序. 理解できないイエスの言動

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を行なっています。ペンテコステというのはギリシャ語で50日目ということで、日本語では五旬祭と言われますが、それは過越しの祭から50日目ということで、主イエスが十字架にお架かりになったのが過越しの祭の時であったので、その時から数えてちょうど50日目の五旬祭の日に聖霊が降って、弟子たちが聖霊を受けて宣教活動を始めたので、聖霊降臨日とも言われるようになったのであります。
 今日の聖書の箇所は、順序に従ってマルコによる福音書724節以下が与えられているのですが、一見、聖霊降臨日とは関係のない箇所であります。わざわざペンテコステ礼拝のテキストとして取り上げることはない箇所であります。しかし、今日の箇所には、汚れた霊(悪霊)に取りつかれた娘のことが出て来て、主イエスによって、その娘から悪霊が追い出されるのであります。そこに働いているのは、聖霊の働きではないか、ということを気付かされたので、今日は、思い切って、この箇所から聖霊降臨日の御言葉を聴くことにいたしました。
 ところが、この箇所を丁寧に読もうとすると、様々な疑問が湧き上がって来る箇所でもあります。最初の24節に、テイルスの地方に行かれた、とあります。これは地図(6「新約時代のパレスチナ」)でご確認いただくと分かるように、フェニキア地方にあって、異邦の地であります。なぜ、主イエスはこの時期に異邦の地へ行かれたのか、という疑問が最初に出て来ます。次に、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった、と書かれていますが、なぜ、主イエスは隠密行動をとろうとされたのか、また、主イエスともあろうお方が気付かれてしまうというようなヘマをされたのか、というのが第二の疑問です。更に、最大の疑問ですが、娘に取りついた悪霊を追い出してくださいと頼む女に、主イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われました。これは、<まず神の民であるユダヤ人が救われるべきであって、犬である異邦人を優先してはいけない>という意味ですが、なぜ、そんな冷たい態度をとられたのか、という疑問であります。しかも、そうおっしゃりながら、この女の機知に富んだ言葉によって、結局は、娘から悪霊を追い出されたということも、首尾一貫しない態度のように思われるのであります。――こうした疑問を抱きながら、この出来事と向き合うことで、そこに秘められた深い意味、恵みの御心を聴き取ることによって、私たちの中からも悪霊が追い出されて、聖霊降臨の恵みに与ることが出来たらと思うのであります。

1.異邦の地でギリシャ人の女に

 さて、24節に、イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった、とあります。主イエスは、それまで伝道活動をしておられたガリラヤ地方を立ち去って、異邦の地に行かれました。なぜでしょうか。色々な見方があります。御利益を求めてやってくる人々から距離を置いて、これからなさろうとしていることを弟子たちにみっちりと教える必要があった、という見方。十字架の御業に向けて、静かな時間を持ちたいと思っておられた、という見方。直前には、「汚れ」についての議論が書かれていましたが、異邦人は汚れた民だとされていたことに対して、将来、異邦人にも福音がもたらされるための準備をされた、という見方。それに、ここで登場するフェニキアの女に出会うためであったという見方まであります。このように色々な見方が出来ますが、一つの目的にしぼる必要はないかもしれません。背景としては、多くの民衆が御利益を求めてやってくること、弟子たちが主イエスのことを必ずしもよく理解していなかったこと、「汚れ」ということについて、誤った考え方があったこと、――そうした中で、十字架への道を進んで行くために、弟子たちを教育する必要もあったし、最終的な決着(死)はガリラヤにおいてではなく、エルサレムでという御計画もあったでしょうし、更にその先には、異邦人の救いということも思い描いておられたということがあるでしょう。そういう、様々な思いが重なり合う中で、このフェニキアの女との出会いがあった、ということではないでしょうか。
 「だれにも知られたくない」というのは、十字架に向けて、弟子たちを教育する静かな時間を持ちたいと考えておられたということでしょうが、この異邦の地にも主イエスの噂は伝わっていて、「人々に気づかれてしまった」のであります。そして、一人の女がすぐにイエスのことを聞きつけてやって来たのであります。これは主イエスにとっても予想外のことであったのでしょうか。それとも、ある人が言っているように、主イエスはこの女に会うために来られたのであって、想定内のことであったのでしょうか。聖書の書き方からすれば、思いがけない出会いであったように受け取れますが、この地でも主イエスのことがある程度知られていることはお分かりになっていた筈ですし、中には出会いを求めてやって来る人がいることは予想もされていたかもしれません。何よりも、主イエスは真剣に求めてやって来る人を決して見過ごしにされるようなお方ではありません。
 26節によれば、女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれでありました。「ギリシア人」という表現は、<ギリシア語を話す人>という意味で、ギリシア的教育を受けた知識人というニュアンスがあると言われていますし、ユダヤ人に対する異邦人(異教徒)という意味があります。そういう女が、主イエスのことを聞きつけて、やって来て主イエスの足もとにひれ伏したのであります。「ひれ伏す」というのは礼拝する時の姿勢です。この女の苦悩の深さを表わすと共に、主イエスに大きな望みを託していることを示しています。なお、「シリア・フェニキアの生まれ」とありますが、フェニキアと呼ばれる国が北アフリカにもあるのでこう書かれているのですが、この女の人はこの町の生まれで、そこに主イエスが来られたということです。

