序. 宣教の熱意はどこから

 先月から、原則として月一回の割合で、ローマの信徒への手紙から御言葉を聴くことにしております。先月は、11節から7節までの「挨拶」の部分を読みました。今日の8節からは本文が始まるのですが、本論に入るのは18節からで、今日の箇所のうち、8節から15節までは、「ローマ訪問の願い」という小見出しがつけられていますが、この手紙を書くに至った事情が説明されており、1617節は、この手紙の主題(テーマ)が述べられています。
 今日の箇所は、連続講解説教をする場合には、4回も5回もかけて取り上げられることも多い、内容の濃い箇所でありまして、1回の説教ではとうてい語り尽くすことが出来ない箇所なのであります。しかし、月一回のペースですから、一所に何か月も留まって、全体を読み終わるのに何年もかかるよりも、ある程度のスピード感をもって、読み進みたいと思いまして、今日の箇所も、あれこれ話すのではなくて、一つのテーマ、一つに問いに絞って、御言葉を聴きたいと考えました。そのテーマ(問い)というのは、筆者のパウロの宣教の熱意はどこから湧いてくるのであろうか、ということであります。
 先ほどの朗読でもお感じになったかもしれませんが、パウロはまだ行ったことのないローマへの訪問に大きな期待と意欲を持っているのであります。パウロの宣教の熱意については、使徒言行録に記された伝道旅行でも知ることが出来ますし、パウロによって記されたとされている多くの手紙によっても知ることが出来るのでありますが、特にここには、彼が伝道旅行を行なった地中海沿岸の地域の先にあって、当時の世界の中心地と言ってもよいローマへの宣教の強い意欲が示されているのであります。なぜ、そのローマに行くことに意欲を燃やしているのでしょうか。ローマが当時の世界の中心だったから目をつけたということは当然かもしれません。更に、この手紙の15章には、イスパニアに行くとき、ローマに行きたいということが書かれていて(1524)世界伝道の一環としてローマにも行きたいという願いを持っていたのであります。しかし、今日の箇所にも書かれているように、パウロが行く前に、ローマには既に福音が伝わっているのであります。ですから、パウロが小アジア地方で行なったような開拓伝道の対象地ではないのであります。そうでありますのに、10節にありますように、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています、と書いております。なぜ、パウロはそれほどローマに行きたかったのでしょうか。その理由は何でしょうか。その熱意はどこからくるのか。――今日はこの問いに絞って、この箇所から御言葉を受け取りたいと思っております。
 ところで、この問いというのは、単なる興味や、探究心を満たすための問いではありません。このパウロの熱意を探るということは、当時の一人の熱心な伝道者のことを知るためではなくて、福音を聴いて信仰を与えられた私たちにも促される伝道の志や力、現代の私たちの教会の宣教のエネルギーを与えられることにつながるからであります。私たちが教会へ来て礼拝するということは、自分が抱えている問題や課題について慰めや指針や力を与えられるだけが目的ではありません。福音を受けることによって、更に多くの人々に福音を伝え、色々な問題を抱えている人を救いに導くという使命が与えられるのであります。その使命を行うというのは、信徒の義務とか教会から与えられる命令だから行うのではありません。福音に押し出されるようにして、やりたくなるのであります。やらずにはおれなくなるのであります。そのような熱意や意欲を抱くようになるのは、パウロが抱いたものと同じ理由によるはずです。しかしながら、私たちはそれほどの熱意や意欲を持てないとしたら、どこに問題があるのでしょう。どうすれば、パウロと同じような熱意と意欲を持つことができるのでしょうか。今日は、そのことを問いつつ、パウロを突き動かしているもの、その根源に迫りたいと思います。

