序. 二度目のパンの奇跡

 今朝与えられております聖書の箇所には、七つのパンと少しの魚で四千人が満腹したという奇跡が書かれています。これと殆んど同じ記事が、630節以下にもありました。そこでは、五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹したという奇跡で、パンの数や満腹した人の人数、パン屑を集めた籠の数が少し違いますが、出来事の大きな流れは殆んど一緒です。人里離れた所で、主イエスの話を熱心に聞いている群衆。それが長時間に及んで、食事をどうするかという問題が持ち上がる。弟子たちは、こんな人里離れた所では、調達するのは無理だと考える。ところが主イエスは食べ物がどれだけあるかを調べさせる。弟子たちがわずかなものしかないことを答えると、主イエスは人々を座らせ、わずかのパンと魚を取って、感謝の祈りを唱えて弟子たちに配らせられる。すると全員が満腹し、残ったパン屑を集めると、多くの籠がいっぱいになった、という流れであります。
 この二つの出来事は、本当は一回しかなかったのだけれども、語り伝えられているうちに、少し変わって、二つの出来事のようになってしまったのではないかとも考えられます。このマルコ福音書とマタイ福音書では二回とも記していますが、ルカとヨハネ福音書は一回だけしか記していません。しかし、マルコとマタイが、良く似ていることを承知の上で、二回記していることには、深い意味があるように思います。というのは、良く見ると、二つの出来事が行われた場所が少し違うのであります。五千人が満腹した6章の出来事はガリラヤ地方で行われたと考えられるのに対して、今日の四千人が満腹した8章の出来事は、7章からの続きで考えると異邦人の地で行われた出来事と考えられるのであります。ということは、6章の奇跡がユダヤ人を対象にして行われたのに対して、今日の8章の方は、異邦人を対象にした出来事であったらしいのです。今日は、その違いを鍵にして、6章とは異なるメッセージを聴き取ることが出来たらと考えています。

1.「群衆がかわいそうだ」

 8章の方の出来事がどこで行われたかということは、今日の箇所の中には記されていませんが、先週に学んだ7章の31節には、主イエスはガリラヤ湖の東側のデカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖へやって来られたということが書いてあって、異邦人地帯で耳が聞こえず舌の回らない人のいやしの業を行われたのでありました。そして、今日の箇所の最後には、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタ地方に行かれたとありまして、これはガリラヤ湖の西岸の町であります。こうしたことから、今日の四千人に食べ物を与えられた出来事は東岸の異邦人地帯で行われたと考えるのが自然であります。一方、五千人に食べ物を与えられた出来事は、ルカ福音書ではベトサイダと書かれていて、ガリラヤ湖の西岸のユダヤ人の地域であります。
 このように出来事そのものは極めて似ているのですが、先にはユダヤ人に対して行われたのに対して、今回は異邦人に対して行われたということで、同じようなことを、ユダヤ人だけではなくて異邦人に対しても行われたということをマルコは言いたいがために、省略せずに二つとも書き記しているのだと考えられるのであります。
 「出来事そのものは極めて似ている」と申しましたが、よく見て行くと微妙に違っています。1~3節にはこう書かれています。群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」――6章の方では、弟子たちの方が、時間がだいぶたったので、人々を解散させて、自分で食べる物を買いに行かせることを提案しましたが、ここでは主イエスが先に食べ物のことを心配しておられるのであります。また、6章では一日のうちでだいぶ時間がたったということであったのに対し、こちらでは三日もたっているのであります。それなのに、こちらでは弟子たちの方からは何も言い出さなかったのであります。なぜでしょうか。それは、また言い出せば、前回のように、自分たちが食べ物を調達するように命じられることを恐れたのかもしれませんし、集まっている群衆が異邦人であってユダヤ人でなかったので、弟子たちの心の中では、差別的な思いがあったのかもしれません。ところが、注目したいのは、主イエスが「群衆がかわいそうだ」と言っておられることです。6章の方でも、主イエスが「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」と書かれていて、ここの「かわいそうだ」という言葉は6章の「深く憐れみ」と同じ言葉で、その語源は、これまでもたびたび説明していますが、「はらわた」という言葉で、お腹の底から湧き上がるような憐れみの心を表わしているのであります。つまり、ユダヤ人に対してと同じように、異邦人たちに対しても、主イエスは深い憐みの思いを抱かれたということであります。その憐みは、ここでは群衆が三日も一緒にいるのに食べ物がないことについてだけのような書き方になっていますが、裏返せば、群衆は食べ物のことなど忘れるほど熱心に主イエスから霊的な賜物を受けることを求めて、三日も主イエスについて来たのでありますから、真の神様を知らない異邦人たちの霊的な空腹を主イエスは強く感じ取られて、深い憐みを抱かれたのではないでしょうか。しかし、主イエスは霊的な空腹について憐れまれただけではありません。肉の食べ物がない空腹をも心配しておられるのであります。群衆は、肉体の空腹のことも忘れて主イエスの言葉を聞いていたのかもしれません。しかし、主イエスは群衆や弟子たちよりも先に、肉体のことも配慮しておられるのであります。渡辺信夫先生は、このことを「キリストはこの集会の中心であられただけでなく、帰り道の主でもあられます」と記しておられます。イエス・キリストは日曜日の主であるだけでなく、ウイークデーの世俗の営みに帰って行く者たちの主でもあり、そのためにも心を用いてくださるお方である、ということであります。