2.悪霊に取りつかれた娘のために

 その女の人が主イエスのところにやって来たのは、幼い娘が汚れた霊(悪霊)に取りつかれいたので、それを主イエスによって追い出してもらおうと思ったからでありました。どんな症状であったのかは書かれていませんので分かりませんが、すぐ前の箇所では、何が人を汚すかということをめぐって主イエスの厳しいお言葉が書かれていました。そこでは、人を汚すのは外から入って来る食べ物によるのではなくて、心の中から出て来るものが人を汚すということを語っておられました。その続きで「汚れた霊に取りつかれた」と書かれているわけですから、心が病んでいるということになるでしょうか。これまでも色んな手を尽くしたことでしょうが、癒されることない中で、主イエスの噂を耳にして、すがる思いでやって来たのでしょう。

 マタイによる福音書の併行記事では、「カナンの女」とされていますが、同じ女のことで、彼女は「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んでいます。この言い方は旧約聖書の中でダビデ王の子孫から救い主が生まれると預言されていることを受けた表現でありまして、極めてユダヤ的な言い方なのであります。そのような言い方を異邦人の女が使うということは異常でありまして、彼女が必死の思いで民族的なプライドも捨てて、最後の望みを主イエスに託していることが分かるのであります。

 そのような叫びであったにもかかわらず、マタイ福音書によれば、最初、主イエスは何もお答えになりませんでした。それに対して弟子たちは主イエスに近寄って来て、「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言っております。あまりにうるさいので、こんな異邦人なんかに長く関わりたくないと思ったのでしょう。

3.子供たちのパンを小犬にやれない
                       試された信仰――聖霊を送る言葉

 そうした中で、主イエスはどのように対応されたのでしょうか。27節でこう言われております。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」――「子供たち」とは、ユダヤ人を意味し、「小犬」というのは、普通、異邦人のことを「犬」と読んでいたようで、ここではそれを少し和らげた表現を用いられました。また、最初に「まず」と言っておられます。これは、「次に」があるという意味になりますから、全面拒否をされたわけではありません。それにしても、厳しい御言葉であることには違いがありません。マタイ福音書の方では、旧約聖書のエゼキエル書などを背景にして、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、はっきり御自分の使命はイスラエルの民を救うことであると明言されているのであります。しかし、旧約聖書の中には、異邦人も救いに入れられる日が来ることを預言したとみられる箇所が所々にあります。今日の旧約聖書の朗読で聴いたイザヤ書56章もその一つであります。また、主イエス御自身、ユダヤ人以外の者を癒されたこともありました。
 では、なぜこの女には、このような厳しい言い方をされたのでしょうか。その一つの答えは、主イエスは彼女の信仰を試されたのではないか、ということであります。私たちも、祈りがすぐには聞き届けられないという経験をいたします。そういう時に、私たちは諦めてしまったり、時には信仰を失ってしまったりしてしまいます。しかし、自分の願い通りにならないのは、神様が私たちの願いに気づいておられないとか、耳を閉ざしておられるということではなくて、むしろ、私たちの信仰を育てよう、深めようとしておられるということに気づくべきなのであります。ここでの主イエスの御言葉も、そのような深い御心から来たものなのではないか、ということです。ある人は、ここに聖霊が働いていると言っております。この女の娘には、悪霊が取りついています。それに対抗するように、主イエスは、この厳しいお言葉をもって聖霊をお送りになったのではないか、ということです。

