序. 「実を結ぶ人生」を求めて

 伝道礼拝によくいらっしゃいました。
 本日のお話しの題は「実を結ぶ人生」とさせていただいております。伝道礼拝のチラシに、こう書かせていただきました。<私たちは誰しも、豊かに実を結ぶ人生を願い、そのために努力もする。だが、私たちが結ぶことを願っている「実」は、神が期待しておられる「実」と一致しているのであろうか。私たちが求めるべき「実」とは何か?また、その実をどのようにして結ぶことができるのか。ご一緒に聖書に問うてみたい。>――つまり、<私たちの人生が豊かに実を結ぶためには、どうすればよいのか>ということを、聖書から学ぼうということです。聖書は確かに人生の教科書であります。私たちの生き方について大切なことを教えてくれる書物であります。しかし、学校で学ぶような知識の教科書とは違っています。これまでの人生で蓄えてきたものに更に新しい知識や知恵をプラスすることによって、人生を豊かにしようというものではありません。また、巷に出回っている様々の人生論やカウンセリングの書物とも違います。どう違うのか。聖書は人間が産み出した知恵の書物ではありません。聖書の言葉に出会うということは、神様に出会うことであります。冷たい知識や知恵に出会うのではありません。神様の御心に触れる、御人格に出会うということです。その出会いは、他では体験することが出来ない豊かな出会いですが、一面では、大変恐ろしいことであります。私たちのここまでの人生の歩みを揺るがせる出会いであります。これまでの人生の歩みに大きく変更を迫る出会いであります。聖書を読んでも、聖書の話を聞いても、もし、そうした出会いが起こらなければ、それは聖書を読んだことにならないし、聖書の話を聞いたことにはなりません。
 今日の話は、分厚い聖書の中のわずか9節のお話しですが、ここでも私たちは神様に出会い、これまでの生き方に大きな変更を求められるのであります。そうでなければ、実を結ぶ人生にはならないのです。

1.ぶどう園に植えられたいちじく

 さて、今日聴こうとしているのは、新約聖書のルカによる福音書の中の131節から9節までの箇所でありますが、まず、後半の5節以下に書かれている、イエス・キリストが話された一つの譬えから聴いて参りたいと思います。
 この譬えは、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった」という出だしで始まっています。
 「ぶどう園」が舞台になっています。先ほど旧約聖書の朗読で、イザヤ書5章の「ぶどう園の歌」の箇所を読ませていただきました。その中に「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」という言葉がありましたように、ぶどう畑は神の民であるイスラエルを象徴するもので、神様がぶどう園の主人であるという考え方がありました。しかし、ここではぶどう園をイスラエルの民に限定する必要はなく、神様が造られ、愛されている世界を表わしていて、そこに植えられているぶどうやいちじくは、私たち一人一人の人間だと受け取ってよいかと思います。ただし、この譬えで特徴的なことは、「ぶどう園」に植えられた「いちじく」に焦点が当てられています。いちじくがぶどうより価値が低いという意味ではありませんが、ぶどう園ではぶどうが主役で、いちじくは脇役であります。けれども、その脇役であるいちじくも、ぶどう園の持ち主である主人が植えたものであり、実を結ぶことを期待して、実を探しに来たというのであります。
 人間も、その置かれた場所によって主役であったり脇役であったりいたします。世間的・人間的に見れば、置かれた場所によって評価が異なります。しかし、人間を造られた神様は、人間の置かれた場所によって評価を変えられるわけではありません。そして、ぶどう園の片隅に植えられた「いちじく」にも大きな期待を持っておられるということが、この譬えで表わされています。皆様方がどのような立場におられようとも、神様は実を結ぶことを期待しておられるのであります。

2.実を結ばないいちじく

 ところが、この譬えでは、ぶどう園の主人が期待を持っていちじくの実を探しに来たのですが、まだ実を見つけることが出来ませんでした。主人は園丁にこう言っております。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」――大変厳しい言葉であります。そこに存在する意味がない、と言うのであります。

 実は、このルカによる福音書では、初めから厳しい裁きの言葉が語られているのであります。3章には、主イエスより少し前に活動を始めた洗礼者ヨハネが人々に語った言葉が記されていますが、その中でこう言っております。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」39)非常な切迫感をもって、神様の裁きが近いことを語っております。今聞いている主イエス御自身の譬えと同様の切迫感があります。また、主イエス御自身が語られた、有名な「種蒔きの譬え」というのが、8章にあります。こういう譬えです。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出して、百倍の実を結んだ。」――この「種蒔きの譬え」で、種というのは、主イエスの解説によれば、神の言葉のことであります。神様の言葉が語られているのに、実を結ぶものもあるが、道端や石地や茨の中に落ちて実を結ばない種があることを話されて、お前たちはそういう種ではないのか、と言って警告されているのであります。主イエスはそういう話をずっとして来られて、今日の箇所の直前の12章では、終末(終わりの日)の裁きについて語られているのであります。