2.「これだけの人に?」

 さて、このような憐れみに満ちた主イエスのお言葉に対して、弟子たちは4節でこう答えています。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」――6章では弟子たちは「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言いました。それに対して主イエスは、パンがいくつあるかを確かめさせて、五つのパンと二匹の魚があるのが分かると、それを取って祈ったあと、弟子たちに配らせると、すべての人が満腹したのでした。弟子たちはその出来事のことを忘れてしまったのでしょうか。次週に学ぶ17節で、主イエスは弟子たちに、「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか」と厳しいお言葉を発しておられます。今日の箇所での主イエスのお気持ちも同じだったのではないでしょうか。弟子たちも6章の出来事で体験した驚きの御業のことを忘れている筈がないのでありますが、ここでも自分たちが苦労しなければならないこと、そして、自分たちの可能性だけを考えて、主イエスのお気持ちに応えようとはせず、主イエスがわずかなものさえ用いて大きなことをしてくださるお方であるという信頼が消えてしまっているのであります。この弟子たちの言葉には、彼らの狭い心と不信仰が表われています。

 私たちもまた、この弟子たちのような姿になっていないでしょうか。私たちの周りにも、色々な悩みや問題を抱えた人たちが大勢います。心と霊的な空腹を抱えつつ、真の神様を知らない異邦人の方々が教会の外には沢山おられるし、救いを求めて教会にやって来られる方々の中にもおられます。心を病んで苦しんでおられる方も多くおられます。ご本人たちは、その空腹を満たすのが主イエスであることに、まだ気づいておられないかもしれません。そうした人たちのために私たちが主イエスに執り成す役目があります。それが弟子の務めであります。しかし、私たちは、そうした人たちが抱えている問題の深さと、そうした人たちの多さにのみ目を奪われて、自分たちの力ではどうしようもないことを嘆くだけに終わっていないでしょうか。弟子たちが「いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言ったのと同じような嘆きの言葉を発するだけで、主イエスの憐みの心を理解せず、主イエスに信頼することからこそ解決の道が開けることを忘れてしまっていないでしょうか。

 では、そんな不信仰な私たちや弟子たちしかいない中で、助けを要する人々が抱えた問題に、主イエスはどう対処されるのでしょうか。お前たちは当てにならないからと、御自分で奇跡的なお力を振るって、パンを用意されたのでしょうか。そうではありませんでした。5節にあるように、主イエスは弟子たちに「パンは幾つあるか」とお尋ねになります。おそらく弟子たちは自分たちの食糧として持参して来ていたのでしょう。けれども弟子たちは、自分たちが持っているわずかなパンがこの大勢の群衆の空腹を満たすには何の役にも立たないと思っていましたし、それは自分たちのものだから確保しておきたいとさえ考えていたのかもしれません。しかし、主イエスはそんな弟子たちのパンを用いようとなさるのであります。弟子たちは、「七つあります」と答えます。6章の場合は五つのパンでしたが、今度は「七つ」です。「七」という数字は完全数とされ、創造の御業が七日で完成したように、「七」は成就や完結を表わしていました。この場合にそれを当てはめるのはこじつけの感もいたしますが、少なくとも福音書の記者は、七つのパンが群衆の「満腹」につながったことを意識しながら書いたに違いありません。そのことはともかく、ここで大切なことは、弟子たちにとっては役に立たないと思われた七つのパンが、主イエスの手に渡ると、無限の力を持つものに変えられるということであります。私たちも、自分の手許にあるもの、自分たちの力だけを見て、神様の御力のことを忘れてしまって、無力さを嘆くのでありますが、神様は私たちの小さな持物を大きく用いてくださるのだということを、この箇所から学ばなければなりません。神様は無から有を創り出すお方であり、石をパンに変えることもできるお方でありますが、主イエスは弟子たちが差し出すわずかのパンを生かして用いてくださったように、私たちが差し出す小さな奉仕の働きを用いて、人々の心と体の空腹を満たす救いの御業を成してくださるのであります。

