序. 盲人/見えていない弟子たち

 今日、私たちに与えられております、マルコ福音書822節から26節までの箇所は、一人の盲人が主イエスによって目が見えるようにされたという奇跡の物語であります。盲人の目が開かれるという物語は、このマルコ福音書でも、このあと出て来るバルティマイの目が開かれた話は、米子伝道所でもこれまでに2回取り上げていますし、ヨハネ福音書にある生まれつきの盲人が見えるようにされた話は、後日談を含めて2ページ半に亘って記されていて有名であるのに比べると、今日の物語はマルコ福音書にだけしか出て来ないこともあって、注目されることが少ないように思われます。しかし、マルコ福音書をまとめた人は、前後の流れの中で欠かすことの出来ない重要な出来事として位置づけているのであります。
 先月に聴いた8章の初めには、七つのパンと少量の魚で四千人の人が満腹したという奇跡が記されていました。そこで描かれていたのは、群衆を深く憐れまれる主イエスとは対照的な弟子たちの冷淡な姿でありました。主イエスはパンを与えて人々を満腹させられた奇跡で示そうとされたことは、主イエスが不思議な力を持っておられることではなくて、御自身の体を人々のために献げ尽くして、霊的な命を救われるお方であるということであったのですが、弟子たちはそのことを理解いたしませんでした。その後の、11節から13節のファリサイ派の人たちとの対話では、彼らは主イエスが救い主であることのしるしを求めたのでありますが、主イエスは、そのようなしるしを与えることを拒否されました。その後の14節から21節の箇所では、弟子たちがパンを一つだけしか持っていなかったことを気にしていると、主イエスは「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか」(1718)とおっしゃって、弟子たちがパンの奇跡の意味を理解していないことを厳しくお咎めになったのでありました。主イエスはこれから十字架への道を進んで行こうとされているのであります。今日の箇所のあと31節以下には、主イエスが死と復活のことを予告されたことが出て来ます。そうした中で、ファリサイ派の人たちはもとより、群衆も、そして弟子たちでさえ、主イエスのなさろうとすること、主イエスの御心を悟っていなかったのであります。それは、主イエスの本当のお姿を、目があっても見えていなかったのであります。そういう意味で弟子たちは盲人であったのであります。そういう状況の中で、主イエスは盲人の目を開かれたのであります。
 ここで盲人を見えるようにされたのは、肉体の目でありますが、マルコ福音書の記者をはじめ、弟子たちがずっと後になって気づいたことは、この出来事で主イエスが示されたことは、主イエスこそ自分たちの心の目・信仰の目を開くお方であるということでした。そのことを言いたいために、マルコはこの箇所に、この盲人の目が開かれた物語をどうしても書き残したかったのであります。
 私たちもまた、弟子たちと同様に、主イエスの御心を悟らない者であり、目があっても主イエスが見えていない者たちではないでしょうか。また、ファリサイ派の人々と同じように、主イエスにしるしを求める者であります。主イエスが自分たちに目に見える利益をもたらしてくださるお方であることのしるし(証拠)を求める者たちであって、私たちに本当に必要なものが何であるかが見えていない、それ故に主イエスがどのようなお方であるかが見えていない盲人なのであります。
 マルコはこの盲人と自分たちを重ね合わせながら、この物語を記しました。私たちも、この盲人の物語を、自分自身と重ね合わせながら聴き取りたいと思います。そうすることによって、目を見えるようにされる主イエスが見えて参ります。そして、私たちの心の目・信仰の目が開かれます。そして、主イエスが私たちに与えようとされている、最も大切なものが見えて来るのであります。

