「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。」
                            (マルコによる福音書817 

 主イエスは三日も一緒にいた四千人もの群衆を憐れんで、七つのパンと少量の魚を配らせて満腹させるという奇跡(しるし)を行われた。だが、その「しるし」の意味を、弟子たちはよく悟っていなかった。
 ファリサイ派の人々は、主イエスが神の子・救い主であることの「しるし」を求めて、議論をしかけて来た。すると主は、深く嘆いて、「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と言われた。ファリサイ派の人々は、これまでに何回もイエスと論じ合い、奇跡の業を見聞きしているのに、主イエスの深い憐みの御心を受け入れようとしない頑なさがあった。これは彼らだけでなく、「今の時代」の私たちも同じことである。だが、この主の言葉は、頑なで不信仰な者を切り捨てる宣言ではなく、悔い改めることへの強い招きが込められているのではないか。
 また、弟子たちが、主と共に舟に乗って向こう岸に向かっていたとき、主は、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われた。これは、彼らの律法主義や現世主義に弟子たちが惑わされないようにとの警告であると思われるが、弟子たちは、食糧として一つのパンしか持っていないことを批難されたと思って、誰が悪いなどと論じ合っていた。それに気づいた主イエスは、標記のように言って、厳しく叱責された。弟子たちは、すぐ前に行われたパンの奇跡のことを忘れていたわけではないが、その「しるし」の意味することを理解していなかったからである。主イエスは単に不思議な業を行われたのではない。主は、そこに集まっていた人々のことを、どれほど深く憐れまれ、愛しておられたかを悟っておらず、弟子たちのことも同じ愛と憐れみをもって気遣っておられたかを知るべきであった。主イエスは別の折に、「わたしは命のパンである」と明言しておられる。それは、御自分の体を十字架の上で私たちの罪の贖いのために提供しようと考えておられることを意味する。弟子たちは、その「一つのパン」であるお方と共にいることの幸いを悟っていなかったのだ。教会は、ただ一つの真実のパンであるイエス・キリストと同じ舟に乗っている。私たちは、この「しるし」を持っているので、何の不足もないどころか、魂の満腹を得ることができるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年6月14日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書8:11-21 
 説教題:「
しるしを求める過ち」 説教リストに戻る