序. キリストからの手紙 

 ほぼ月に一度の頻度で、新約聖書の書簡(手紙)を取り上げて来ておりますが、2月にエフェソの信徒への手紙が終わりまして、受難節から復活節の間はマルコ福音書から続けて御言葉を聴いて参りまして、今日からローマの信徒への手紙の初めから読んで行く予定になっております。
 先日、K兄が求道者のS兄に、キリスト教の教理のことを学ぶのであれば、ローマの信徒への手紙を読むのがよい、ということをおっしゃっていましたが、ちょうどタイミングよく、今日からこの手紙を毎月1回ずつの遅いペースですが、じっくり学んで行くことにしております。最後まで行くのに、ほぼ3年かかるのではないかと思います。
 このローマの信徒への手紙は、キリスト教会の歴史の中で、新しい信仰運動が起こった時に、原動力になったことが多くて、アウグスティヌスの回心を促したのも、マルテイン・ルターが宗教改革の口火を切る時の出発点になったのも、ジョン・ウエスレーの覚醒運動を起こしたのも、ローマ書を読み直すことからだったと言われていますし、カール・バルトが書いた「ローマ書注釈」という本が、危機神学とか弁証法神学という現代神学思想の出発点になったとされています。そういう神学の話をすると、難しい手紙ではないかと思われるかもしれませんが、私たちの信仰の真髄を示しているものですので、この手紙に真剣に取り組むことによって、私たちの信仰をより確かなものにすることが出来るのではないかと思います。
 パウロの時代の手紙の書き方には一定の型がありまして、初めに差出人の名前があり、次に名宛人の名前を書き、三番目に挨拶の言葉を記すことから始めるというものでした。この手紙もその型に従っているのですが、原文では最初に「パウロ」という差出人の名前を挙げて、その説明が4節まで続いて、その後、5節から7節の前半で宛名が記され、7節の後半で短い挨拶(祝福)の言葉が書かれています。
 そういうことで、この手紙はパウロがまだ会ったことのないローマの教会の人たちに宛てられた手紙なのですが、写本の中には7節の「ローマの」という文字が欠けているものがあって、あちこちの教会で回し読みされたのではないかと言われています。つまり、この手紙を読んだ人たちは、これを自分たちの教会にも宛てられたものとして読んだということです。ですから、私たちも、この手紙を過去の特定の人たちの間の手紙として読むのではなくて、キリストから私たちの教会に宛てられた手紙として読むのが相応しいということであります。ですから、今日の箇所では、差出人と名宛人の事について書かれているのですが、そこに書かれていることは、私たち自身のことであると受け止めて、そこから<キリスト者とはどのような者であるのか>ということを聴き取ることが大切だ、ということになります。

