序. 耳が聞こえず舌が回らない私たち

 先週の聖霊降臨日礼拝では、異邦人の女が主イエスのところにやって来て、悪霊に取りつかれた娘から悪霊を追い出すように、しつこく頼んだので、主イエスは聖霊を送って、悪霊を追い出されたという出来事を聴きました。悪霊に取りつかれるというのは、おそらく心を深く病んでいたのではなかろうかと申し上げました。今日、登場するのは、耳が聞こえず舌の回らない人であります。こちらは身体的な障害を持った人であります。しかし、人の言葉が聞こえず、言葉を伝えることも出来ないということは、単に不便だというだけではないでしょう。人とのコミュニケーションが大きく制限されるということで、孤独で悲惨な状況であります。身体的な障害に留まらず、精神的にも極めて厳しい状況であることが想像されます。
 主イエスがやって来られたことを知った人々は、彼を主イエスのところに連れて参りました。K.バルトはこの箇所の説教の中で、人々が彼を連れて来た理由について、「彼らはこの一人の者の中に自分自身を再認したからである。彼らは無意識のうちに、全ての者の象徴のようなこの人において自分自身を連れて来たのである」と語っております。ここでバルトが言いたいことは、私たちは誰も、神様の言葉が聞こえず、御言葉を口に出すことが出来ないとすれば、この「耳が聞こえず舌の回らない人」と同じような悲惨な状態ではないか、ということなのでしょう。その状態というのは、単に不便だとか不自由ということではなく、神様とも人ともコミュニケ―ションをとることが出来ない、生きているとは言えない、極めて病んだ状態であります。
 今日、このような聖書の箇所が私たちに与えられているということは、今述べたように病んだ状態の私たちのところへ主イエスが来られて、指を私たちの耳に差し入れ、舌に触れて、私たちが御言葉を聴き、話すことが出来る者とされるという、驚くべき出来事をしてくださるためなのではないでしょうか。

1.異邦人の町を巡って

 さて、今日の箇所の冒頭の31節には、こう書かれています。それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。この旅のルートを、聖書の巻末にある「6新約時代のパレスチナ」で確認していただきたいのですが、先週の記事の舞台であったフェニキアのティルスから北の方にあるシドンを経て、ガリラヤ湖の南東に広がるデカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖へ戻って来られたというのです。それは異邦の地を巡る旅でありました。大変な回り道をされたのでありますが、それは何のためだったのでしょうか。先週もお話ししましたが、御利益を求めて押し寄せて来る人々から距離を置くためであったとか、十字架を前にして、じっくりと弟子たちを教育するためであったとか、将来の異邦人伝道に向けて道筋をつけるためだったといった、色々なことが考えられますが、多くの人が注目するのは、やはり、先週の箇所に続いて、異邦人に対して癒しの御業が行われたということであります。それはユダヤ人たちが自分たちのことを誇り、異邦人を差別していることへの挑戦であり、福音が異邦世界にも開かれていることをお示しになるためであったのではないか、ということであります。異邦人は、神の言葉に対して耳も口も開かれておらない人たちでありました。それに対して、ユダヤ人は、自分たちこそ神の言葉である律法を授かった特別な民であり、それを守っていることを誇っていたのでありますが、実際は、神様の御心からは離れてしまっていて、御言葉が聞こえず、御言葉を語ることが出来なくなっていたのであります。ユダヤ人こそ悔い改めが必要であったのです。――私たちは異邦人であります。救いから遠い存在でありました。しかし幸いなことに、聖書によってキリストに出会い、救いに入れられたのであります。けれども、その私たちも、「ユダヤ人状態」になっていないか、ということを思い起こす必要があります。もう一度、耳を開かれ、舌のもつれを解いていただく必要があるのではないか、ということであります。

2.この人だけを群衆の中から

 主イエスがガリラヤ湖へやって来られると、32節にあるように、人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願ったのであります。場所は恐らくガリラヤ湖の東岸で、5章に書かれている悪霊に取りつかれた人を癒されたというゲラサの地方に近い場所で、そこも異邦人の地であります。以前に悪霊を追い出してもらった人は、そのことをデカポリス地方に言い広めたと言うことが5章には書かれていますから、それを伝え聞いた人々が、この耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来たのかもしれません。

