序. 主の昇天によって、私たちはどうなる?

 今日与えられている聖書の箇所は、マルコ福音書の最後の部分に当たる161920節の御言葉であります。そこには「天に上げられる」という小見出しがつけられておりますように、復活された主イエスが天に昇られた、「昇天」のことが記されています。主イエスの誕生のことや十字架と復活のことはよく取り上げられますが、昇天のことはあまり取り上げる機会がありませんので、その意味合いを深く考えることが少ないのではないかと思います。しかし、考えてみますと、現在の時というのは、主イエスが昇天されてから再臨されるまでの間の時ですから、今、私たちが主イエスと向き合うのは昇天された主イエスであります。ですから、主イエスが昇天されて、今どういう状態にいられるのかということが今の私たちにとって非常に大切であります。そういうわけで、今日は、主イエスの昇天ということの意味合い、そして昇天された主イエスと私たちはどういう関係にあるのかということを、今日の箇所から学びたいと思います。
 そこで、疑問になることは、そもそもなぜ主イエスは昇天されたのか。なぜ復活されたままの状態で、今もおられないのか、ということ、また、今は天におられるということですが、主イエスは天において何をなさっているのか、その主イエスと私たちの関係はどうなっているのか、ということ、更に、主イエスが天におられる状態のもとで、私たちはどうなるのか、どうあるべきなのか、ということであります。これらは、今の私たちのあり方、生き方にとって、大きな影響がある筈であって、とても大切なことであります。
 主イエスの昇天のことは、この箇所だけでなく、ルカ福音書と使徒言行録にも書かれていますので、それらも参考にしながら、主イエスの昇天の意味と私たちとの関係について、聖書が語ろうとしていることを聴き取りたいと思います。

1.なぜ、昇天されたのか

 さて、復活された主イエスは、使徒言行録13節によりますと、四十日にわたって弟子たちに現れて、神の国について話されたのであります。今日の箇所の19節によりますと、主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、とありまして、先週に聞いたように弟子たちに現れられて、「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」と言われたあと、すぐに天に上げられたようにも受け取れるのでありますが、コリントの信徒への手紙によると、弟子たち以外にも「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」と書かれていて、主イエスが復活されたことを多くの人にお示しになるとともに、宣教の命令を弟子たちにしっかりと伝えられたということが分かるのであります。主イエスが昇天されたのは、その後であります。ということは、主イエスが地上においてなすべきこと、語るべきことをすべて為し終えて、天に昇られたということでありまして、地上における救いの御業は完成されたのであります。そして私たちは、その御業と御言葉を過不足なく聖書を通して知ることが出来るということであります。
 私たちは、今も主イエスが地上にいてくださり、直に御言葉を語ったり、目に見える形で御業をしてくだされば、もっとキリストに対する理解が早いのに、と思ってしまうのでありますが、天に昇られたのは、地上で為すべきことをすべて為し終えられたからだと理解すべきであります。復活という出来事もそうでありまして、私たちは、今も復活の主イエスが目に見える姿で現れてくだされば、誰でもすぐ信じることができるのに、と思うのですが、主イエスはトマスにこう言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。主イエスは「見ないのに信じる」という最大の幸いを用意して、天に昇られたのであります。その幸いとは、御言葉を聴いて信じる幸いであります。そして、その御言葉は、十分に語り尽くした上で、天に昇られたということであります。
 こうして、主イエスは地上で為すべき全ての業を終えられたので、もはや地上に主がおられる理由はなくなって、天の御座に帰られたということであります。主イエスがなぜ昇天されたのかと言えば、その答えは、地上で為すべき全てのことを為し終えられたからであります。ですから私たちは、主イエスの地上での御業や語られたことが不十分であったと考えてはならない、ということです。今、聖書を通して知られることによって、主の恵みを十分に知ることが出来るのであります。ヨハネ福音書で、主イエスはこう言っておられます。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と。聖霊の助けによって、私たちは必要な御言葉を聴き取ることが出来るようにされると、約束されているのであります。この約束を信じて、聖書の御言葉に聴き続けたいと思います。

