序. バビロンの陥落を笑えるか

 今日与えられておりますイザヤ書47章は、小見出しに「バビロンの陥落」とありますように、イスラエルの民が捕囚となっているバビロンが陥落することを述べているのですが、その有様を、贅沢な暮らしをしていた娘が身を落として辱めを受ける様子で表現していて、陥落するバビロンを笑いものにする「嘲笑歌」だと言われています。
 4月に学びました46章の中でも、バビロンの偶像のことが述べられていましたが、バビロニア王国が崩壊の危機にさらされると、神の像を神殿の台座から降ろして、動物に負わせて運び出さねばならないではないか、そんな重荷になるようなものが救いになるのか、と皮肉っていました。それと同じように、47章ではバビロンが陥落して落ちぶれる様子を嘲笑しているのであります。13節を読みます。
 身を低くして塵の中に座れ/おとめである、娘バビロンよ。王座を離れ、地に座れ、娘カルデア(バビロンの別名)よ。柔らかでぜいたくな娘と呼ばれることは二度とない。石臼を取って粉をひけ。ベールを脱ぎ、衣の裾をたくし上げ/すねをあらわにして川を渡れ。お前は裸にされ、恥はあらわになる。わたしは報復し、ひとりも容赦しない。
 こういう調子が最後まで続くのです。しかし考えてみると、イスラエルの民はこのようにバビロンを嘲笑する資格があるのでしょうか。もちろん弱小国であるユダの民と強大なバビロニア帝国とは比べ物にならないのですが、ユダの民にも驕りがあり、傲慢なところがあって、それがバビロンによって徹底的に打ち砕かれてしまったのであります。ですから、イスラエルの民がバビロンを嘲笑する資格はない筈であります。それならば、イザヤは何故このような嘲笑の言葉をイスラエルの民に語るのでしょうか。どうしてバビロンを笑うことが出来るのでしょうか。そして、私たちもまた、バビロンやイスラエルの民を嘲笑する資格はない筈であります。私たちもまた、自分を高くし、他人を蔑む傲慢があります。我が国もまた、驕り高ぶったために、70年前に滅ぼされたのではなかったでしょうか。そのような私たちが、どうしてイスラエルやバビロンを笑うことが出来るのでしょうか。では、この嘲笑歌から私たちは何を聴き取るべきなのでしょうか。そのことを問いつつ、今日与えられた御言葉に耳を傾けて参りたいと思います。

1.贖い主、万軍の主、聖なる神

 まず注目したいのは、今読みました中の最後の3節後半からで、唐突に調子が変わって、「わたしは報復し、ひとりも容赦しない」と語られています。この「わたし」とは誰でしょうか。その答えが次の4節です。わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主、イスラエルの聖なる神、であります。バビロンに陥落の辱めをもたらせたのは、他でもなく「聖なる神」であると告げられているのであります。イザヤが個人的に、憎らしいバビロンに対して悪口を言っているのではないし、こうなればよいという憶測や希望を述べているのでもありません。バビロンの陥落は、宿命や不運によるのではなく、政治情勢の変化によるのでもなく、神の御心であると告げているのであります。
 しかも、その神様のことが、「わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主」と言われています。「贖い主(ガーアル)」という語の元の意味は奴隷などを「金を払って買い戻す」ことを指します。買い戻すために犠牲が払われるのであります。神様が犠牲を払ってイスラエルの民を買い戻されることが暗示されているのであります。また、「万軍の主」とは、<宇宙を創造し支配される神>を指す言い方ですが、ここでは13節で「天にしるしを見る者、星によって占う者、新月によってお前の運命を告げる者」と言われていることに目を向けた言い方ではないかと言われています。バビロンでは占星術が盛んに行われておりました。しかし、占星術によって色々な違う意見が出て、混乱を極めていました。それを皮肉りながら、宇宙の星々を支配される神こそが、バビロンをも支配しておられることを語っているのであります。

2.自分の民に対して怒り

 5節以降も「娘カルデア」即ち、バビロンに対する告発と審きが語られて参ります。沈黙して座り、闇の中に入れ、娘カルデアよ。諸国の女王と呼ばれることは二度とない。(5)――当時のオリエント地域を支配していたバビロニア帝国が滅亡するという、歴史の大きな転換が迫っていることを告げているのであります。それだけではありません。その後に、そのような大きな歴史の転換の理由が説明されています。二つの理由が挙げられています。一つは6節です。わたしは自分の民に対して怒り/わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐みをかけず/老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした。――

そもそもバビロン捕囚というのは、イスラエルの民が神様の御言葉に従わず、預言者の勧告にも耳を傾けなかったために下された、主の怒りによる審きでありました。バビロンは神様のその御心を行うために用いられたに過ぎません。イスラエルの民のことを神様はなお、「自分の民」、「嗣業の民」と呼んでおられます。神様はイスラエルを見捨てられたわけではなくて、深い愛をもって悔い改めへ導びこうとされていたのであります。そうであるのに、バビロンはイスラエルに憐みをかけず、老人にまでも軛を負わせるような無慈悲な扱いをしたので、バビロン陥落という事態になったのだ、と言われているのであります。「老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした」とありますが、前に聞いた46章の4節では、「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう」と述べられていました。これがイスラエルの民に対する神様の思いであります。バビロンはそのような神様の思いを理解しなかったために、滅亡に至らされるのであります。

