください。どうか、十字架の道を歩んでおられる主イエス・キリストの愛に目を開かせてください。
 そして、どうか、私たちのこの世の生活の中でも、主イエスに従い、主イエスを言い表す歩みをする者とならせてください。
 様々な困難や苦しみ・悩みの中にある方々に、どうか、メシアなるイエス・キリストが出会ってくださり、真の救いに与ることが出来るようにさせてください。どうか、この米子伝道所の群れに連なる者たちが、一人も滅びることがありませんように、導いてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年7月12日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書8:27-30
 説教題:「
わたしを何者だと言うのか」         説教リストに戻る