 彼らは主イエスに手を置いてもらうこと願いました。それは、この人の耳が聞こえ、口がきけるようになることを求めたということでしょう。ところが主イエスは、33節にあるように、この人だけを群衆の中から連れ出されました。なぜ、この人だけを連れ出されたのでしょうか。主イエスが奇跡の業をなさるのは、多くの人々を驚かせて、御自分の力や権威をお示しになるためではありません。このあと36節でも、「だれにもこのことを話してはいけない」と口止めをされたほどであります。だから、癒しの現場を人々の目から隠そうとされたのかもしれません。しかし、この人を群衆の中から連れ出したのは、それだけの理由ではないでしょう。この人は、ただ耳が聞こえない、舌が回らないというだけではなくて、言葉が交わすことが出来ないため、人格的な交わりが出来ない状態にありました。その状態から解放するためには、ただ手を置いて身体的に癒すだけではなくて、一対一の人格的な関係の中で、人間性を取り戻そうとされたのではないでしょうか。それはイエス様でも決して簡単なことではなく、全身全霊をかけてしか出来ないことだったのではないでしょうか。

 そして、主イエスは指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。これはおまじないのようにも思える行為ですが、どのような意味があるのでしょう。障害のある部分に直接、御自分の指を差し入れられます。それは、その指で耳に穴を穿つかのような行為です。ある人(F.ファウスティ)は、「彫刻家がのみで彫り上げる作業をするように」と表現しました。丹精を込めて、閉じた耳を開き給うたのであります。口より先に、耳を開くことから始められました。そのことについて、渡辺信夫先生は、「信仰は聞くことから始まるからである」と述べておられます。「それから、唾をつけてその舌に触れられ」ました。唾をつけられたのは、乾ききった舌を滑らかにするためでしょうか。そのために、御自分の唾を分け与えられました。ある人は、つばは聖霊のシンボルだと言っております。その解釈が妥当かどうかは分かりませんが、主イエスがご自分の体の中から力を絞り与えられたことは間違いないでしょう。

3.深く息をつき、「開け」と

 そのような行為を行われた上で、34節によると、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われました。「天を仰いで」という行為は、641節で、五千人の群衆にパンを分け与える時にされたのと同じですが、祈りの姿勢であります。「深く息をつき」という言葉は、ローマの信徒への手紙8章で、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(22)と書かれている「うめき」という言葉と同じで、そこでは、「わたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(23)とも記され、更に、“霊”自らが、言葉に言い表せないうめきをもって執り成してくださる」(26)とも書かれているように、「うめき」という言葉は、罪と死の力に支配されている現実の中で、心の内でうめき苦しみつつ、そこからの救い、解放を待ち望んでいる様子を表わす言葉なのであります。つまり、主イエスはここで、耳が聞こえず、舌が回らず、コミュニケーションを断たれているという苦しみの中にあるこの人の「うめき」を御自分の身に引き受けて、それを御自分の祈りにおいて父なる神様に執り成しておられる、ということなのであります。
 そのような「うめき」をもって祈られたあと、「エッファタ」と言われました。これは「開け」という意味であります。聖書は時々、主イエスがその時に語られたアラム語をそのまま記します。それは、とても印象的で忘れることが出来ない重要な言葉で、翻訳しただけでは力が伝わらないからでしょう。神様が天地を創造されたとき、「光あれ」と言われると光がありました。そのように、神様は言葉によって創造の御業をなさいました。ここで主イエスがなさったことも、「開け」という言葉で、新しい創造の業をなされたのであります。それは、ただ耳が聞こえるようになった、口が利けるようになったという、肉体の癒しが行われたというだけではありません。人間は元々、神様に似た者として創造されました。そのような本来の姿が回復される出来事が起こったのであります。耳が聞こえる、口が利けるというのは、単に情報をやり取りできるということではありません。心と心が通じ合う、人格的な交わりが出来る、ということであります。それは人と人の間だけではなくて、神様と人間との間で言葉が通じるということであり、御心が分かるということであります。ということは、神様との間の失われた関係が回復するということであり、罪によって遮られた交流が復活するということであります。罪の力からの解放であります。そのことが、今、この人に実現したのであります。35節を見ると、こう書かれています。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった。こうして彼は、人の言葉を聞き、また人に話すことが出来るようになっただけでなく、心を通じ合うことが出来るようになりましたし、神様の御言葉を聴き、また人に伝えることもできるようにされたのであります。
 私たちはどうでしょうか。私たちは耳が聞こえ、舌は回っているとしても、人々の声が本当に聞こえているのでしょうか。神様の御言葉は聞こえているのでしょうか。また、人々の心に通じる言葉を語っているのでしょうか。神様の御言葉を人々に伝えているのでしょうか。私自身、大変心もとなさを感じております。――しかし、今日の聖書の箇所を通して、主は私たちにも「エッファタ(開け)」と語っておられるのではないでしょうか。御言葉が通じなくなっている私たちをもう一度新しく造り直そうとしておられるのではないでしょうか。