2.神の右の座に着く――天において何をされているのか

 では、地上での御業を為し終えた主イエスは、天に昇られて、そこで何をなさるのか。そのことを次に、御言葉から聴き取りたいと思います。

 19節では、天に上げられ、神の右の座に着かれ、と書かれています。

天に昇られたのは、「神の右の座」に就くのが目的であったということです。主イエスは、ヨハネ福音書の冒頭に書かれているように、「初めに神と共にあった」お方であります。元々から、神の右の座におられたお方であります。神と共に、万物を創り、それを治めておられたお方であります。その権威と栄光の座に戻られた、ということであります。地上における時間や空間の制約を離れて、神様と共に、世界を御支配なさるということであります。十字架の上で息を引き取られたのを見た百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。主イエスは地上の御生涯を通して、特に、十字架の御業を通して、神の子であることをお示しになりましたが、その御業を終えて、本来の神の子としての御座にお戻りになったのであります。そして、父なる神と共に、万物を御支配なさるのであります。

 このことに関連して、この19節には見逃してはならない言葉があります。それは冒頭の「主イエス」という言葉です。私たちがよく使っている言葉ですから、別に珍しい言葉ではないように思われるかもしれませんが、実は、福音書の中には、「主イエス」という言い方があるのはここだけで、ずっと「イエス」と書かれているのです。今、天に昇られたことを記すこのところで初めて「主イエス」と書いたのであります。つまり、地上で一人の人間として歩まれたイエスが、今や天に昇られて「主イエス」となられた、栄光の主となられた、と言いたいのであります。これまで語って来た「イエス」こそが、崇めるべき真の主である、と言いたいのであります。

 それでは、神の右の座に着かれた「主イエス」は、もはや私たちから遠くの世界に行ってしまわれて、地上におられた時のような親しい関係が切れてしまったということでしょうか。天上の遥か彼方におられて、上から目線で私たちを御支配なさっているということでしょうか。そうではありません。むしろ逆です。地上におられたイエスが天に昇られたことで、神の座が私たちにとって、遠くの存在ではなくて、あのイエスさまのおられるところということで、身近な場所になったのであります。パウロはこのことをローマの信徒への手紙の中で、こう言っております。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ834)。私たちの住む地上に来てくださったイエスさまが、今は父なる神のおそばで、私たちのために執り成していてくださる。ですから、天の座というのが罪深い私たちにとっても、恐ろしいだけのものではなくなったのであります。

3.弟子たちは出かけて行って――私たちは何をするのか

 さて、それでは地上にいる弟子たちや私たちは、この新しい事態の中で、何をしたらよいのか。そのことが20節の前半に書かれています。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。――弟子たちは主イエスの御命令に従って出かけて行きました。彼らが主イエスの復活を信じられない間は、恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。しかし、復活の主に出会い、今やその主が天に昇られるや、彼らは恐れることなく、外に向かって出かけて行きました。出かけて行って、何をしたのでしょうか。「至るところで宣教した」のです。何を宣教したのか。弟子たちの初期の宣教活動の様子は使徒言行録の初めの方に書かれています(使徒2143631126など)。その要点は、十字架につけられたイエスが死者の中から復活されたこと、そして、その方こそが主であり、メシアであるということでありました。その宣教の業を、最初はエルサレムから始めましたが、間もなく、エルサレムから出かけて、「至るところ」へ行きました。それは、エルサレムでは迫害があったので、出かけざるを得なくもあったのですが、いやいや逃げ出したということではなくて、福音を携えて、主イエスの御命令を実行すべく出かけて行ったのであります。そして、各地に主イエスを信じる群れである教会を作って行くことになります。その詳しい様子は使徒言行録から知ることになるわけですが、まさに当時の世界の中心地であった地中海沿岸の、文字通り「至るところで宣教した」のであります。
 そして、教会は今も、至るところで福音の宣教をしておりますし、私たちもその一翼を担っているわけですが、それは、ただイエス・キリストのことを多くの人に知らせるというだけではなくて、イエス・キリストが天の神の御座に着かれて全世界を御支配なさっているという現実と結びついていることであって、イエス・キリストが世界の至るところで主でいますことの証しでもあるわけであります。このことを私たちはよく弁える必要があります。私たちが至るところに伝道しなければ、主イエスの御支配の範囲が拡大しないのではなくて、主イエスは既に父なる神と共に世界を御支配なさっているのであります。私たちはそのことを、至るところの人たちに知らせる務めを与えられているということであります。この山陰の地も、既に主イエスの御支配のもとにあるのであります。

