序.汚れた心の解放に向けて

 昨年の4月から、マルコ福音書の御言葉を順に聴き続けて参りまして、今年の1月に6章が終わったところで一旦お休みして、受難節と復活節の期間中は14章以下に書かれている十字架と復活の箇所を取り上げて来て、16章の最後まで来ました。今日からは、福音書を取り上げる時には、再びマルコ福音書の7章から順に取り上げて参ります。
 先ほどの聖書朗読で、今日の箇所に書かれていることの筋道は大体お分かりになったかと思います。前半の13節までは、主イエスの弟子たちの中に手を洗わないで食事をしている者がいることについてのファリサイ派の人々と律法学者たちの批判に対する主イエスの反論です。そこで主イエスが指摘されていることは、8節から13節で繰り返し述べられていますが、<あなたがたは人間の言い伝えを固く守っているが、神の言葉をないがしろにしている>ということであります。直接取り上げられていることは、ユダヤ人たちが大事にしている言い伝えに関することで、私たちにとってはどうでもよいことのように思えるかもしれませんが、実は、現代の私たちも、様々な言い伝えや習慣などによって縛られていて、神の言葉が疎かにされているのではないか、ということを問われているように思います。前半ではそのことを考えて見たいと思います。後半の14節以下は、論争になった「汚れ」をめぐって、人を汚すものは何か、汚れが外から入ってくるものではなくて、人の中から出て来るもの、つまり、人の心から出て来るものが人を汚すのだ、と教えられたことが書かれています。私たちの問題の本質を鋭く突かれる思いがする御言葉であります。では、どうすれば私たちの心が汚れから脱して、清められることができるのか。――今日の箇所では、そのことは直接には言及されてはいないのですが、主イエスのお言葉の中からそれを聴き取ることが出来るのではないかと思います。そして、私たちを縛っているものから解放される恵みに与りたいと願っております。

1.偽善者――その心は神から遠く離れている

 1節に、ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった、とあります。彼らは何のために集まったのでしょうか。主イエスが活動しておられたのは、ガリラヤ地方でありました。そこは中央のエルサレムから見れば辺境の地であって、宗教的には異端的な要素があると見られていました。そこでの主イエスの活動の様子がエルサレムにも伝わって、彼らは興味を覚えたのでしょうか。それとも問題を感じたのでしょうか。彼らがわざわざやって来た動機は分かりませんが、彼らが弟子たちの中に汚れた手で食事をする者がいるのを見て、主イエスの指導に対して疑問を感じたようであります。ある人はここに「エルサレムから来て」と書かれていることに関して、<「エルサレムから来た人々」は、単にファリサイ派の人々や律法学者だけでなく、現代の私たちの中にもいるのです>と言っております。どういうことでしょうか。「エルサレムから来た人たち」とは、自分たちの常識や習慣を正しいとして、その規準でもって主イエスの教えや行動を批判しようとする者たち、という意味でしょうか。彼らの批判は、今の私たちからすると馬鹿らしいことにも思えるのですが、そのように考えずに、私たちの中にも根強くある考え方を代表しているのではないか、という思いを持って、彼らの言うことを聞いて行きたいと思います。
 「エルサレムから来た人々」は、主イエスの弟子たちの中に手を洗わずに食事をしている者がいることを批判するのですが、その背景が34節に説明されています。彼らが批判しているのは、衛生上の観点からではありません。ユダヤ人の皆が守っている昔からの言い伝えを守っていないという批判であります。この言い伝えは、神様から与えられた律法ではありません。清い生活を実践するために人間が作り上げた解釈であります。けれども、その解釈が絶対的なものとされ、それを守ることで、自分たちの正しさを主張するのであります。
 そのような主張に対して、主イエスは6、7節でこう言われました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』」――主イエスは彼らのことを「偽善者」だと言っておられます。「偽善者」という言葉は、仮面をつけて芝居を演じる役者のことを意味したと言われます。外見と中身が一致していないということですが、ここでは、イザヤの言葉にあるように、口先で言うことと心とが遠く離れているということであります。彼らに対する鋭い批判でありますが、この主イエスの言葉から、私たち自身のあり方が厳しく問われている思いがいたします。私たちは、この世で善いとされていること、即ち、ここで言われている「人間の戒め」に反しない生活をしているという自負を持っています。そればかりでなく、こうして教会に来て、神様の教えを聞き、礼拝するという生活までしている。誰から見られても後ろ指を指されない生き方をしているように見えます。しかし、イザヤが言うように、「その心はわたしから(神様から)遠く離れている」のではないか、「むなしくわたし(神様)をあがめている」のではないか、<神様の御心に従う生き方を、本当にしているのか>と問われているように思います。