1.キリスト・イエスの僕

 さて、この手紙の冒頭は、先ほども触れましたように、原文では、差出人の「パウロ」という名前で始まって、「キリスト・イエスの僕」と続いているのであります。
 この「僕」という言葉は、「奴隷」という字であります。「奴隷」というのは、戦争に敗れて捕虜になった者や、借金が返せなくて身売りするほかなかった者などが、人の所有物になって、主人に仕えるという身分であります。パウロはその言葉を、屈辱的な思いで、いやいや使っているのではなくて、むしろ自分の気持ちを一番よく表わすものとして喜んで、誇りをもって使っているのであります。自分のことを卑下して言っているのではありません。あるいは、あなたがたもキリストのために自分を無にして仕えなければなりませんという教訓を語っているのではありません。そうではなくて、自分がキリストによって救われてキリストのものとされた立場を、喜びをもって言い表しているのであります。 そういう言い方をしたくなったのには、パウロの以前の状態と関係があると思われます。彼はガマリエルという律法学者のもとで学んだ、ユダヤ教のエリートでありまして、フィリピの信徒への手紙の中では自分のことを「律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリ36)と言っておりますように、律法を忠実に守っている自信家でありました。しかし、そのパウロがキリストに出会って気付いたことは、自分は律法の奴隷に過ぎなかった、罪の奴隷になっていた、ということでした。そういう自分が、今はキリストの奴隷にしていただいた、と言いたいのであります。キリストのものとなることによって、律法と罪から解放されて、自由にされたことを喜んでいるのであります。このようなキリスト者の立場をコリントの信徒への手紙ではこう言っております。「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは身代金を払って買い取られたのです。」(Ⅰコリント72223)私たちはキリスト者になることを、自由な生き方を制限される窮屈なことのように思い違いすることがないでしょうか。そうではありません。キリストを知らない時の私たちこそ、様々な人間的な思いに捕われた、罪の奴隷でありました。その私たちが、キリストの十字架の贖いによって買い取られて、自由にされて、キリストの奴隷とされたのであります。そのことを、まず、パウロと共に喜びたいと思うのであります。
 次に、1節の後半で、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、と自分のことを紹介しております。ここでは、キリストの奴隷になった者の新しい使命について述べられています。それは「使徒」という使命であります。「使徒」というのは、主イエスの御言葉や御業を直接見聞きした弟子たちのこととして言われるのが普通で、パウロは十字架以前の主イエスに直接出会ったことはないのですが、あのダマスコにいるクリスチャンを捕えようとしていたパウロに復活のキリストが出会ってくださったことをもって、パウロは自分が「使徒」であると主張するのであります。しかしそれは、自分を大きく見せるためではありません。自分が与えられた使命をはっきりさせるために、「使徒」という言葉を使うのであります。「使徒」の使命はキリストの御言葉や御業、即ち福音を伝えることであります。パウロは直接主イエスの御言葉を聞いたり、御業を見たわけではありませんが、自分が伝え聞いたことを宣べ伝えるという意味で、「使徒」であることを主張するのであります。そうであれば、私たちもまた、「使徒」の一員になることが出来るのではないでしょうか。
 しかし、「使徒」になるのは、自分が一念発起して志願するものではありません。「選び出され、召されて」とあります。「選び出され」というのは、「別たれる」「聖別される」という言葉であります。神様が取り分けてくださるのであります。そして、「召されて」とは「呼び出す」ことであります。こちら側に資格があるとか、能力があるとが、素直であるとか、罪がないとかいうことではありません。神様が選んで召してくださるのであります。私たちはそれを感謝して受け止めるほかないのであります。「使徒」と呼ぶかどうかはともかく、主イエス・キリストの福音を伝える者とされるのであります。

2.神の福音――御子に関するもの

 1節で「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と自己紹介をして、「神の福音」という言葉が出て来ますと、その福音の内容について、簡単にでも触れないではおれなかったのでしょう。それが2~4節であります。

まず2節では、この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、と言っております。語るべき福音は、神様が急に思いつかれたようなものではなくて、既に聖書の中で預言者を通して約束されていたものだと言うのです。ここで言う「聖書」とは、もちろん旧約聖書のことであります。そこには神様とイスラエルの民の長い歴史を通じての関わりが書かれていますし、その間に、神様が用いられた預言者と呼ばれる人たちによって語られた神の言葉が書かれていて、イスラエルを中心とする神様を信じる者たちへの約束が語られています。そこに既に「福音」を読み取ることが出来るのであります。

 3節に入ると、御子に関するものです、と言っております。旧約聖書に書かれた約束の福音というのは、色々なことが語られていたとしても、煎じ詰めれば、御子イエス・キリストのことが預言されていた、ということです。主イエス御自身もヨハネ福音書の中でこう言っておられます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書(ここでも旧約聖書のこと)はわたしについて証しするものだ」(ヨハネ539)。――このようにして、旧約聖書の中に約束されていたことが、御子イエス・キリストにおいて実現するのであります。