1.手を取って、村の外に

 さて、主イエスと弟子たちの一行は、ベトサイダにやって来ました。ガリラヤ湖北岸の町であります。何の目的で来られたのか、それは分かりません。たまたま通過点に過ぎなかったのかもしれません。以前にティルス、シドンからデカポリス地方に向かわれた時に、近くを通られたと考えられますので、主イエスの評判は届いていたと思われます。一行がベトサイダに着くと、人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った、のであります。人々はこの盲人を気の毒に思っていたのでしょう。噂に聞く主イエスが来られたということで、よい機会だと思って連れて来たのでしょう。主イエスがなさる奇跡の業を目にしたいという思いもあったかもしれません。しかし、彼らが期待したのも、12節で主イエスが嘆かれていたように、しるしを欲しがったということにちがいありません。主イエスの前に真剣に向き合おうということではないし、主イエスが人々のために何をなさろうとしておられるのかということについては、何も悟っておりませんでした。そういう意味では、連れられて来た盲人だけでなく、連れて来た人たちも、目が開かれていない盲人でありました。私たちが主イエスの前に出て来るときも、自分でやって来たり、連れられて来たりするのですが、初めから主イエスがどのようなお方であるか、何を私たちに与えようとしておられるのか、見えておりません。多くの場合、この人たちのように、何か自分たちにとって利益になること、自分たちの悩みを解決してもらうこと、あるいは、慰めや元気を与えてもらおうとしてやって来るのであります。つまり、しるしを求めてやって来るのであります。
 しかし、主イエスは、そんなしるしを求めてやってくる者たちであっても、排除されるわけではありません。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出されました。主イエスは自ら盲人の手を取られます。目が見えていない者に手を貸されます。このことは、心の目が開いていない者に対しても、同じことをなさるということではないでしょうか。それは、目があっても見えない弟子たちに対しても同様でありました。何とか目が見えるようにしてやろうという暖かい思いは、同じであります。だからこそ弟子たちを連れて歩かれ、御言葉を聴かせられるのであります。私たちのような、物分かりの遅い者をも、手を取るようにして導いて、目を開かせようとなさるのであります。
 しかし、主イエスはその場では盲人の目を開かれませんでした。村の外に連れ出されたのであります。大勢の人の視線の届かない所へ連れて行かれました。しるしを求めている人々の目から離されたのであります。それは誤解を生まないためでありました。盲人の目を開くことで、人々の目を一層堅く閉じさせることがないためでありました。
 主イエスが私たちの悩みや問題を解決してくださる時も、同じようになさるのではないでしょうか。主イエスは私たちを憐れまれます。悩みや問題を解決してやろうとされます。しかし、誤解を生まないように、人々の目から隠されたかたちで行われます。誰が解決したのか分からないように解決されます。それは、人々が主イエスを自分たちの都合のよい存在としてだけ利用しないためです。しるしを求める人々の心の目が閉じたままにならないためであります。

2.唾をつけ、両手をその上に置いて

 盲人の手を取って村の外に連れ出された主イエスは、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれました。この行為は何かおまじないのように思えます。前に7章で、耳が聞こえず舌の回らない人を癒された時にも、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられて、「開け」と言われると、耳が開き、舌のもつれが解けました(73335)。癒しは超能力や手品によって行われるのではありません。癒しを施す人のエネルギーが注ぎ込まれなければ出来ません。主イエスであっても、楽々と行えることではありません。この場合も、唾をつけることと、両手を置くことによって、主イエスの思いとエネルギーをこの盲人に注ぎ込まれたのでありましょう。それも、一回だけでは、まだぼんやりとしか見えなかったので、もう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった、のでありました。主イエスであっても、小手先で出来ることではありませんでした。おそらく御自分の身を擦り減らすほどのエネルギーを注ぎ込まれたのでしょう。一人の人の目を開くだけでそれほどのエネルギーが必要なのであれば、私たちの心の目・信仰の目を開くためには、御自身の命を献げて十字架にお架かりにならなければならなかったということが、私たちにもある程度理解できるのではないでしょうか。

3.「何か見えるか」

 主イエスは、最初に、盲人の目に唾をつけ、両手をその人に置かれたとき、「何か見えるか」とお尋ねになりました。主イエスの奇跡の業の中で、このように途中でお尋ねになった例は他にはありません。これは、先ほども申しましたように、目の癒しには相当大きなエネルギーが必要だということの表われとも言えますが、それ以上に、私たちの心の目・信仰の目を開くことは、決して容易なことではないことを気づかせようとなさっておられるのではないでしょうか。この後の27節以下で、主イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われ、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。これは、<あなたがたに、私がどう見えているか>、<主イエスの中に何が見えるか>という問いでありますが、それは、<あなたがたの心の目・信仰の目で、私がどう見えていますか>という問いであります。その問いに先立って尋ねられたこの問いは、肉体の目のことなのですが、マルコは、これらの問いを重ね合わせて受け取ったので、ここに続けて記したのではないでしょうか。
 主イエスのお尋ねに対して、24節で盲人は見えるようになって、こう言っております。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」――これまで、人も木も見たことがなかったのですが、触れたりぶつかったりすることによって、およその形態は分かっていたのでしょう。ぼんやりと見えてきた人の姿を見て、<木のようだけれども、歩いているので、人間だと分かる>と言うのです。弟子たちや私たちが主イエスを見る心の目も、これに似ているということではないでしょうか。弟子たちはパンの奇跡を二度も経験しました。しかし、そこで弟子たちに見えたのは、<木のようだが、歩いている>主イエスの姿でしかありませんでした。救い主の主イエスには、まだ出会っていなかったのであります。目があっても、まだそのお姿を、はっきりとは見ることが出来ない状態だったのであります。
 ヨハネ福音書に、生まれつきの盲人が癒された物語がありますが、その中で主イエスはファリサイ派の人々に、こう言っておられます。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ941)――ファリサイ派の人々も弟子たちも、そして私たちも、自分たちが見えていないことに気づいていません。見えているつもりであります。主イエスのことが分かっているつもりであります。しかし、「見える」と思い違いしている、或いは、「見えている」と言い張っているところに、私たちの罪があるのであります。私たちは、自分なりの先入観や、自分の期待で、主イエスを見てしまいます。そうであれば、聖書を通して主イエスと出会っていても、真実の主イエスには出会えないのであります。この盲人は、初めて見る人の姿が、木のように、ぼんやりとしか見えていないことを、ありのままに述べました。そのような盲人には、御自身のお姿をはっきりとお見せになるのであります。