 ここから私たちが聴き取らねばならないことは、「自分の民」であるイスラエルの民に対する神様の深い愛の御心であり、その御心は、キリストによって神の民とされた私たちに対するものでもあるということであります。

 私たちは、様々な困難に見舞われたり、自分の思い通りに行かない現状がある中で、神様がおられるのに助けてはくださらないのか、と疑問を抱いてしまいます。神の民である筈の教会の教勢は伸び悩むどころか減り続ける現状の中で、どうしてもっと豊かな恵みで満たしてくださらないのか、神様は私たちを愛していてくださらないのか、と不満や不平の心を抱いてしまいがちであります。しかし、そのような、いわばバビロン捕囚状態にされたのは、もともと、私たちの不信仰を悔い改める機会をお与えになるためであり、そのために異教の民であるバビロンをさえお用いになられるのであって、その御心の底には、神の民である私たちに対する深い愛があるのだということを思い知らなければならないのではないでしょうか。そして、神様はバビロンの行き過ぎた行為に対しては、ストップをかけられるということに希望を見出すべきなのであります。

3.わたしのほかはだれもない

 7節以下には、バビロンが陥落に至る第二の理由が述べられています。わたしは永遠に女王だ、とお前は言い/何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった。今、これを聞くがよい/快楽に浸り、安んじて座る女よ。わたしだけ/わたしのほかにはだれもいない、と言い/わたしはやもめになることなく/子を失うこともない、と心に言う者よ。その二つのことが/一日のうちに、瞬く間にお前に起こり/子を失いやもめとなる苦しみが/すべてお前に臨む。どれほど呪文を唱え/どれほど強いまじないをしても無駄だ。(79)――娘バビロンは自分のことを「永遠に女王だ」と言い、「終わりの事を思わず」、「わたしだけ、わたしのほかにはだれもいない」とまで豪語するような傲慢の中にあって、「やもめになることなく、子を失うこともない」と言っているのだけれども、その二つのことがお前に臨む、と述べられています。バビロンの傲慢が陥落に至る第二の理由であります。
 10節以下も同様であります。お前は平然と悪事をし/「見ている者はない」と言っていた。お前の知恵と知識がお前を誤らせ/お前は心に言っていた/わたしだけ/わたしのほかにはだれもいない、と。だが、災いがお前を襲うと/それに対するまじないを知らず/災難がふりかかっても、払いのけられない。思いもかけない時、突然、破滅がお前を襲う。まじないと呪文の数々をもって立ち向かえ。若い時から労して身につけたものが/あるいは役に立ち/それを追い払うことができるかもしれない。(1012)――ここではバビロンが「知恵と知識」を誇っているけれども、その知恵や知識も、「災いを払いのけられず」、「破滅が襲う」と言われ、12節では皮肉たっぷりに「若い時から労して身につけたものが、あるいは役に立つかもしれない」と語っていて、更に13節以下は、バビロンで盛んに行われていた星占いや呪文によっても救われないことを述べて、彼らが頼りにしているものの無力さが強調されています。
 これらの中で8節と10節に同じ言葉があります。「わたしだけ/わたしのほかにはだれもいない」という言葉です。これはバビロンが自らを絶対化して豪語している言葉であります。バビロンが陥落に至る理由は、この言葉に現れている彼らの傲慢であります。ところが、この言葉とほぼ同じことが45章では三回繰り返されていて(5621)、「わたしが主、ほかにはいない」と神様が唯一のお方であることが述べられているのであります。つまり、バビロンが自分を神様と等しくするほどに誇り高ぶって傲慢になっていることが、この言葉によって示唆されているのであります。そしてイザヤは、そんなバビロンの思い上がりが、神様によって打ち砕かれると言っているわけであります。
 しかし、このようなバビロンを私たちは嘲笑することができるのでしょうか。バビロンは自らの力と権威を誇り、占星術など当時の最高の知恵に頼って、傲慢になっておりました。そして、神の民であるイスラエルの民を侮り、老人など弱い人たちにまで、軛を負わせておりました。そんなことは、現代の私たちも陥りがちなことであります。私たちは神様という大きな存在を認め、重んじることをいたしません。私たちは科学知識など人間が造り出した知恵が、私たちを根本において救うことに対して、いかに無力であるかを認めようといたしません。私たちは神様のお力や御言葉を謙虚に受け入れようとはせず、自分の正しさを主張し続け、自分の弱さ、自らの罪を認めようとしません。今日の説教の題を「笑えない現実」といたしましたが、私たちの現実は決してバビロンを笑うことなど出来ない状態なのであります。イザヤがバビロンに投げかけた嘲笑の言葉は、現代の私たちにも帰って来るのでありますし、イスラエルの民にも帰って来る言葉であります。
 では、イスラエルにも私たちにも、笑いはないのでしょうか。救いの希望や喜びはないのでしょうか。

