「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」  (マルコによる福音書823

 6章にあった、五千人に食べ物を与えた記事と、8章の、四千人に食べ物を与えた記事とは、出来事の大きな流れは殆んど同じであるが、大きな違いは前回がユダヤ人の地域であるガリラヤで行われたのに対し、今回はガリラヤ湖東岸の異邦人地域で行われたことである。
 前回に主イエスは、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」、五つのパンと二匹の魚で、五千人を満腹させられたのであるが、今回も、標記のように、「群衆がかわいそうだ」(ここで用いられている語は、「深く憐れみ」と同じ言葉で、はらわたの底から湧き上がるような憐みの心を表わす)と言っておられる。ユダヤ人に対してと同じように異邦人に対しても深い憐みの思いを抱かれたのだ。主は御言葉によって、彼らの霊的な空腹を満たされただけでなく、肉体の空腹のことにも心を用いておられるのである。
 だが、弟子たちは、前回とは異なり、自分たちの方からは申し出ず、むしろ、人里離れた所で人々に食べさせることの不可能性だけを考えている。ここに彼らの狭い心と不信仰が表われている。私たちも、周りにいる、様々な悩みや問題を抱えた人たちに対して、同じような態度をとっていて、主イエスの憐みの心を共有していないのではないか。
 主は、弟子たちの持っていた「七つ」のパンを配るように命じられ、四千人の人々はそれを食べて満腹し、残ったパン屑を集めると「七籠」にもなった。主は弟子たちが持っていたわずかのものを活かして、大きく用いられたのである。主は私たちが差出す小さな奉仕の働きを大きく用いてくださるに違いない。ここで「七つのパン」と「七籠」とあるが、「七」は完全数であり、異邦人を含めて世界中の人々が主イエスの溢れるばかりの憐れみを受けることが指し示されている。
 主イエスはパンを配るとき、「パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き」、弟子たちにお渡しになった。これは聖餐の仕草につながっている。それは、主イエスが十字架で体を裂いて罪の贖いとなられたことを表わしているが、主の深い憐みからなされたその救いの御業は、異邦人を含むすべての人々の救いにつながっているのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年6月7日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書8:1-10 
 説教題:「
キリストが与える満腹」 説教リストに戻る