序. 主イエスの嘆きと叱責は何故?

 今日、私たちが聴くべく与えられています御言葉は、マルコ福音書811節から21節の箇所であります。ここは二つの段落に分かれていて、前の1113節の段落は、しるしを求めて議論を仕掛けてきたファリサイ派の人々に対して、主イエスが心の中で深く嘆いて、「決してしるしは与えられない」と言われて去られたことが書かれており、後の1421節の段落では、主イエスが弟子たちに「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」と言われたことで、自分たちがパンを一つしか用意していなかったことを戒められたと思って論じ合っているのを見て、「まだ、分からないのか、まだ悟らないのか」とお叱りになったことが書かれています。ファリサイ派の人々に対する主イエスの「嘆き」と、弟子たちに対する主イエスの「叱責」が書かれている箇所であります。
 なぜ、主イエスはファリサイ派の人々を嘆かれ、弟子たちを叱責されたのでしょうか。彼らのどこに問題があったのでしょうか。それは当時の彼らの特殊な問題なのでしょうか、それとも今の時代の私たちにも共通する問題なのでしょうか。――この点をはっきりと把握しないと、今日の箇所から主イエスの御言葉を聴き取ることは出来ません。
 今日の箇所はどちらも、すぐ前の四千人の人が満腹したという主イエスがなさった奇跡の出来事と関係があるようですし、6章にあった五千人の人が満腹した奇跡や、その後のファリサイ派の人々との議論、更には異邦人の地方で行われた癒しの奇跡の出来事に対する受け取り方と関係があるようです。ここで「しるし」のことが問題にされていますが、「しるし」とは奇跡のことであります。奇跡というのは、単に驚くべき出来事ではなくて、それによって大事なことを指し示す「しるし」でありますが、その「しるし」が正しく受け止められていないということに問題がありそうです。主イエスの「しるし」は私たちに何を示そうとしているのか。それを聴き取って参りたいと思います。

1.決してしるしは与えられない

 まず、ファリサイ派の人々ですが、11節によると、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた、とあります。ファリサイ派の人たちは、主イエスが安息日に人を癒したことや、弟子たちが手を洗わないで食事をしていることが、律法や言い伝えを守らないことになるとして、主イエスを批難して来ました。その後、彼らも主イエスの癒しの奇跡や、大勢の人にパンをお与えになった奇跡を見聞きしたに違いありません。しかし、彼らは主イエスに対する評価や判断を変えようとはせずに、主イエスが神の子であり救い主であることがはっきりするような、もっと確かな「天からのしるし」を示すようにと、議論をしかけてきたのであります。彼らの狙いは主イエスを(おとし)めることであって、どんな素晴らしいしるしを見聞きしても、自分の方を変えようとはしないという「頑なさ」が彼らにはあります。
 この要求に対して主イエスは、心の中で深く嘆かれました。この「心の中で」と訳されている言葉は「霊において」という言葉で、「深く嘆いて」という言葉は734節で「深く息をつき」と書かれていた言葉に近くて、単なる溜息ではなくて、深刻な呻き、苦悩を表わす言葉であります。主イエスは、彼らの頑なで不信仰な要求に、深く心を痛められたのであります。それは、単にファリサイ派の人たちの不信仰に対してということではありませんでした。主イエスはこう言っておられます。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」――「今の時代」と言っておられますが、これは主イエスが地上におられた当時のことだけを言っておられるのではありません。終わりの日が来るまでの間の時代のことで、今も続いている不信仰な時代のことであります。主イエスは数々のしるしを与えられました。パンの奇跡も行われました。それは、御自分の体を差し出すことによって私たちの魂を満腹させてくださるということの「しるし」でありました。そして、最終的には、十字架において、現に御自分の命を差し出してくださるのであります。しかし、そんなしるしも、ファリサイ派の人たちや不信仰な「今の時代の者たち」には届かない、という厳しいお言葉であります。13節には、そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた、とあります。主イエスはファリサイ派の人たちを残して、去ってしまわれたのであります。「しるし」を求めて自分を変えようとしない、頑なで不信仰な者は、こうならざるを得ないということが鋭く示されています。しかし、これは、単に、頑なで不信仰な者を切り捨てるという宣言ではないでしょう。主イエスの深い嘆きの先には、ファリサイ派の人たちに対する熱い思いが込められているのではないでしょうか。彼らが悔い改めることへの、強い招きが込められているように思います。

2.パン種に気をつけなさい

 さて、こうして主イエスの一行は、舟に乗って湖上に出たのですが、弟子たちはうっかりしていたのか食糧を準備する時間がなかったのか、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていませんでした。そんなときに主イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。「パン種」というのは、粉を膨らせてパンにするイースト菌のことです。ここではそれが悪い意味で用いられています。下手をすると酸いパンになってしまいます。ファリサイ派の人々は、敬虔で熱心そうですが、偽善に満ちています。中に入ると全体を破壊してしまいます。「ヘロデ」というのは、バプテスマのヨハネを殺害したヘロデ王のことか、或いはヘロデ王を支持するヘロデ派と言われる人々のことでしょうが、彼らはユダヤ教を信奉しておりますが、現世的・世俗的で、悪に満ちていました。彼らはファリサイ派と共に、主イエス殺す相談をしていたことが36節には書かれていました。

 主イエスがファリサイ派とヘロデのパン種に気を付けるように言われたのは、このような律法主義と現世主義が弟子たちの中にも入り込んで来ることに警戒するように言われたのでありますが、それは予防的に言われたというよりも、既にここまでの弟子たちの対応の中に、危うさを感じておられたのでありましょう。