4.小犬もパン屑は――聖霊による信仰の告白

 そのことを証明するかのように、このあと、女はこう答えます。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。
 まず、「主よ」と言っております。「主よ」という呼びかけは珍しくない言い方のように思いますが、実は、マルコ福音書の中で主イエスに向かって「主よ」と呼んでいるのはここだけなのです。弟子たちさえも、「先生」とは呼んでも、「主よ」とは呼びませんでした。この一言にも、聖霊の働きを見ることが出来るように思います。
 口語訳聖書を見ると、「主よ」と言ったあと、「お言葉どおりです」という言葉が入っています。これは新共同訳と口語訳とで使ったギリシア語の原本が違うからなのですが、口語訳のように、この女は主イエスのつれないお言葉をそのまま肯定して、受け入れているのであります。自分の願いを主張する前に、まずイスラエルの民から救いが始まるという、神様の救いの計画を、その通りだと認めているのです。主の御言葉に対するこのような謙遜が信仰には必要であります。
 女は続けて、「しかし」と言って「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言います。ここで「パン」とは何でしょう。娘を悪霊の支配から解放する力であります。だがそれは、「パン屑」で十分だと言うのです。謙遜で機知に富んだ言葉であります。けれどもこの女の言葉は、単に機知に富んだうまい言い方をしたということではありません。そこに、主イエスに対するこの女の深い信仰を読み取ることが出来るのではないでしょうか。これは、主イエスに対する信仰告白であると言ってよいでしょう。この信仰告白が出て来たのは、彼女の求めが強かったということもあるでしょうし、主イエスに対する信頼が大きかったということもあるでしょうが、何よりも強い力でこの言葉へと導いたのは、他でもなく聖霊の働きではないでしょうか。主イエスの一見冷たく聞こえる御言葉でありましたが、主イエスはこの女の苦しみをきっちりと受け止められて、娘が悪霊に取りつかれているのに対抗して、御言葉をもって聖霊をお送りなさったのであります。その聖霊の働きによって、この女は、この大胆かつ謙遜、そして機知と信仰に富んだ素晴らしい応答をしたのであります。

5.追い出された悪霊――聖霊の勝利

 この女の応答に応えて、主イエスは言われました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」――この「それほど言うなら、よろしい」というところを言葉どおりに訳すと、「その言葉の故に行きなさい」となります。つまり、主イエスがこの女の言葉を受け入れられたということです。私たちは自分の求めを当然の権利のように神様の前に差し出すことが多いのではないでしょうか。しかし、私たちは自分の望みを要求する資格などない者であることを自覚すべきであります。しかし、同時に、「パン屑」であれば頂くことも出来るという確信をもってお願いするならば、主はお応えくださることを信じるべきであります。
 主イエスは「よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われます。この言葉は、主が遣わされる聖霊が悪霊を追い出すことを宣言なさったと言ってよいでしょう。
 主イエスの言葉に促されて、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていました。女が家に帰ってみると、そこはもはや、悪霊に悩まされなければならない所ではありませんでした。既に悪霊は出てしまっていて、娘は悪霊の力から解放されていました。聖霊が悪霊に勝利したのであります。こうして、主イエスによる救いの御業が、この異邦人の地にも及んだのであります。

結.私たちにも聖霊が――御言葉と聖餐において

 今日は、聖霊降臨日の礼拝を行なっています。使徒言行録によれば、主イエスは昇天なさる時に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒18)と約束されました。弟子たちはこの約束を信じて、祈りながら待っていると、五旬節(ペンテコステ)の日に、突然、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまって、一同は聖霊に満たされて、様々な国の言葉で福音を語り始めたのでありました。こうして、異邦人にも救いが及んで行くことになったのであります。
 この聖霊降臨日の出来事の先駆けが、今日聴いた異邦人の地フェニキアのティルスで悪霊が追い出された出来事であります。異邦人の女は主イエスの足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してもらうことを願いました。私たちもまた、異邦人の一人として、こうして主イエスの足もとにひれ伏して礼拝しています。私たちの中には、まだ悪霊の力が残っています。それ故に、御心に沿えないところがあります。様々な苦しみから解き放たれていません。しかし、あの異邦の女と共に、謙遜に、しかし、強い願いをもって主イエスの前にひれ伏すとき、救いの資格がない罪人である私たちにも、主イエスは聖霊を送ってくださって、悪霊を追い出してくださる筈であります。
 このあと、聖餐式において主イエスの体の徴であるパンに与ります。私たちは、本来はこのパンを受けるに値しない者であります。しかし、主イエスの執り成しの故に、与ることを許されるのであります。食卓を囲む私たちの先頭に、このシリア・フェニキアの女が立っていると言ってよいかもしれません。こうして、御言葉と聖餐に与ることによって、聖霊が働いてくださって、私たちの中からも悪霊が追い出されるのであります。
 そのことを信じて、感謝して、祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 私たちは、異邦の地にあって、汚れた霊に取りつかれている者であり、あなたの救いに加えられる資格のない者でありましたが、この日、礼拝にお招きいただき、御言葉と聖餐によって、私たちにも聖霊を送ってくださり、あなたの御前にひれ伏す者としてくださり、私たちの中から悪霊を追い出してくださいますことを覚えて感謝いたします。
 どうか、へりくだった信仰をもって、あなたの前に絶えずひざまずき、御子イエス・キリストの執り成しと聖霊の導きによって、悪霊の支配から逃れさせてください。そしてどうか、初代教会の弟子たちに続いて、あなたの救いの福音を持ち運ぶ者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝(聖霊降臨日礼拝)説教<全原稿> 2015年5月24日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書7:24-30
 説教題:「
悪霊と聖霊」         説教リストに戻る