4.はっきり見えるようになった

 25節に参りますと、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになました。
 主イエスは少し見えるようになっただけで、癒しの業をお止めになることはありませんでした。盲人がはっきりと見えるようになるまで、御自分の力を注ぎ続けられました。この盲人が見えるようになっただけではありません。目があっても見えなかった弟子たちも、このあと主イエスの十字架の出来事を見、その後に復活の主イエスに出会った暁には、救いの御業をはっきりと見ることが出来るようになりました。その恵みの出来事を語りたいために、マルコ福音書の記者はわざわざこの盲人の癒しの出来事をここに書き残しているのであります。
 最後の26節には、こう書かれています。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。――村には、この盲人だった人を連れて来た人々が待っています。また、主イエスの奇跡の業の結果をこの目でみたいと思う人々が待ち構えていたでしょう。しかし、主イエスは「この村に入ってはいけない」とおっしゃいます。なぜでしょうか。そこで待っているのは、心の目が見えていない人たちであります。主イエスの十字架の恵みをまだ知らない人たちであり、肉体の目を見えるようにした奇跡だけに関心がある人たちです。そのような人たちが、この盲人の目が開かれたのを見ても、心の目は開かないばかりか、ますます心の目が堅く閉じられる可能性が高いからであります。そして、この目が見えるようになった人も、見世物のようにされるだけで、肉体の目が開かれても、主イエスの恵みを見つめる心の目が開かれなくては何もならないからであります。主イエスは「その人を家に帰され」ました。家には少なくとも彼が見えるようになったことを心から喜ぶ家族がいます。そしてこの人は主イエスが目を開いてくださったことを証しするでしょう。そこでは、この人の心の目も開かれる可能性があります。まだ、この時点では、主イエスの救い主としてのお姿は見えていなかったでしょうが、やがて十字架と復活の出来事を経て、主イエスの本当のお姿をはっきりと見ることが出来るようになったのではないでしょうか。そして、弟子たちと共に、この喜ばしい出来事を人々に伝える生涯を送ることになったのではないでしょうか。

結.私たちの開眼へ

 今日は、一人の盲人と弟子たち、更には私たちを重ね合わせながら、主が盲人の目を開かれた出来事を見て参りました。私たちは、目があっても見えない弟子たちと同じように、パンの奇跡の意味も、盲人の癒しの出来事の意味も、よく見えない可能性がありました。しかし、主イエスが、この人の目を開くために御自分の犠牲を厭わず、力を注ぎ給いました。この人の目を開くだけでなく、弟子たちの心の目・信仰の目を開くために、そしてすべての人の心の目を開くために、御自分の命を捨てられる十字架への道をまっしぐらに進まれました。私たちの心の目は、まだおぼろげにしか開いていないかもしれません。主イエスが私たちに「何が見えるか」とお尋ねになっても、<ぼんやりとした主イエスのお姿しか見えません>とお答えするしかないかもしれません。しかし、主イエスはこの盲人だった人になさったように、そして、復活の時まで目があっても見えなかった弟子たちも、遂には、はっきりと目が開けるまで導いてくださったと同じように、私たちにも、目がよく見えるようになるまで、力を注ぎ続けてくださるのではないでしょうか。私たちは、もはや、しるしを見ることを期待して待っている村に戻るのではなく、つまり、心の目が開いていない状態に留まるのではなく、弟子たちとともに、教会において主イエスのお姿を更にはっきりと見えるようにしていただくことを、信じて待ち続けること、――それが主イエスの憐れみに応えることになるのではないでしょうか。  祈りましょう。

祈  り

憐れみ深いイエス・キリストの父なる神様!
 私たちは、かつての弟子たちと同じように、目があっても見えていない者でございますが、今日も私たちに出会ってくださり、御言葉を賜り、心の目を開こうとしてくださいましたことを感謝いたします。
 そのために、御子イエス・キリストを十字架の道に進ませ給うた深い御心は、とうてい私たちには計り知ることが出来ませんが、どうか、私たちの目をそこに向け続けさせてください。そして、少しでもはっきりと、あなたの恵みを見ることができるようにさせてください。
 
多くの人たちが、まだあなたの恵みの御心を知らないまま、様々な困難や問題から逃れる道を求めておりますが、どうか、主イエス・キリストに出会い、はっきりと心の目が開かれる幸いを与えられることができますように、お導きください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年7月5日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書8:22-26
 説教題:「
はっきり見えるように」         説教リストに戻る