3.まだ悟らないのか

 しかし、弟子たちは「パン種」という言葉を聞いて、自分たちがパンの準備を怠ったことを批難されたと勘違いして、誰が悪いなどと論じ合っていたのでしょう。それに気づいて主イエスはおっしゃいました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」こう言いつつ、先の五千人が満腹した出来事と、四千人が満腹した出来事のことを思い起こさせなさいます。そして、そんな体験をしたのに、「まだ悟らないのか」と言って、厳しく叱責されたのであります。

 二回の満腹の出来事では、弟子たちはこれだけ大勢の人にパンを供給することは不可能だと申しましたが、主イエスは五つないしは七つのパンで、全員を満腹させられたばかりか、パン屑を集めると十二、或いは七つの籠がいっぱいになったのでありました。その驚くべき体験を弟子たちは忘れていたわけではありません。パン屑でいっぱいになった籠の数まで正確に覚えていました。では、弟子たちは何を悟っていなかったのでしょうか。

 それは、いざとなれば主イエスが必要な量を超えて有り余るほどのパンを用意してくださる、ということであります。それにしても、二回の奇跡の体験をしているのに、なぜ、彼らはこの時、そのことを思い起こすことが出来なかったのでしょうか。不思議な気がいたしますが、人間の不信仰とはこういうものだということではないでしょうか。

彼らは、決して出来事そのものを忘れていたわけではなくて、パン屑でいっぱいになった籠の数まで覚えていました。しかし、主イエスがそこに集まっていた人々のことをどれほど憐れまれ、愛しておられたか、彼らのために腹の底から湧き上がるような思いをもって、対処されたということが、丸っきり分かっていなかったということであります。そして、その同じ愛と憐みの思いをもって、弟子たちのことを危ぶみ、心配しておられることが分かっていないということではないでしょうか。そこには、弟子たちのためにも、御自分の肉を裂き、血を流されて、命さえも惜しまれない御心があります。

 この主イエスの「まだ悟らないのか」という叱責の御言葉は、私たちにも向けられたお言葉ではないでしょうか。私たちは、日頃の生活の中で多くの恵みを与えられております。困ったとき、切羽詰まったときに、助けられた経験も、何度もしているかもしれません。しかし、そこに主の大きな憐れみと痛みが働いていることを悟らないのであります。罪深く不信仰な私たちのために、御自分の命をも削ろうとしてくださる主の痛みと赦しがあったことを悟らないのであります。

 主イエスは弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」とおっしゃいました。これは、彼らの中にも律法主義や現世主義が入り込むことに対する警告だということとを申しました。この警告も、弟子たちだけに対するものではないのではないでしょうか。私たちも、ファリサイ派の人たちのように、自分は正しい、他人に後ろ指を指されない生き方をしていると主張して、他人を批難していることが多いのではないでしょうか。また、ヘロデ党の人たちのように、現世利益を求めて、この世の楽しみを確保することで、全てを主イエスに委ねる信仰生活へと踏み切ることが出来ないでいるのではないでしょうか。それらは、弟子たちと同じように、裏切りへとつながるのであります。そのことが主イエスにはお見通しなので、ここで弟子たちを戒められるかたちで、私たちにも警告を発しておられるのではないでしょうか。主は、弟子たちの救いのためにこそ、十字架への道を歩まれたのであります。そのことをまだ悟らないのか、と今、私たちに問いかけておられるのであります。

結.ただ一つのパン

 ところで、弟子たちは必要なだけのパンを用意することを忘れていたのでありますが、「舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなっかった」とあるように、パンが一つもなかったのではなくて、一つは持っていたのであります。彼らは主イエスと共に、一つの舟に乗っていました。そこに、一つのパンがあったのであります。ヨハネ福音書の中で主イエスは、「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ635)と言われ、更に、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ651)と言われました。舟は教会を象徴的に表わすものと受け止められています。そこに命のパンである主イエスが一緒に乗っておられるのであります。舟の中で主イエスと一緒にいる弟子たちに語られた記事が三つあります。一つはマルコ福音書435節以下で、一行がガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとした時に、突風が起こって、弟子たちは恐怖におびえたのですが、主イエスは艫の方で枕をして眠っておられました。弟子たちに起こされた主イエスは風を叱って、「静まれ、黙れ」と言われ、そのあと弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とおっしゃいました。二つ目は、マルコ福音書645節以下で、これは五千人が満腹した出来事の直後でしたが、主イエスを陸地に残して弟子たちだけで漕ぎ出した時に、逆風のために漕ぎ悩んでいると、主イエスが湖の上を歩いて来られて、弟子たちは幽霊だと思ったのですが、主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃって、舟に乗り込まれると、風は静まりました。そして続けて、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と記されていました。そして、三つ目が今日の箇所であります。場面はやはり主イエスと弟子たちが一緒に乗っている舟の上でありました。そこに「一つのパン」があったのであります。それで十分であります。それで悟るべきであったのです。
 最後に、コリントの信徒への手紙の中で「パン種」についてパウロが述べていることを聴きましょう。(p305)「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(Ⅰコリント568)――教会は、ただ一つの真実のパンであるイエス・キリストという命のパンを持っているのであります。このパンを持っているなら、何の不足も恐れもありません。 祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い主イエス・キリストの父なる神様!
 今日も私たちの真ん中に主イエス・キリストを遣わし給うて、命の御言葉のパンを与えてくださいましたことを感謝いたします。
 この恵みを忘れて、他のしるしを求めてしまう私たちの罪を、どうか、お赦しください。どうか、この教会という舟の中で、主と共にあることの幸いを確信する者とならせてください。どうか、私たちを押し流そうとする時代の波にも、襲いかかる様々な苦難の逆風の中にも、恐れることなく、主を信じ続ける者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年6月14日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書8:11-21
 説教題:「
しるしを求める過ち」         説教リストに戻る