 そこで、問わなければならないのが、今日の譬えの中で、ぶどう園の主人が求めている「実」とは一体何なのか、神様が私たちに求めておられる「実を結ぶ」ということはどういうことなのか、ということであります。

 皆さんは、人生において「実を結ぶ」と言うと、どういうことをイメージされるでしょうか。しこたまお金を儲けて、贅沢な生活を送ることができるようになることでしょうか。あるいは、社会に貢献できるような遣り甲斐のある仕事をやり遂げることでしょうか。あるいは、平凡でもいい、良い家庭や良い人間関係を築いて、楽しく平和な日々を送ることでしょうか。あるいは、困っている人を助けたり、寂しい状況にある人の友だちになってあげて、元気や喜びを分け与えることでしょうか。――いずれも素晴らしい生き方であります。しかし、そうしたことが、ここで聖書が語っている「実を結ぶ」ということなのでしょうか。

 6節のはじめに、「そして」という言葉がありますが、それは1節から5節の中で言われたことを受けております。実は、その中に、「実を結ぶ」と言われていることが何なのかが語られています。

3.悔い改めなければ滅びる

 1節のはじめに、「ちょうどそのとき」とあります。それは、先ほど申しましたように、12章で終わりの時(終末)が差し迫っているということを話しておられた「ちょうどそのとき」という意味であります。
 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた、とあります。ピラトというのは、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督であります。ガリラヤ人というのは、ユダヤの中心であるエルサレムから見ると辺境の地域に住む人たちで、ローマ帝国の支配に対して抵抗する人たちが多かったようであります。その人たちがエルサレムの神殿に来て、礼拝を捧げているときに、ピラトの部下がやってきて、彼らを殺害したというニュースが届いたのであります。ユダヤ人に対する懲らしめ、あるいは見せしめのためだったのでしょう。ユダヤ人にとっては大変ショッキングな出来事であります。すると主イエスは周りの人々に問われました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」
 主イエスは続けて4節以下で、最近起こった出来事についても話されました。シロアムの塔と呼ばれる塔が工事中に倒れて18人の人が死ぬという不慮の事故が起こったことを取り上げて、「あの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」と問われました。
 このような災難が起こったときに、多くに人が考えるのは、その人たちに何か隠れた罪があったからではないか、ということであります。こういう考え方を、因果応報と言います。バチが当たるという考え方です。辛い病気に罹るとか、事故や災害に遭遇した時に、その人の日頃の行ないに何か問題点があって、その(たた)りだからとかバチが当たったとか、お祓いをしなければならないというように考えたりします。あるいは、そういう考えは何の根拠もない愚かな考えだとして、合理的に考え単に偶然が重なったに過ぎないとして納得しようとします。主イエスはそうした考え方にも組されません。主イエスは「決してそうではない」と、因果応報的な考え方を否定された上で、こう言われました。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」の言葉を3節と5節で2回繰り返しておられます。この主イエスのお言葉は、他人の罪のことを考えて原因を探ったり、偶然だとか運が悪かったと言って納得するのではなくて、自分のことを顧みなさい。自分の罪に気づいて悔い改めることが先決だ。そうでないと、あなたが滅びてしまいますよ、ということです。ここで主イエスは、二つの事件のことは難しいから考えるのを避けておられる、ということではありません。むしろ、人間の死ということと正面から向き合っておられて、あなたがたも、死の問題を避けて通らずにしっかりと向き合いなさい、と言っておられるのであります。そもそも人間が死ななければならないのは、人間の罪に対する神様の裁き以外の何ものでもありません。死は滅びであります。誰も、死を免れることが出来ません。そのことを受け止めて、悔い改めなければ、滅びるしかないのであります。
 主イエスがこのように言われたことで、はっきりと分かって来たことは、6節以下のいちじくの譬えで言われている「実がなる」と言われていること、本日の主題で「実を結ぶ」と言っていることが何かということが分かって参ります。それは、「悔い改める」ということであります。悔い改めの実を結ぶことを期待しておられるのであります。
 では、「悔い改める」とはどういうことでしょうか。あれをして悪かった、これは間違っていたと反省することでしょうか。それも必要かもしれませんが、それだけでは後ろ向きであって、前進にはつながりません。聖書で言う「悔い改め」とは方向転換のこと、これまでの生き方を変えることを言います。新しく生まれ変わることであります。どのように方向転換するのでしょうか。神様に背を向けて生きていたことから反転して、神様と向き合って生きるようになること、神様の方に姿勢を方向転換することです。神様と向き合うということは、神様の御心と向き合うということです。言い換えれば、神様の言葉に向き合って生きる、御言葉を聴きつつ生きるということであります。