 3節のその後と4節を読みますと、こう書かれています。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。――「肉によれば」というのは、<弱さと貧しさをもった人間として>ということで、実際に、ダビデの子孫の家系にあるヨセフの子として、マリアという人間の腹からお生まれになったのであります。これは、弱く脆い人間の一人になられたということであり、現実の人間と連帯できるお方としてお生まれになったという意味があります。一方、「聖なる霊によれば」というのは、霊的な面では、ということですが、神性という面では、という意味と理解してよいと思いますが、それが「死者の中からの復活」ということではっきりした、ということでしょう。死人の復活ということでは、聖書によれば、ナインの息子やラザロも甦ったのですが、主イエスの復活は十字架の死からの復活ということで、罪に対する勝利という特別な意味があります。その意味で、「力ある神の子と定められたのです」と言っているのです。この神の子イエス・キリストのことを宣べ伝えるのが、福音を語るということに他ならないわけです。

4節の最後で、「この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と言っております。「主」というのは、ローマ皇帝が、皇帝礼拝を強要する時に用いる言葉であったそうです。その「主」という言葉を、キリスト者たちは皇帝に用いるのではなくて、イエス・キリストに対して用いることになるのであります。私たちもまた、他に心を惹かれたり、頼りにしたくなるものがあったとしても、その中で、イエス・キリストこそ私たちの「主」であると証しするのが、福音を語るということなのであります。

3.異邦人を信仰による従順へ

 5節から7節前半までは、宛名の部分ですが、その初めの5節は、「わたしたちは」となっていて、差出人と名宛人の両方に共通のことが書かれています。その共通のこととは、わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました、ということです。共通のことの大前提は、最後にあります「恵みを受けて使徒とされた」ということであります。パウロ自身、キリスト者を迫害する側の人間でありましたが、突如、キリストが出会ってくださって、回心させられました。彼自身が考え抜いた末に、考えを改めたのではありません。キリストに出会って、それまでの生き方が間違っていたこと、罪人であったことを知らされたのでした。それは「恵み」としか言いようのない出来事でありました。これは、パウロのように突如として起こるかどうかは別として、すべてのキリスト者に共通することではないでしょうか。私たちが探究した結果、キリストに出会うのではありません。キリストが私たちに出会ってくださるのであります。そのとき、それまでの自分の生き方が変えられるのであります。それは恵みとして受け止めるしかないことであります。そして、その恵みを受けることと、「使徒とされる」ということとは別のことではありません。私たちもまた、恵みを受けて救いに入れられた途端、キリストを宣べ伝える使徒とされるのであります。
 では、その「使徒」に与えられる使命とは何でしょうか。それは、御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くためだと言っております。これは私たちが普通「伝道」と言っていることの目的であります。それは、第一に「御名を広める」ことであります。「名」とはその人の人格全体であります。ここではイエス・キリストの御人格、その御業と御言葉によって示された御人格を伝えるということで、その目的は「信仰による従順」へと導くことであります。信仰とは、神が存在するとか、神がどんなお方であるということを頭で理解することではありません。「信仰」という言葉のギリシャ語は「真実」とも訳せる語で、それは本来、神様のものであります。その神様の真実にお応えする人間の真実が「信仰」であって、それは「従順」という姿になる、ということであります。なぜ、そうなるのか。それは、キリストが神様に従順であられたからであります。キリストが十字架の死に至るまで神様に従順であられたお姿を知って、私たちもその従順へと導かれるのであります。それが「信仰」ということであります。
 なお、ここでは「すべての異邦人を」と言われていて、パウロは当時のユダヤ人としては特別な使命を自覚しているのでありますが、この手紙の宛先のローマでは、殆どの人が異邦人でありましたし、私たちの周りも異邦人社会、異教が主流の国であります。神様のこともキリストのことも知られていない社会であります。そこで私たちがしなければならないことは、「御名を広めて」、「信仰による従順」へと導くことでありますが、それは、人々を説得するとか、私たちの様子を示して感化を与えるというようなことであるよりも、私たちが導かれた時もそうであったように、キリストの恵みを受けていただくことにほかなりません。ですから、キリストの恵みを伝えることが、私たちに与えられた使命であります。パウロがこの手紙を通して伝えようとしていることも、そのことであります。