4.あなたの造り主があなたの夫に

 この47章は、初めから終わりまで、殆んど厳しい告発と審きの言葉で覆われています。これを私たちへの厳しい御言葉として聴き取る必要があります。しかし、ここにはイスラエルの民を苦しめていたバビロンの滅びが語られているのであります。ここには「万軍の主」であり、「贖い主」である「イスラエルの聖なる神」こそが歴史を導いておられる主人公であり、その方がバビロンを滅ぼされることが語られているのであります。そして、その先にはイスラエルの民の救いの希望があるのであります。
 その救いの希望について、このイザヤ書の他の箇所では色々な形で述べられますが、今日は54(1150)の言葉を聴きたいと思います。

 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。

 歓声をあげ、喜び歌え

 産みの苦しみをしたことのない女よ。

 夫に捨てられた女の子供らは

 夫ある女の子供らよりも数多くなると

   主は言われる。

 あなたの天幕に場所を広く取り

 あなたの住まいの幕を広げ

 惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。

 あなたは右に左に増え広がり

 あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ

 荒れ果てた町々には再び人が住む。

 恐れるな、もはや恥を受けることはないから。

 うろたえるな、もはや辱められることはないから。

 若いときの恥を忘れよ。

 やもめのときの屈辱を再び思い出すな。

 あなたの造り主があなたの夫となられる。

 その御名は万軍の主。

 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神

 全地の神と呼ばれる方。

 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように

 主はあなたを呼ばれる。

 若いときの妻を見放せようかと

 あなたの神は言われる。

 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが

 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。

 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが

 とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと

   あなたを贖う主は言われる。

 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。

 再び地上にノアの洪水を起こすことはないと

   あのとき誓い

 今またわたしは誓う

 再びあなたを怒り、責めることはない、と。

 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。

 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず

 わたしの結ぶ平和の契約は揺らぐことはないと

   あなたを憐れむ主は言われる。   (イザヤ54110

 ここでは、「不妊の女」と「夫に捨てられた女」の譬えによって、捕囚の身から解放されたシオン(エルサレムの都)が多くの子供に恵まれて復興することが告げられています。5節では、「あなたの造り主があなたの夫となられる」と言われています。神様御自身が、夫に捨てられた女の夫となって、「夫ある女の子供らよりも多くなる」のであります。捕囚の恥から解放されるのであります。
 5節の23行目には、今日の箇所の4節にあったのと同じ言葉を使って神様のことが述べられています。「その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神」。そして、その後にも、「深い憐み(7)とか、「慈しみ(810)とか、「贖う主(8)という言葉が続きます。捕囚からの解放には、神様の深い憐みと慈しみ、そして贖いの恵みがあるということです。ここにイスラエルの救いの希望があります。そして、私たち信仰者の救いの希望もあります。

結.笑え、喜び歌え

 それだけではありません。今日の47章は直接にはバビロンの陥落を述べたものであり、そのことによって、イスラエルが解放されることを間接的に語っていたのでありますが、それでは、バビロンは永遠の審きを受けたままなのでしょうか。9節にはノアの洪水の後に神様が誓われた、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」という誓いを「今また誓う」と言われています。これは、バビロンをも含めた全ての民の救いへの広がりを指し示しているのではないでしょうか。以前に聞いた45章の中にも、「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ」(4522)と語られていました。異邦人を含むすべての民の救いが視野に入っている言葉であります。
 私たちは皆、バビロンの陥落を笑えない者たちであります。傲慢の故に滅ぼされるべき者たちであります。しかし、54章では「喜び歌え」と言われています。憐みの神は、最終的には主イエス・キリストを遣わしてくださって、その贖いの故に、私たちをも笑える者、喜び歌うことのできる者にしてくださったのであります。
 この恵みを感謝して、祈りましょう。

祈  り

憐れみ深く、慈しみに富み給う、贖い主なる聖なる神様!
 私たちはバビロンと同じく傲慢であり、イスラエルと同じく不信仰な者たちであります。厳しいあなたの裁きを受けなければならない者たちであり、滅ぼされるべき者たちでございます。
 しかし、そのような者をも、憐みの故に、お見捨てになることなく、救い主イエス・キリストの贖いによって、罪を赦し、救いに入れてくださるという、恵みに満ちた御心を覚えて、感謝いたします。
 どうか、浅はかな人間の知恵や偽りの慰めに惑わされることなく、主の御言葉に耳を傾け、そこに示された御心を信頼し、つき従って行く者とならせてください。どうか、一人でも多くの人々が、あなたと出会い、あなたの救いに加えられますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年6月21日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書47:1-15
 説教題:「
笑えない現実」         説教リストに戻る