4.だれにも話してはいけない

 このあと、36節にあるように、主イエスが人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた、のですが、主イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた、ということが書かれています。それにしても、なぜ、主イエスは口止めをされたのでしょうか。――よく言われることは、十字架の時がまだ来ていない段階であったので、人々に誤解を与えないように、このように命じられたのだという説明です。人々は恐らく、聞こえなかった耳が聞こえ、回らなかった舌が解けて口が利けるようになったという外面的な奇跡のことだけを話して、主イエスがこの人の苦悩を深く理解され、愛を込めて、真剣にその障害と立ち向かわれたことを話さないし、話すことは出来ないからであります。ここで起こっていることの真実を話すことができるのは、自分自身も主イエスと出会い、失われていた言葉を回復された喜びの体験を持つ者だけであります。その体験は、主イエスの十字架と復活の恵み、つまり罪の赦しの恵みを知ることなしには、深い意味では味わうことが出来ないことであります。そうであれば、この段階では、ここで起こったことを誰も正しく話すことは出来ないので、「だれにもこのことを話してはいけない」と口止めされたということなのでしょう。

5.驚きの賛美

 しかし聖書は、それに続けてこう記しております。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」――主イエスが口止めをされても、人々の驚きや感動を止めることはできません。そして、出来事を見聞きした人は、そのことを語り、主イエスを賛美せざるを得ません。その中には、耳が聞こえ、口が利けるようになった人も含まれていたでしょう。この後、主イエスがエルサレムに入られたとき、人々が棕櫚の葉を道に敷いて、「ホサナ」と言って歓迎いたしましたが、ルカ福音書1939節以下によりますと、その様子を見たファリサイ派の人々が「お弟子たちを叱ってください」と言いますと、主イエスは「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」とおっしゃいました。主イエスの御業に接した人は、黙っていることが出来ないし、主イエスのなさる御業は賛美を引き起こすのであります。その場合の賛美は、必ずしも主イエスのことを深く知ったことによるものではないかもしれません。事実、主イエスを歓迎した人々も、数日の後には、「十字架に架けろ」と叫ぶようになってしまうのです。そのような人間の賛美の危うさを主イエスは御存知だから、口止めされたのでしょうが、主イエスのなさった御業には、誰も驚かざるを得ませんし、賛美の声を止めることは出来ないのであります。

結.成就する救いの預言

 37節の賛美の言葉のなかで、「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と言っております。この言葉は、先ほど旧約聖書の朗読で読まれたイザヤ書35章の言葉の成就であります。イザヤはこう言っておりました。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」――これは、来るべきメシアのことを預言したものと受け止められていました。その言葉のうち、「聞こえない人の耳が開く。口の利けなかった人が喜び歌う」ということが、まさにこの時に実現したのですが、このあと、822節以下には盲人が癒された御業のことが記されていて、この2箇所を合わせると、イザヤの預言が全部成就するわけで、人々はイザヤの預言のことを知っていますから、主イエス・キリストこそ救い主メシアであると思ったのでしょう。しかし、この人たちも、主イエスの十字架の御業をまだ知らないし、罪からの救い主ということについては十分に分かっていたわけではありません。しかし、このことを書いているマルコ福音書の筆者は、当然、主イエスの十字架のことも、復活のことも知った後で書いている訳で、自分たちもあの時は十分に理解しておらず、耳が聞こえず、口が利けない状態であったのだけれども、今は、耳が開かれ、口が利けるようにされたということを、心の奥底から喜びながら、主イエスこそイザヤの預言していた真の救い主であるということをここで証ししているのであります。
 私たちもまた、元々は、神様の御言葉に対して、耳が聞こえず、口の利けない者たちであります。主イエスに対して関心があるとしても、耳が聞こえるとか、口が利けるようになるといったことに類する様々な御利益、この世的な幸せを求めていた者であります。そして、そのような御利益がすぐに見えて来ないと、失望して、主イエスの許から去ってしまいかねないのであります。しかし、幸いなことに私たちは、聖書によって主イエスの十字架と復活の出来事まで知ることが出来ます。そして、罪の赦しという究極の恵みのことも知らされているのであります。もはや、主イエスが私たちの賛美を口止めされることはありません。私たちの舌のもつれは賛美のために解かれたのであります。心からの賛美を捧げましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 私たちは聖書を通して、主イエスの驚くべき御業の全てを知ることが出来ますことを感謝し、御名を賛美いたします。
 私たちは、自分が困っていることには関心がありますが、自分自身の状態さえ正しく認識せず、何が本当に必要であるかに気づかず、あなたの御言葉を聴こうとしない者であります。今日は、与えられた聖書の箇所を通して、あなたの御言葉に対しても私たちの耳をも開き、御言葉を語ることが出来るように、また舌のもつれも解いてくださるお方であることを覚えることが出来まして、ありがとうございます。
 どうか、罪からの救いの恵みの御言葉に絶えず耳を傾け、驚きをもって受け止め、またその恵みを必要に応じて人々に喜びをもって語ることが出来る者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年5月31日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書7:31-37
 説教題:「
舌のもつれが解ける」         説教リストに戻る