4.キリストのものとなる

 続けて6節で、こう言っております。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――ここは原文を直訳すれば、「この彼ら(即ち、異邦人たち)の中に、イエス・キリストに召されたあなたがたもいる」と言われているだけなのですが、この訳では「キリストのものとなるように」という言葉が添えられています。口語訳でも、「イエス・キリストに属する者となったのである」という言い方をしております。つまり、「召された」ということは、単に使命を与えられたということではなくて、キリストに属し、キリストのものになるという意味が込められているのであります。私たちが教会に来て、聖書を通してキリストに出会うということは、単にキリストから良いことを学ぶとか、力や勇気を与えられるとか、教会の働きのお手伝いをするというだけではなくて、キリストに属するものになる、キリストのものとなる、ということなのであります。1節のはじめで「キリスト・イエスの僕」と言っておりました。「僕」とは「奴隷」を意味する言葉であると申しました。しかし、それは、自由を束縛されて、ただ主人の言いなりになって働くということではなくて、罪から解放されて、自由人となって、喜んでキリストに仕えるということだと言いました。「キリストのものになる」というのも、そのことであります。
 私たちは自分の人生は自分のもので、自分の自由に用い、自分の楽しみ、自分の生きがいのために用いたいと思っています。しかし、その中で、自分の思うように生きることができず、焦ったり、挫折したりして、落ち込んでしまったりするのが現実であります。人生を自分のものとしている限り、そのようなことが起こってしまいます。そのような中で、キリストに出会うとき、自分から解放されるのであります。自分の人生だと思っていたのが、キリストのものであることに気づいたとき、そこから本当の自由、本当の生き甲斐が見えて来るのです。私たちはそのような人生へと招かれているということであります。

結.恵みと平和があるように

 最後の7節で、こう記します。神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。――前半はこの手紙の宛名ですが、「聖なる者となった」という言葉に注目しましょう。「聖なる者」とは、<聖人>というような意味ではなくて、<神が特別に区別した者>という意味で、人間の側の性質というよりも、先ほどの「キリストのもの」とか「キリストに属する者」という言葉と同じ意味です。神様が選んで、召してくださった者ということで、救われた者ということであります。私たちもまた、そのような「聖なる者」とされているのであります。
 7節後半の最後に、祝福の言葉が記されます。ここに「恵みと平和」という言葉があります。「恵み」とは、私たちの側の良い物、良い状態というよりも、神様の私たちに対する態度であります。キリストによって私たちを罪から贖い出そうとしてくださる御心であります。また、「平和」とは、ユダヤ人の挨拶の言葉であるシャロームという言葉ですが、その意味は、単に戦争や争いがないということではなくて、十字架と復活の恵みによって与えられる、神様の祝福に満ちた状態です。これはパウロの願いでありますが、キリスト御自身が強く願っておられることであります。私たちはそのキリストの願い、祈りのもとにあるということであります。 祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストの父なる神様!
 パウロの手紙を通して、もう一度あなたの恵みに満ちた福音に与ることが出来るようにしてくださっていることを感謝いたします。
 私たちは異邦の世界に住み、様々な異教の習慣や人間関係の虜になっておりますが、こうしてあなたの御前にある自由な世界に呼び出されて、イエス・キリストの僕として召し出してくださっています。
 私たちはなお、弱さを持ち、迷い易い者ですが、どうか、「キリストのもの」として留まることができますように、そして、福音のために仕える者として用いられる者とならせてください。
 どうか、この教会に召し出され、あるいは、あなたの救いの御計画の中にある求道中の方々が、どうか、あなたの恵みを喜んで受け入れて、信仰の告白に至ることができますように、お導きください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年5月17日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙1:1-7
 説教題:「
キリストのものとなる」         説教リストに戻る