2.人間の言い伝えか、神の言葉か

 8節から13節までの箇所は、汚れの問題の前提となっている「言い伝え」に関して、主イエスは一つの例を挙げて、ファリサイ派の人々と律法学者たちの偽善の実態を明らかにされています。モーセを通して神様から与えられた十戒の第5戒では、「父と母を敬え」と言われています。しかし一方、神様を第一にしなければならないという戒めもあります。限られた所有物を神様に捧げるのか、父母のために用いるのかという問題が起こります。そうした場合の対処の方法として、11節にあるように、<父または母に対して「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済む>という「言い伝え」を作り上げていたのであります。このために、「コルバン」という言葉を言うだけで、両親に対する義務を回避するようなことが平気で行われるようになっていました。このような現実は、十戒で示された神様の御心と違うのは明らかであります。主イエスはこの例を挙げながら、言おうとされていることは、8節、9節、13節で繰り返し言われていますように、<人間の言い伝えを大事にして、神の言葉がないがしろにされている>ということであります。

 この例を聞いて、私たちはユダヤ人のことを馬鹿にすることはできません。神様のことを大切にするのか、人間のことを大切にするのかという問題は決して小さな問題ではありません。生活の様々な場面でぶつかる問題であります。「コルバンと言えばよい」というような、形式的に何かをすれば、解決するというような問題ではありません。礼拝や教会のことを大切にするのか、それとも家庭や仕事を優先するのか、神様に従うのか、人の営みを大切にするのか、ということは、形式的なルールを作って解決することではありません。その度ごとに、神様の御言葉に聴きつつ、祈りながら、答えを見出さなければならないことであります。

 具体例をお話しした方が分かりやすいと思いますので、失礼ながら、M姉が御主人を亡くされて、今後の問題で悩んでおられることを例にして話させていただきます。M姉は家の仏壇をどうするか、お墓をどうするか、不動産をどうするかといった色々なことを決めなければなりませんが、それをキリスト者としての信仰の立場との兼ね合いの中でどう判断すればよいのかということは、確かに悩ましい問題であります。「私はクリスチャンだから、仏壇のことは知りません」と言って責任放棄すれば、それはここで、「コルバンと言えばよい」というのと同じことになってしまいます。そうかと言って、御主人は信仰をもって召されたわけですから、引き続き仏壇を守って行くということも意味のないことでありますし、信仰とは矛盾することになります。そこで大切になることは、主イエスがおっしゃっているように、<人間の言い伝えを大事にするのではなくて、神の言葉に聴く>ということであります。しかし、日本の社会の中では仏壇を大切にするという「人間の言い伝え」を大事に考えている人が多いわけですから、簡単に言い伝えを無視することはできません。どうすればよいのか。それは、クリスチャンだからという形式的な道を進むことではなくて、そこでこそ、神の御言葉に耳を傾けるということが大切になって来るのではないでしょうか。神様の御心を問うて真剣に祈る中で、神様の御栄光が顕わされる最善の道をお示しくださる筈であります。

 こうしたことは、キリスト者であれば、様々な場面で出会う問題でありますし、求道者として神様との関係を模索しておられる方々も同様なことであろうと思います。その時に大切なことは、イザヤも言っているように、口先で神様を敬うことではなくて、心が神様から遠く離れないことであります。神様を信頼して神様に密着して、問い続けること、祈り続けることであります。

