今、これを聞くがよい 快楽に浸り、安んじて座る女よ。わたしだけ わたしのほかにはだれもいない、と言い わたしはやもめになることなく 子らを失うこともない、と心に言う者よ。   (イザヤ書478

 イザヤ書47章は、イスラエルの民が捕囚となっているバビロンが陥落する有様を、贅沢な暮らしをしていた娘が身を落として辱めを受ける様子で述べた「嘲笑歌」だと言われている。
 なぜ、バビロンは陥落するのか。それは、政治情勢の変化によるのではなく、宿命や不運によるのでもなく、「わたしは報復し、ひとりも容赦しない(3)と語られているように、神の御心による。では、バビロンのどこに問題があったのか。二つの理由が挙げられている。
 一つは、「わたしは自分の民に対して怒り わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐みをかけず 老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした(6)とあるように、イスラエルの民がバビロン捕囚となったのは、彼らが御言葉に耳を傾けなかったために下された主の怒りによる審きであったのだが、神はイスラエルを見捨てられたわけではなく、実は、深い愛をもって悔い改めに導こうとされていたのに、バビロンは彼らを憐れむことなく、老人にまでも軛を負わせるような無慈悲な扱いをしたからなのである。
 今一つの理由は、自分たちのことを「わたしは永遠の女王だ」と言い、「終わりの事を思わず(7)、標記のように、「わたしのほかにはだれもいない(810)と、あたかも自分が神であるかのように豪語するような傲慢になっていたからである。
 イザヤは、そんなバビロンの思い上がりが、神によって打ち砕かれることを嘲笑的に預言しているのであるが、私たちも、このようなバビロンを笑うことが出来ない現実があるのではないか。
 では、イスラエルも、私たちにも、笑いはなく、救いの喜びや希望はないのであろうか。そうではない。このイザヤの預言は、イスラエルを苦しめたバビロンの滅びが語られているのであり、その先にはイスラエルの民の救いの希望が約束されているのであって、その救いは、最終的にはイエス・キリストの贖いによって、すべての民の救いの道が開かれることを指し示しているのである。そこに、私たち信仰者の救いの希望がある。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年6月21日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書47:1-15 
 説教題:「
笑えない現実」 説教リストに戻る