序. 将来に対する不安の中で

 受難節と復活節の間、マルコによる福音書から連続して御言葉を聴いて参りましたので、今日は久しぶりにイザヤ書と向き合うことになります。
 イザヤ書40章以降の第二イザヤと呼ばれる箇所は、イスラエルの民がバビロンで捕囚になっていた時代の末期に書かれたものであると推定されています。捕囚になってから既に70年近い年月が経っていて、イスラエルの民は将来に対して大きな不安を抱いていたと思われます。一方、バビロンでの生活にも馴染んで行く中で、そこで拝まれていた偶像に心を寄せるということもあったのではないかと考えられます。そうした中で、第二イザヤと呼ばれる預言者は、イスラエルの民に向かって厳しい警告を語る一方で、やがてキュロスというペルシャ王が出現して、イスラエルの民をバビロン捕囚から解放することを告げるのであります。これはイスラエルの民にとって信じ難いことであり、また、異邦人によって救われるというようなことは、容易に受け入れることの出来ないことでありました。
 ところで、私たちにも、将来に対しては不安を抱かざるを得ない状況があります。わが国は今年、戦後70年を迎えますが、その間、戦争のない平和な状態を続けて来ることが出来ましたが、今や、周辺国とのギクシャクした状況が続いています。同盟国が攻撃された時に一緒になって戦争が出来る国にしようとする動きもあります。平和憲法を改正するところまで進もうとする状況であります。また、大きな自然災害が時々起こりかねない国でもあって、東日本大震災のように、まるで、バビロン捕囚のように、住み慣れたと土地を離れなければならないような事態がいつ起こるかもしれないという不安があります。また、わが国の平均寿命が伸びて、そのこと自体は結構なことではありますが、高齢化社会が急速に進んで、福祉政策が追いつけない状況があります。そうした中で、自分の老後はどうなるのか、という不安を拭いきることは出来ません。高齢になってから独りで暮らさなくてはならないケースも増えていて、以前のように、最後まで家族と暮らすことが出来なくなくなって、施設に入らざるを得ないことが多くなっています。そういう施設が以前より増えて来たことはよいのですが、老後の精神生活のことを考えると、必ずしも心豊かに過ごすことが出来ないのではないかと思われます。また、若い時から精神的に病んでおられる方が増えていますが、そういう方も、親が元気であるうちはともかく、親が歳をとって介護が必要になり、自分も歳をとった時のことを考えると、とても不安になるのではないかと思います。
 今述べて参りましたような将来に対する不安は、私たちの身の回りにも多くあるのではないかと思いますし、私自身の中でも、不安を拭いきれません。かつてのイスラエルのバビロン捕囚とは状況は異なりますが、将来に対する不安が重くのしかかっているということでは、現代の日本も捕囚状態にあると言えるのかもしれません。
 さて、そうした中で、この第二イザヤが語る神様の御言葉は、私たちにとっても、大きな慰めであり、支えとなるものであります。今日は、将来に向けて様々な不安を抱える私たち対して語られる力強い御言葉を、御一緒に聴き取りたいと思います。