1.福音が伝わっている感謝から

 さて、今日の箇所の冒頭の8節は、こういう言葉から始まっています。まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。――「まず初めに」と言っています。<何よりも先に>言いたいこと、どうしても言わなければならないことを述べようとしているのです。それは、「イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します」ということでありました。何よりも先に、「感謝」の言葉を述べたかったのであります。手紙のはじめに感謝の言葉が来るのは、当時の手紙では普通のことでした。しかし、その感謝が普通ではないのです。普通なら宛先の人に対して感謝を述べる筈です。ところがここでは、「わたしの神に感謝します」と、神様に対して感謝しているのです。しかも、「わたしの神に」という不思議な言い方をしております。畏れ多い筈の神様を、あたかも個人の神様であるような親しみを込めた呼び方をしているのであります。感謝を覚えるときには、その感謝の相手が神様であっても、「わたしの神」と言い得るほどに、親しみを感じるということであります。
 では、神様に対して何を感謝しているのでしょうか。感謝の内容を、「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」と述べています。ローマの教会の人たちの信仰が、全世界に言い伝えられるほどの確かなものであることを感謝しているのであります。パウロは、10節にもありますように、かねてから、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところ(即ち、ローマ)へ行ける機会があるように、願っていました。それは、ローマには、真の神様のことを知らない人たちが大勢いるので、そこに自分が福音を持ち運ばなければならないという思いであったかもしれません。ところが、既に、ローマには、全世界に言い伝えられるほどに信仰が育っていたことを知って、驚きをもって感謝しているのであります。福音は、パウロの働きがなくても、ちゃんと伝わっているし、そこに全世界に言い伝えられるほどの信仰が育っていることの中に、自分の思いを越えた神様の恵みがあることを覚えて、感謝しているのであります。今日のテーマは、<パウロを突き動かしているものは何か>ということでありますが、その第一の答えは<福音自体が持っている力>であり、<人間の思いを越えて働く神様の恵み>であります。パウロを突き動かしているのは、彼の熱心さでもなく、彼の使命感でもなく、福音自体の力と、思いを越えた神の恵みの大きさが、彼を駆り立てているのであります。信仰者としての私たちの生き方や働きを突き動かすものも、私たちの熱心さや使命感ではなくて、十字架と復活の福音自体が持っている力と、私たちに対する神様の恵みの大きさ・豊かさであります。

2.信仰によって励まし合いたい

 では、それほどまでに、ローマの人々の信仰が確かであるならば、もう、パウロがわざわざ行く必要がないのではないか、と思ってしまうのでありますが、パウロは相変わらず、「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」と言うのであります。すでに信仰があるところに、更に福音を伝えるよりも、他のまだ福音が届いていない所に福音を伝える方がパウロらしいのではないか、と思ってしまいます。

 ところがパウロは、1112節でこう言います。あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしたちが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。――既に信仰を持った者たち同士が、与えられた信仰の賜物を分け合って、励まし合うことが大切なのであります。これは、信仰にも色々あって、少し違った信仰の話を聞いて、刺激を受け合うということではありません。神様の恵みから来た同じ信仰を、互いに語り合うことによって、慰められるし、力づけられるし、喜びを与えられるのであります。「霊の賜物」を分け合いたいと言っております。信仰が同じでも、「霊の賜物」は様々であります。コリントの信徒への手紙12章には、その「霊の賜物」のことが述べられています。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」と語った上で、「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。」(Ⅰコリント12410

――ここで挙げられている賜物の例は、教会の中での色々な務めや働きのことが述べられていて、色々な能力のことが言われているように聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、神様の恵みは信仰者に対して色々な形で現れるということであります。一人一人の置かれた状況の中で、信仰があることによって、神様の恵みは多様な形になって現れるのであります。そのことを語り合ったり、実際に見聞きしたり、更には賜物を生かし合うことによって、互いに力になったり、励まし合うことが出来るのであります。これが、パウロがローマに行きたいという強い願いを持っている第二理由であります。

 私たちが教会に行きたいと思い、また他の人に福音を宣べ伝えたいと思うのは、先ほど申したように、第一には礼拝において、御言葉を通して神の福音に与ることによって起こされることでありますが、第二の理由は、ここでパウロが述べているように、神様から受けた賜物を教会の仲間たちと分け合い、励まし合うことであります。それは、この世における如何なる親しい交わりや楽しい集いにおいても、得ることのできないものではないでしょうか。

3.ユダヤ人にもローマ人にも

 ところで、パウロのローマ行きの願いを駆り立てている理由は、ここまでに述べた二つだけではありませんでした。もう一つ大切なことがありました。それが13節から15節に書かれていることであります。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。
 パウロがこの手紙を書いたのは、第三回伝道旅行の終わりごろと考えられていますから、これまでに小アジアやギリシア地方の異邦人地域に福音を伝えていたのでありますが、更に、当時の世界の中心地ともいうべきローマにも伝道したいと考えるのは当然だと言えるかもしれません。しかし、これまでの伝道旅行でエルサレム教会のための献金を預かっていましたので、それを届ける役割もあって、すぐにはローマに向かうことができないのですが、それが済めば、何としてもローマにまで行き、更には、ローマを足掛かりにして、イスパニア(スペイン)にまで足を伸ばしたいと考えていたようであります。
 「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも」と言っております。当時、ギリシア人というのは、自分たちが世界文明の頂点に立っていると考えていて、他の者はみな未開人だと考えていたことが反映した言い方ですが、要は、地域的な広がりというよりも、民族や伝統の違いを超えたあらゆる人々に福音を伝える責任があると考えていて、そのことがパウロにローマ行きを駆り立てていたのであります。しかし、彼がそのような使命と責任を感じているのは、自分にそのような能力があるとか、キリスト教を世界宗教に導きたいとの野望を抱いていたということではなくて、先ほど第一の理由として述べましたように、福音の恵みに押し出されてということが根本にあるのでありましょう。