4.主は彼らと共に働き――聖霊において

 次に、20節の後半を御覧ください。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった、とあります。
 まず、主が彼らと共に働き給うのであります。地上に残された弟子たちや私たちが、主イエスのおられなくなった地上で、孤独な戦いを強いられているということではなくて、天におられる主イエスが聖霊において私たちと共に働いてくださっているということであります。宣教の主体は主イエス・キリストであります。福音が語られるところには、主が現臨されて、主が働いておられるのであって、私たちはそこで、共に働かせていただくに過ぎないということであります。モーセがイスラエルの指導者として召しを受けたときに、モーセは躊躇して、こう言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。すると神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」とおっしゃいました。主イエスは私たちを宣教の業に派遣されるときも、同じであります。
 次に、「彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と言われています。弟子たちや私たちが出かけて行って行うことは、御言葉を語るということであります。主がなされた御業、語られたことを御言葉として語るのであります。しかし、私たちは言葉を語っているだけでよいのだろうか、実践が伴わないとだめではないか、具体的な生活態度や成果を見せないといけないのではないか、言葉だけでは空しいのではないか、と思ってしまいます。しかし、私たちは、自分たちの行動や実践で伝道するのではありません。私たちの行動で神様の言葉の裏打ちをするのではありません。私たちがすべきことは主イエスの御業と御言葉を語ることで、それを裏打ちしてくださるのは、主イエス御自身であります。御言葉が語られるときにこそ、人々の悔い改めが起こるのであります。それだけでなく、そこに「しるし」が伴うのであります。
 しるし」というのは、1718節に具体例が挙げられていました。これがしるしの全てだというわけではなくて、色々な形があり得ますが、御言葉が語られ、信じる者が起こされるときには、しるしが伴うというのです。しかし、しるしを求めるだけで、御言葉が疎かにされてはなりません。また、信じるための手段としてしるしを求めることは間違いです。マルコ福音書2章に中風の人の癒しの出来事が書かれています。その中で主イエスは、「中風の人に、『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか」と問いかけられました。大事なことは、中風の癒しという「しるし」よりも、罪の赦しであります。御言葉が語られ、悔い改めが起こるときに、「しるし」が伴うのであります。そのしるしは、必ずしも私たちが期待していたものと一致するとは限りませんが、ここに書かれているように、語られる御言葉が真実であることをはっきり示す「しるし」を伴う、ということであります。

結.再臨に向けて――新しい命に生きる

 最後に、主の昇天によって、私たちはどうなるのか、ということをもう一度確認しておきたいと思います。
 主イエスは1516節で、弟子たちにこう命じられました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」――この主の命令と約束を信じて従うかどうかによって、その後の生き方が変わります。この御言葉を信じて従うときに、新しい命、新しい生き方が始まります。それは、孤独な生き方ではありません。私たちが自分の力を振り絞って頑張らなくてはならない人生ではありません。20節にあったように、主が聖霊において共に働いてくださる人生であります。そして、やがて主の再臨があり、終わりの時が来ます。私たちが毎週告白しています使徒信条では、主の昇天について、「全能の父なる神の右に座しておられます」と告白したあと、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」と述べます。しかし、この再臨の時を私たちは恐れる必要はありません。むしろ、希望の時として待つことが出来ます。その時まで、私たちは御言葉を聴き続け、御言葉を証しし続けるのであります。主イエスはマルコ福音書13章で、再臨のことを教えられていますが、その最後にこう言っておられます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」――この約束を信じて、残された人生を、希望をもって歩みたいものであります。祈ります。

祈  り

今も天にあって私たちと共に働いてくださる主イエス・キリストの父なる神様!御名を賛美いたします。
 今日も真実なる御言葉を通して、私たちを滅びから救い出し、御言葉に仕える新しい希望に満ちた働きへと遣わしてくださる恵みを覚えることが出来ましたことを感謝いたします。
 どうか、地上に生かされております間、御言葉を聴き続け、生かされ、また語ることができますように、信仰の弱いこの者をも強め、用いてください。どうか、あなたの御言葉による救いに、まだ与っていない方々に、あなたがどうか出会ってくださいますようにお願いいたします。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年4月19日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書16:19-20
 説教題:「
天に上げられたイエス」         説教リストに戻る