3.異邦人の救い

 さて、主イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになりました。この仕草は、普段、弟子たちと食事をとられるときの仕草でありますし、先の五千人が満腹した時も、この後の最後の晩餐の時も、そして復活して弟子たちに現れられた時にも同じようにされました。ここでは、その同じ仕草が、異邦人の群衆のために行われたのであります。マルコ福音書の記者は、6章と同じことがこの異邦人のためにも行われたことを言いたいがために、ここにも同じように書き記しているのであります。
 7節には、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われたことが書かれています。加藤常昭先生の説教では、ここで外国の説教者の説教を紹介されていて、この時はパンだけでも十分であったのであろうが、弟子が差し出した小さい魚も分けてくださったのは、日本風に言うと、主食だけでなく、おかずをつけてくださったと書いているそうで、そこにも主イエスの深い憐れみと愛が込められていると言うのです。また、ある人(ファウスティ)は、魚というのは水中に住んでいて、地上に引き上げられると死んで、人間の食べ物になるが、その魚はキリストの犠牲を映し出している、とも言っております。こうしたことは、一つに解釈に過ぎないとも言えるのですが、いずれにしても、小さい魚をも賛美の祈りをもって配らせられたことは、人々に対する主イエスの憐れみから出た行為であることは間違いないことであります。
 次に8節ですが、こう書かれています。人々は食べて満腹したが、残ったパン屑を集めると、七籠になった。――ここでは二つのことに注目したいと思います。一つは「パン屑」という言葉から思い出すことですが、72430節の「シリア・フェニキアの女」の記事で、彼女は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」という謙遜と機知に富んだ言葉を申しました。異邦人のこの女は、本来はいただくことが出来ない恵みだけれども、子供のパン屑でもよいからいただきたい、ということを言ったので、その言葉を主イエスは喜ばれて、娘に取りついた悪霊を追い出されたのでありました。
 ここではその「パン屑」を集めると七籠になったというのです。ここにも、少しのものを大きくしてくださる主イエスの溢れるばかりの恵みが表わされています。
 もう一つ注目したいのは、ここでもまた、「」という数字が登場していることです。6章の記事では「十二の籠にいっぱいになった」とありました。数字の上では今回は前より少ないですが、前の「十二」という数字は、イスラエルの中に部族を表わしており、今回の「七」は、先ほどと同じく完全数であって、ここではイスラエルの十二部族に限らない全ての民を表わしていると解釈される数字であります。つまり、ここでも異邦人を含めて世界中の人々が主イエスの溢れるばかりの憐れみを受けるということが指し示されているのであります。
 9節には、イエスは彼らを解散させられた、と書かれています。6章では弟子たちが先に群衆を解散させることを提案しましたが、ここでは主イエスが先に群衆の空腹を気遣われて、パンを提供なさったのでありますが、その後には、彼らを主イエス自らが解散させられたのであります。人々はパンの奇跡を目の当たりにして、霊肉ともに満たされて、いやが上にも主イエスに対する期待が高まり、このままの状態が続くことを願ったのではないかと思われますが、主イエスは解散させられるのであります。そして、現実の生活の中に戻るようにさせられるのであります。
 私たちも、教会に来て、御言葉の食べ物をいただいて、霊的な空腹を満たされるのでありますが、そこにいつまでも留まっていることは許されません。教会から出て行って、日常の生活に戻るのであります。しかし、日常に戻ることによって、弟子たちのように、恵みの出来事を忘れてしまっては何もなりません。霊的な恵みをいただいた者たちは、日常の生活の中で、それを生かすことが出来る筈であります。与えられた恵みを人に分け与えることを期待して、主イエスは私たちを解散させられるのであります。

結.恵みの食卓において

 本日は、このあと聖餐式が行われます。そこでは、感謝の祈りを唱えて、パンを裂き、人々に配られます。聖餐は、主イエスが十字架にお架かりになる前の最後の晩餐の席で制定されたものですが、それは十字架において私たちの罪の贖いとして主の体が裂かれ、その恵みが人々に配られることを意味しますが、この主イエスの十字架の恵みの御心は、既に五千人や四千人の人々にパンを与えられた出来事から始まっていたことに気づかされるのであります。しかもそれは、十二人の弟子たちやイスラエルの民だけではなくて、異邦人を含む世界の人々の救いが主イエスの視野には入っていたことを知らされるのであります。主イエスは「群衆がかわいそうだ」と言って、この出来事を始められました。罪の中に沈んでいる人々への深い憐みの御心がこの出来事につながったのであり、それが今日の聖餐式にもつながっているのであります。この主の憐みの御心を深く受け止めて、今日の聖餐式に与りたいと思います。
 お祈りをいたしましょう。

祈  り

憐れみに満ち給う主イエス・キリストの父なる神様!
 今日も聖書の御言葉をもって、霊的な空腹の中にあります私たちを満たしてくださいましたことを感謝いたします。
 私たちはあの群衆のように、自らの霊的な空腹に気づいていない者であり、また、あの弟子たちと同じように、人々の霊的な空腹について思いやりが少なく、自分の満足のみを求めがちな者であります。しかし、そのような私たちに先立って、主イエスが私たちのことを憐れんでくださって、必要な霊と肉の糧を備えてくださいます恵みを重ねて感謝いたします。
 どうか、御言葉の糧に欠けることがないよう、主の日ごとに御許に集まるものとならせてください。またどうか、与えられた恵みを日常の生活の中で生かすことができますように、また人々に分け与える者とならせてください。また、主の食卓の喜びに共に与る者たちを呼び集めてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年6月7日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書8:1-10
 説教題:「
キリストが与える満腹」         説教リストに戻る