4.福音を恥としない

 しかし、福音を伝えるということは、意気込みや熱心さだけで出来るものではありません。福音に対しては必ず抵抗があります。つまずきがあります。愚かなことだと考える人がいます。そのことはパウロもよく分かっていて、コリントの信徒への手紙の中で、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(Ⅰコリント123)と言っております。けれども、パウロはそうした中でも福音を告げ知らせたいと言うのでありますが、その理由を1617節で述べます。
 ここは、このローマの信徒への手紙の主題を記した箇所であるとされていて、この2節だけで2回も3回も説教されることがあるくらいの有名な箇所なのですが、原文ではその最初に、「なぜならば」という言葉がついていて、15節までに述べた福音宣教の理由を語っている箇所なのであります。
 16節で、こう言っております。わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。――「福音を恥としない」という言い方は変わった表現でありますが、そもそも福音とは、十字架で死刑になった人が復活して人間の救い主になったという知らせのことですから、普通に考えれば愚かなことであり、そんなことを信じているのは恥ずかしいようなことなのであります。しかし、パウロはそれを「恥としない」と言い切っているのであります。ということは、パウロの気持からすれば、<むしろ、わたしは福音を誇りとしている>と言いたいのであります。コリントの信徒への手紙では、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント118)と言い、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(同125)と言っております。そして、ここでも、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言うのです。この「力」と訳されている言葉の原語はデュナミスと申しますが、これは「ダイナマイト」の語源になった言葉で、爆発的な力を表わしています。福音こそは、神から来た「力」なのであります。福音を聴いて力づけられるというようなことではなくて、福音自体に力があるのであります。福音が語られると、そこに救いが実現するのであります。
 次の17節は、福音がそのような神の力であると言うが、どこにそんな力があるのかということを説明しています。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。――十字架の福音には神の義が示されていて、それが神の力だと言うのです。「神の力」というと、奇跡的な出来事とか、強大な支配力のようなことをイメージするかもしれませんが、「神の義」が力だと言うのです。では、「義」とは何でしょうか。「義」とは「正しい」ということですが、「神の義」というのは、間違ったことをしないとか、勧善懲悪で、正しい者だけを受け入れ、間違った者を罰せられることというように考えてしまいますが、そうではなくて、神が、正しくない者をも、正しいと扱ってくださる、そのようにして神と人間との正しい関係を打ち立ててくださる、という神の救いの恵みのことが「神の義」なのであります。神様は独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架の贖いによって、罪によって破壊された神様と人間の関係を立て直してくださいました。そこに「神の義」が啓示されているのであります。そのことを信じることを通して、私たちにも救いが実現するのであります。「正しい者は信仰によって生きる」という言葉に鍵がついておりますが、これは先程旧約聖書の朗読で読んだハバクク書の24節からの引用です。(新共同訳では少し違う。)

結.「神の義」に押し出されて

 今日は、<パウロの宣教の熱意はどこから来るのか>ということを問いながら、パウロの言葉を聴いて参りました。その答えは、一言で言うなら、「福音を恥としない」ということであり、それは言い換えれば「福音を誇りとしている」からであり、なぜ、福音が誇りとなるかと言えば、そこに「神の義」が示されているからであります。そして、その「神の義」とは、私たちの罪を裁く正しさのことではなくて、むしろ私たちの罪を赦して、神様との正しい関係を取り戻させる正しさであることが分かったのであります。パウロはこのような「神の義」の福音に押し出されて宣教の業を行っているので、感謝とともに、誇りをもって、その業を続けることが出来るし、その熱意はしぼむことはないのであります。
 私たちも、もし福音を正しく受け止めているならば、同じことが起こる筈であります。福音は、私たちと神様との関係を変え、私たちを伝道へと駆り立てずには置かないし、私たちの生き方を変えずには置かないのであります。そのような福音の力を、神様は今日も私たちに注いでくださったのであります。感謝して祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストを通して私たちを救いへと導き給う父なる神様!
 尊い「神の義」の御業を覚え、賛美し、感謝いたします。
 私たちは、なお鈍感であり、福音に耳を開くことをせず、あなたの恵みに応えることの少ない者であります。どうか、お赦しください。どうか、あなたの恵みを素直に受け入れて、喜んであなたに全てを委ね、御旨に従うものとならせてください。
 どうか、力の乏しいものですが、宣教の御業の一端を担う者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年6月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙1:8-175
 説教題:「
福音を恥としない」         説教リストに戻る