3.人間の心から出て来るものが人を汚す

 さて、14節以下は、再び「汚れ」の問題に戻っています。「何が人を汚すのか」ということについて、主イエスの教えが示されています。
 まず1415節でこう言っておられます。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
――ここで「外から人の体に入るもの」とは、まずは食べ物のことでしょう。旧約聖書のレビ記11章は「食物規定」と呼ばれていて、食べてよい清い動物と、食べてはならない汚れた動物が詳しく書かれていて、敬虔なユダヤ人はそれを守っていました。けれども、主イエスはここで、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく」と言われて、食物規定の廃止を宣言されました。食物規定については、後に弟子のペトロがその規定に拘っていたことが使徒言行録に書かれているのですが、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声が天からあって、これがきっかけで、異邦人への伝道が出来るようになります。しかし、ここで大切なことは、主イエスの後半の言葉であります。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われます。――そう言われても、弟子たちは何のことかよく分からなかったようで、17節によると、弟子たちがこのことについて尋ねますと、主イエスは、「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか」とおっしゃりながら、こう言われました。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」――これは、<どんな食べ物でも毒にはならない>という意味で言われたのではないでしょう。ここで言われているのは人を汚すか汚さないかということで、食べた物で人間の体に不必要なものは、吸収されずに、外に出されてしまいます。決して、汚れた食べ物が心の中にまで入って人を汚すことはありません。更に、続けてこう言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」――問題は人間の心から出て来るところの思いや言葉であります。人間が汚れるのを、外から入って来る食べ物のせいにしたり、他人のせいにするな、ということです。21から22節にかけて、人間の悪徳が並べられていますが、23節にあるように、「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す」のであります。心の中から出て来る悪い思いが、こうしたものを生み出すのです。
 では、「心」とは何でしょうか。心とは人間の人格の中心にあるものと言ってよいでしょう。人格を左右するものであります。聖書によれば、パウロは神様のことを「人の心を見抜く方」(ローマ827)と言っておりますし、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(エフェソ317)とも記しております。心とは、私たちの内にキリストを宿すところであり、そのキリストを通して神様と出会うところであります。
 先週、岡山で開かれた中四国地区の長老執事委員研修会に、当伝道所から3人が出席しました。主題は「聖書だけが語る救い」ということで、救済論について、講演がありました。その講演のあとの全体協議会の時間に、講師と参加者との間で少々難しい議論のやり取りがあった時に、S兄が手を挙げて、こう発言されました。「頭で理解するのでなくて、心で理解しましょう」と。この発言に皆、一瞬「ハッ」とさせられたのでありました。この箇所で言われている「心」というのも、「頭」のことではありません。ハートであります。人格であります。神との出会いの場であります。霊的であるべき場所であります。そこが汚れていては神様と出会うことが出来ません。ここに列挙されているようなものに占拠されていては、人を汚すだけになってしまいます。

結.神の言葉が人を清める

 では、その私たちの「心」は、どうすれば清められるのでしょうか。どうすれば悪い思いに占拠されないようになるのでしょうか。
 今日、学んで来たことで言えば、<人間の言い伝えに捉われるのでなくて、神の言葉を大事にする>ということでしょう。神の言葉がないがしろにされている間は、心は汚れたままで、悪い思いに占拠されてしまいます。神の言葉が、私たちを人間の言い伝えや、自分中心に凝り固まった考えから解放してくださいます。本当の意味で自由に生きることが出来る者へと変えられます。
 しかしながら、神の言葉は私たちが引き寄せることが出来るものではありません。悪い思いによって一杯になっていて、罪に満ちた心には、神の言葉も届かないのではないかと不安になります。しかし、その心配には及びません。神様は私たちの心が汚れたものによって占領されている状態を憐れんで、御子イエス・キリストをお遣わしくださったのであります。そして、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの心を、神様を崇め、人を愛することの出来る心に作り変えようとしていてくださるのであります。そして、神の言であるイエス・キリストをお迎え出来るところにしてくださったのであります。
 最後に、エゼキエルの言葉を聴きたいと思います。エゼキエル書3625節以下であります。わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
――ここで「肉の心」と言われているのは、石のように血の通っていない冷たい堅い心ではなくて、血の通った、暖かい心、罪から解放された、自由で、生き生きした心のことでしょう。それは、神の言である主イエス・キリストが住み給う心であります。その心が与えられることを、神様はエゼキエルを通して私たちに約束されているのであります。その約束の実現のためにこそ、主イエス・キリストをお遣わしくださいました。この神様の深い愛の御心が、私たちの心を新しくするのであります。残された人生を「肉の心」を持って生きたいものです。 お祈りいたしましょう。

祈  り

深い愛をもってイエス・キリストをお遣わしくださる父なる神様!
 私たちはあなたの御言葉をないがしろにし、人間の言い伝えに心を奪われていることの多い者であることを、告白しなければなりません。どうか、イエス・キリストの執り成しの故にお赦しください。
 そして、どうか、イエス・キリストを通して語られた御言葉を、すなおに、真剣に、私たちの心に受け入れ、イエス・キリストをお迎えできるようにさせてください。そしてどうか、私たちの心の中から、悪い思いを追い出してください。
 あなたの御言葉がまだ届いていない人、御言葉から離れている人を顧みてくださり、あなたに向けて心を開いてくださいますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年5月3日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書7:1-23
 説教題:「
人間の戒めと神の言葉」         説教リストに戻る