4.執り成す園丁

 では、どうすればそのような方向転換が可能になるのでしょうか。実は、その答えが6節以下の「実のならないいちじくの木」の譬えによって語られているのであります。
 先ほど聞きましたように、ぶどう園の主人は実をつけていない「いちじく」の木を「切り倒せ」と言っております。このぶどう園の主人とは、最初に申しましたように、神様のことであります。神様は厳しいお方であります。神様の期待に沿わない者は、切り倒されるほかないのであります。存在価値がない、生きる意味がないのであります。滅びるほかないのであります。人生に色んな楽しみがあるとうに見えたとしても、また、世のため人のために役立って生き甲斐があるように見えたとしても、それは、自己満足であったり、逃避であったり、偽善であったりするだけで、神様の期待に沿っていることではないのです。――このことを私たちは厳粛に受け止めなければなりません。神様を抜きにして、人間は良いことが出来る筈がないのです。反って高慢になるだけであります。神様の前にぬかずくということがなければ、神様の御心に沿う実を結ぶことは出来ないのです。そんな木は切り倒されるしかないのであります。
 ところが、この主人の厳しい言葉を聞いた園丁は、こう答えました。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」――この園丁は、これまでもいちじくの木の面倒を見て来た人です。世話をせずに放っておいたわけではないでしょう。しかし、いちじくの木は、実をつけようとしなかった、御主人の期待に応えようとしなかったのです。園丁が悪いわけではありません。しかし、この園丁は、自分に責任があるかのように、自分がもう一度「木の周りを掘って、肥しをやってみます」と言っております。いちじくの木自身が言っているのではありません。――この園丁とは、この譬えを語っておられるイエス・キリストご自身であります。「木の周りを掘って、肥しをやってみます」という言葉は、イエス・キリスト御自身が十字架にお架かりになる決意を述べておられることに他なりません。悔い改めることをせず、誰が悪いとか、世の中に不幸なことが起こっているのに神様は何をしておられるのか、などと自分のことを棚に上げて論じている私たち人間の身代わりになって、主イエスが、私たちの負うべき十字架を代わって負ってくださるのであります。そして、私たちに対する神様の裁きを、もう少し待ってくださいと執り成しておられるのであります。――この主イエスの御言葉通り、主イエスは私たちの身代わりになって、十字架に架かってくださいました。だからこそ、まだ最終的な裁きの時が来ていないのです。永遠の滅びに至らせるのを、しばらく待っていてくださっているのであります。
 しかし、園丁も「来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言っております。いつまでも延ばし延ばしになることはありません。ここで言われる「来年」がいつ来るのか、私たちには分かりませんが、その時は必ず来るのであります。その時までに、私たちは、神様の方に方向転換しなければなりません。

結.実を結ぶ人生へ

方向転換したからと言って、私たちが神様の期待されるような立派な実を結ぶことは出来ないかもしれません。しかし、主イエス・キリストが支えてくださっています。主イエスが、周りを掘って、肥しをやってくださいます。私たちは、主イエスと一緒に神様の方を向いて、主イエスを通して神様の御言葉を聴いておればよいのであります。
 教会というのは、ここで語られている「ぶどう園」の一画であります。神様は私たち一人一人をも、教会というぶどう園に植えて、実がなることを期待しておられるのであります。その教会で私たちは主イエスを通して御言葉を聴き続け、神様の御期待、神様の御心を覚え続けることによって、神様の方に顔を向ける人生、つまり「実を結ぶ人生」を歩むことになるのであります。神様は今日、与えられた聖書の御言葉を通して、そのような新しい人生に向けて、私たちを方向転換させようとしてくださっているのであります。
 お祈りいたしましょう。

祈  り

私たちをお造りになった父なる神様!
 今日は、聖書を通して、あなたの御心をお示しくださいましたことを、感謝いたします。
 私たちは、あなたによって地上に生を与えられ、多くの恵みを受けていながら、あなたのことを忘れて、御心に沿わない生き方をしていますが故に、死すべき者であることを覚えざるを得ません。
 そのような者をも、御子イエス・キリストの執り成しによって、なお、生かしてくださっている恵みを覚えて、感謝いたします。
 どうか、あなたの御期待に、少しでも応え得る生き方が出来るものとならせてください。そのために、どうか、絶えず御言葉によって、御心をお示しください。そしてどうか、素直に御言葉に従って行く者とならせてください。
 どうか、多くの方々が、悔い改めの実を結ぶことが出来ますように、お導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

特別伝道礼拝説教<全原稿> 2015年5月10日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書13:1-9
 説教題:「
実を結ぶ人生」         説教リストに戻る