1.重荷となる偶像/背負う神

 まず、1節、2節は、バビロンの偶像の神々のことが記されています。「ベル」というのはヘブライ語のバアルに相当して、バビロンの最高神マルドゥクを指します。また、「ネボ」というのは文学と科学の神でありまして、バビロニア王朝の守護神とされていました。しかし、そのバビロン王国が崩壊の危機にさらされると、それらの神の像を危険の迫った神殿の台座から降ろして、獣や家畜に負わせて運び出さなければならないではないか、と皮肉っているわけです。そうした偶像は、いざという時に頼りにならないだけでなくて、却って重荷になって、結局、彼ら自身も捕われることになる、というのです。
 3節、4節は、そのような偶像とは対照的に、真の神様の言葉が告げられています。わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。――何という力強い言葉でしょうか。
 イスラエルの家の残りの者」とありますが、これは旧約聖書における重要な概念の一つで、迫害の中にあっても真の神への信仰を貫く人々のことで、イザヤ書の中で、これまでにも「残りの者は立ち帰る」ということが告げられていました。(イザヤ731022)しかしそれは、ただ強い信仰を持っている者だけが救われるということではありません。4325節で、「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする」と言われていましたように、神御自身が人の罪を担い、その苦難を引き受けてくださる、ということであります。また、冒頭で「ヤコブの家よ」と呼びかけられていますが、これはイスラエルの民全体に向けての呼びかけでありまして、その民が「胎を出た時から・・・白髪になるまで」と、人間の生涯を表わす比喩を用いて表現されていますが、イスラエルの民の長い苦難の歴史を通して、神様がご自分の民として背負って行こうとおっしゃっているわけです。
 このイスラエルの民に対して言われた約束の言葉は、神の民である教会に引き継がれました。現代の教会も、そして真の神を信じる私たちも、偶像礼拝に取り囲まれています。多くの人々は偶像に願いを託しております。しかし、偶像は結局、いざと言う時には重荷にしかならず、私たちを救うことは出来ないと言われているのであります。地域における各種の祭ごとや先祖を祀る家の宗教が、心の慰めとなることもあるかもしれませんが、果たして私たちの生涯を支え、国の歴史を導いてくれるのでしょうか。むしろ、人に重荷を負わせるものにしかなっていないのではないか、と問いかけているのであります。それに対して、真の神は歴史に働く神であります。アブラハム、イサク、ヤコブに約束された神は、イスラエルの歴史に働き、イエス・キリストにおいて救いの約束を成就してくださり、今も教会を通して、私たちの救いを成し続けておられるのであります。
 ところで、この3節、4節の言葉は、今申しましたように、神の民の歴史に関わる約束として受け止めるべきものでありますが、比喩としてではなく、文字通りに、私たち個人の生涯のこととして聴くことも許されるでしょう。冒頭で、高齢化時代に生きる不安のことに触れました。自分の老後のことは誰も見通すことが出来ません。既にお歳を召しておられて、色々な不具合を抱えつつ、家族から離れた生活を余儀なくされている方々の不安は大きいと思います。しかし神様は、「あなたたちは胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、背負って行こう」と言ってくださっているのであります。これは言葉だけの空約束ではありません。それはイスラエルと教会の歴史を通して示されて来たことであります。その中心は、単に健康が守られるとか、生活が保障されるということではなくて、イエス・キリストにおいて私たちの罪の重荷を背負ってくださるということであります。そこにこそ、深い平安があります。
 5節から7節にかけては、再び偶像礼拝の愚かさが語られています。6節では、袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は/鋳物師を雇って、神を造らせ/これにひれ伏して拝む、と言われていて、お金さえ出せば造ることができる神を拝むことの馬鹿らしさが強調されています。また7節では、彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことができない、と自ら動くも出来ない物体に過ぎないことが述べられ、それに助けを求めて叫んでも応えず/悩みから救ってはくれない、と言葉を語ることが出来ず、人格を欠いた物体でしかないことが語られています。このような偶像に対して、真の神は人間が造ったものではありません。むしろ人間を造られたお方であります。また私たちが担いで動かさなければ移動できないお方ではなく、どこにでも働いてくださるお方であります。そして何よりも、言葉をもって語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださり、愛をもって働いてくださるお方であります。

2.思い起こせ、初めからのことを

 8節と9節には、「思い起こす」という言葉が繰り返されています。
 
これは3節で、「わたしに聞け」と言われていたことを受けています。そして、3節、4節で約束されていたことが、この8節以下で更に展開されて参ります。

 「思い起こせ」と命じて、何を思い起こせというのでしょう。9節では、「初めからのことを」と言っております。3節、4節では、「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた」と、人間の誕生の時の比喩で語られていましたが、ここではイスラエルの歴史の初めからのことを指していることは明らかであります。「初めからのこと」とは、天地創造のこととも考えられますが、より具体的には、先ほども申しましたように、イスラエルの歴史のはじめ、即ち、アブラハム、イサク、ヤコブの辺りからでしょう。アブラハムに対して神様は、「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福する」(創世記1213)と約束されて、生まれ故郷を離れて、神様が示す地に行くよう命じられました。アブラハムの子イサクに対しては、「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす」(創世記2624)と約束されました。イサクにはエサウとヤコブが生まれましたが、神様は「兄が弟に仕えるようになる」と言われて、ヤコブが祝福を受けて、そのヤコブの十二人の子がイスラエルの民の12部族の先祖となったのであります。そのヤコブの子孫がヨセフ物語として記されている経緯があってエジプトに移住するのですが、やがてヨセフのことを知らないエジプト王がイスラエルの民の力を恐れて奴隷にするのですが、神はそのイスラエルの民をエジプトから脱出させて、荒れ野の厳しい旅の中で、十戒を与え、真の神を礼拝する訓練をされた上で、約束の地カナンに定着させられたのでありました。そして、9節後半に書かれているように、わたしは神、ほかにはない。わたしは神であり、わたしのような者はいない、ということを歴史の中で、御言葉と体験をもって教えられたのでありました。

