わたしたちはこの方(キリスト)により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。      (ローマの信徒への手書き156

 「ローマの信徒への手紙」は、キリスト教の歴史の中で、新しい信仰運動が起こった時に、その原動力となることが多かった書簡で、キリスト教信仰の真髄を示している。
 この手紙の差出人であるパウロは、冒頭で自分のことを「キリスト・イエスの僕」と紹介している。「僕」とは原語で「奴隷」を意味する語であるが、パウロが回心する以前には律法と罪の奴隷であったが、復活のキリストに出会って、そこから解放されて、キリストの奴隷となったことを、喜びをもって言い表しているのである。そして、その自分たちの使命を「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と述べる。「使徒」とは、キリストの御言葉や御業、即ち福音を伝える者のことであるが、その使徒になるのは、自分が一念発起して志願したのでなく、また資格や能力があったからでもなく、「選び出され、召されて」と言っているように、神の一方的な選びによるのである。これは、私たちがキリスト者として召される場合も同様である。
 ここでパウロは「福音」という言葉を出した途端、その内容に触れずにはおれなくなって、「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」と述べて、キリストこそ旧約聖書に置いて約束されていた通り、ダビデの子孫から生まれ、死者の中からの復活によって神の子とされた「主」であると証ししている。
 続けて、標記のように、再び自分たちの使命について、「御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くためである」と語るのであるが、その異邦人の中に名宛人であるローマの信徒たちがいて、「イエス・キリストのものとなるように召されている」と述べているように、彼らもまた、パウロと同様にキリストの「僕(奴隷)」となることが最終の目的なのだ。
 私たちは、自分の人生は自分のもので、自分の自由に用いたいと思っている。しかし、その中で、自分の思うようにできず、あせったり挫折したりして、落ち込んでしまう現実がある。そうした中で、キリストに出会い、キリストのものとされることによって、自分から解放され、本当の自由と生き甲斐へと招き入れられるのである。

 

主日礼拝説教<要 旨> 2015年5月17日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙1:1-7 
 説教題:「
キリストのものとなる」 説教リストに戻る