3.計画は必ず成る

 では、バビロン捕囚という将来に対する不安を覚えざるを得ない状況の中で、「初めからのこと」を思い起こして、イスラエルの歴史の中から何を学べと言うのでしょうか。それは伝統を重んじて保守的になれということでしょうか。そうではありません。10節では、こう言われています。わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り/わたしの望むことをすべて実行する。――イスラエルの歴史から学ぶべきことはこのことです。即ち、神様は初めからの約束を必ず成就される、ということであります。
 その神様の約束の具体的な内容が11節であります。東から猛禽を呼び出し/遠い国からわたしの計画に従う者を呼ぶ。わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる。――「東からの猛禽」とはペルシャ王キュロスのことであります。キュロス王がバビロンを滅ぼし、イスラエルが解放されるのであります。それは歴史の偶然ではありませんし、当時の勢力バランスの変化から来る必然でもありません。神様がキュロス王を用いて歴史を動かされるのであります。神様が救いの計画を実現させられるのであります。
 冒頭に述べましたように、私たちは将来に対して不安を抱えている者であります。それぞれの老後のことなど身の回りにおいても、またこの国の行く末と、そこで生きて行く我々の子孫のことについても、また伝道の不振の中にある教会の今後のことを考えても、不安は尽きないのであります。
 そのような私たちに対して、神様は今日、「思い起こせ、初めからのことを」と言って、イスラエルの歴史を思い起こさせてくださいました。そして、捕囚の民を解放する計画を明らかになさりつつ、神様は御自身の計画を必ず完成させる方であることも告げておられます。
 更に、12節でこう呼びかけられます。わたしに聞け、心のかたくなな者よ/恵みの業から遠く離れている者よ。――イスラエルの民がバビロン捕囚になったのは、神様が自分たちを守ってくださるということを信じないで、他の国の力に頼ろうとした罪のために、神様がお与えになった試練でありました。しかし、神様が望んでおられるのは、彼らが捕囚の苦難の中で不安な日々を送ることではありません。神様こそが、「胎を出た時から、白髪になるまで、背負い救い出す」お方であることを知るようになることを望んでおられるのであります。そのために用いられるのがキュロス王であります。
 神様は不安の中にある私たちにも、「わたしに聞け、心のかたくなな者よ、恵みの業から遠く離れている者よ」と呼びかけておられます。「恵みの業」と訳されている元の言葉は一語で、「正義」とも訳される言葉ですが、神様の正義とは、ただ心の頑なな不信仰な者たちを罰せられるだけではなく、そこから救い出すという恵みの業をもなさることが含まれているのであります。私たちも、心がかたくなで、神様に委ね切れない罪に陥ってしまって、恵みの業から遠く離れがちであります。そういう私たちたちをも、もう一度、恵みの業に引き戻そうと、呼びかけておられるのであります。
 神様が東から呼び出される猛禽、即ちキュロス王によって私たちに指し示されていることは、主イエス・キリストが遣わされたことであります。私たちが将来に向けて不安を拭えないのは、罪に陥っていて、神様を信頼出来ないからであります。神様はそんな私たちを救い出して、罪の縄目から解放するために、御子を十字架に架けてくださいました。私たちにとってのキュロス王であるイエス・キリストは、既に2000年前に来てくださいました。そして罪からの救いの御業を成し遂げてくださいました。恵みの業から遠く離れていた者たちにも、立ち帰る道を備えてくださいました。そして、私たちを将来に向けての不安から解放してくださったのであります。

結.主の輝きにあずかる

最後に、13節の言葉を聴きましょう。
 わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。わたしはシオンに救いを/イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。
 イザヤが告げたこの言葉の通りに、間もなくキュロス王がバビロニア帝国を滅ぼし、イスラエルは約70年間にわたる捕囚から解放され、エルサレムに帰還して、神殿も再建するのであります。
 この神様の御決意の言葉は、私たちにとっては、悔い改めて洗礼を受けることによって与えられる救いの約束であり、最終的には、終末における私たちの救いの完成を約束してくださっているものであります。またこれは、私たち一人一人の救いの約束であるだけでなく、教会に託された使命の完成をも約束する言葉であります。今年、私たちは「御言葉が実を結ぶ」という目標を与えられていますが、神様はこの目標の一部を達成されるだけでなく、最終的には信じる者すべての救いが実を結ぶことを約束されているのであります。私たち一人一人と教会は、「わたしの輝き」即ち、神様の輝きに与ることを約束されているのであります。祈りましょう。

祈  り

私たちが胎を出た時から担ってくださり、白髪になるまで背負ってくださる、父なる神様!
 今日も、イザヤを通してイスラエルの民に語られた御言葉によって、心かたくなな私たちにも恵みの業を成してくださり、救いの御計画を完成するとの大いなる約束を聴くことを許されて、感謝いたします。
 私たちは不信仰でありますが故に、自分の老後について、教会の今後について、またわが国の動向について、不安を覚えざるを得ない者であることを告白いたします。
 どうか、今日聴かせていただいたあなたの約束の御言葉を信じる者とならせてください。そしてどうか、あなたの救いの御計画が、実現し、完成して、あなたの輝きにあずかる者たちとならせてください。
 まだあなたを知らずして、不安の中にある多くの人々にも、あなたの御心が伝わり、御言葉が実を結びますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年4月26日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書46:1-13
 説教題:「
主の計画は必ず成る」         説教リストに戻る