序. 「恐ろしかった」では終われない

 今日はマルコ福音書169節以下の御言葉を聴こうとしておりますが、そこには、「結び」という表題がつけられていて、9節の上には“〔”(括弧)がついています。これは、以下の箇所が後代の加筆であるということを表示しています。ということは、元のマルコ福音書は、8節で終わっていたということです。16章の1~8節には、先週の復活節の礼拝でも聴いた復活日の朝の出来事が書かれているのですが、その最後には、こう書かれています。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。――墓の入り口の大きな石が転がしてあって、中には主イエスの御遺体がない。驚いていると、白い衣を着た若者(ヨハネ福音書では天使)が現れて、主イエスが復活されたことを告げました。この出来事に、婦人たちは単純に喜べなかったのは、むしろ当然でしょう。理解を超えた厳粛なことが起こっていることに、恐れを覚えざるを得なかったのはもっともであります。
 ここまでに復活の出来事は記したので、マルコ福音書はここで終わっていてもよかったのかもしれません。しかし、婦人たちが、恐ろしくて「だれにも何も言わなかった」、というだけでは、その後の弟子たちの働きにつながりません。尻切れトンボの感を拭えません。この後の写本が失われたのではないかという推測も出来ますが、恐らく後代になって、他の福音書に記されていることも参照しながら、要点が書き加えられたのではないかというのが大方の見方です。911節に書かれていることは、復活の主イエスがマグダラのマリアに現れたことで、先週の人形劇では、ヨハネ福音書の記述に従って、天使が現れたすぐ後のこととして演じた出来事ですが、ここでは主イエスとの会話は書かれていなくて、簡単に記されています。また1213節に書かれていることは、ルカ福音書ではエマオという村へ向かっていた二人の弟子に現れた出来事として、13節にわたって詳しく書かれているものです。そして、1418節に書かれているのは11人の弟子たちに現れたということですが。これも他の福音書にも書かれていることですが、ヨハネ福音書にあるようなトマスのために現れたことまでは記されていません。――このように、ここに記されている出来事は他の福音書にも書かれていることの二番煎じだということであれば、あまり価値がないと言えるかもしれません。しかし、よく見ると、三つの記述に共通する、とても大切な言葉があることに気づくのであります。それは、「信じなかった」という言葉で、11節の終わり、13節の終わり、それに14節の終わりに、繰り返し記されています。婦人たちが知らせたこと、エマオで主イエスに出会った弟子たちの言ったことを弟子たちは信じられなかったのであります。主イエスを十字架に架けた人たちが信じられなかったというのではありません。主イエスの弟子たちであって、主イエスから復活の予告さえ聞いていたのに、信じられなかったのであります。このように、主イエスの復活ということは、聞いただけでは簡単には信じられない事柄であります。このことは、聖書を通して復活の出来事を聞いている私たちも同様であります。主の復活ということがなければ、キリスト教の信仰は成り立ちませんし、パウロが言うように、わたしたちの宣教は無駄であります。それなのに、私たちは主の復活のことを信じるのが、困難なのであります。
 では、弟子たちはどうなったのでしょうか。どのようにして主の復活を伝える者たちになったのでしょうか。そして、私たちも信じることが出来るようになるのでしょうか。――今日はそのことを、与えられた御言葉から聴き取りたいと思います。

1.復活を信じられない者たち

 まず、10節を御覧ください。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた、とあります。
 弟子たちは「泣き悲しんで」いたのであります。主イエスが十字架に架けられて死んでしまわれたことで、悲しみに暮れていました。彼らは主イエスを信頼し、大きな期待を抱いて従って来ました。人生を主イエスに託して参りました。苦労を共にもして来ました。その主イエスが死んでしまわれたのですから、その喪失感は大きかったと思います。これから自分たちはどうしたら良いのか、生きる望みさえ失って、ただ悲しむしかなかったのでしょう。その上、主イエスが捕えられた時に、自分たちが何も出来なかっただけでなく、逃げ去ってしまいましたし、ペトロに至っては主イエスを知らないと言って裏切ってしまいました。そのような情けない自分たちに対する後悔の念が、一層悲しみを深くしていたと思われます。
 人は、深い悲しみの中にある時には、心を閉ざし勝ちであります。慰めの言葉も耳に入らない時があります。主イエスの死という現実を目の当たりにして、その現実に支配されてしまっていたのでしょう。せっかくマリアが、主イエスが現れたこと、生きておられることを知らせても、たわごとにしか聞こえなかったとしても無理からぬことかもしれません。むしろ、ますます悲しみが深まったのかもしれません。
 主イエスの復活の知らせは、私たちの恐れや悲しみを平安や喜びへと変える筈のものですが、反って、素直に受け入れることが出来ないことが多いのであります。<そんなあり得ないことで、自分の悲しみや苦しみを誤魔化されないぞ>、と構えてしまうのであります。
 次に、1213節の、エマオへ行く道で二人の無名の弟子たちに主イエスが現れた出来事ですが、ルカ福音書によれば、最初は近づいて来た人を主イエスだとは気づかずに、この日に婦人たちが天使から主イエスの復活のことを聞いたという話をすると、主イエスは、メシアが復活することは聖書に書いてあるではないか、ということを話されるのですが、二人はまだ主イエスだとは気づかず、エマオに着いて、一緒に食事をしている時に、パンを取ってお渡しになる様子から、やっと二人の目が開けて、主イエスであることに気づいたのでした。どうしてすぐに気づかなかったのでしょうか。イエスが別の姿で御自身を現わされた、と書かれています。「別の姿」というのは、マリアに現れた時とは別の姿という意味でしょうか、それとも、かつての主イエスの姿とは別の姿という意味でしょうか。いずれにしろ、ひと目で主イエスとは分からないお姿であったということです。復活の主に出会うということは、決してすぐに分かるような形では起こらないということが示されているように思います。二人の目が開かれなければ分かりませんでした。そこには聖霊の働きが必要だということを物語っているのではないでしょうか。二人が主イエスだと気付くと、そのお姿は見えなくなりました。二人は急いでエルサレムに戻って、主イエスに出会ったことを他の弟子たちに知らせたのですが、彼らは二人の言うことを信じなかったのであります。ここにも、復活の出来事は、聞いただけでは信じられなかったということが記されています。私たちもまた、聖書に記された証言を通して、主の復活のことを聞くのでありますが、なかなか信じられないのであります。神の言葉を聞いていても、死の現実の方が確かなのではないかと、どこかで思ってしまっているのであります。死の力の支配から抜け切れないのであります。この死の支配からどうして抜け出すことが出来るのでしょうか。

2.不信仰をおとがめになる

 そのことが14節以下に記されています。まず、14節を読みます。
 その(のち)、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

 「その後」というのは、復活日の夕方のことなのか、それにしては、ヨハネ福音書ではトマスがいなかったというのですから人数が合いませんし、主イエスが手とわき腹の傷をお見せになって、その場にいた弟子たちは復活を信じた筈ですが、ここでは「信じなかったからである」と書かれています。別の日だとしたら、一旦信じたのに、また信じられなくなってしまったということでしょうか。その辺りは、辻褄を合わせるのは難しいのですが、復活のことは、一度信じたら何の疑いもなくなるようなことではなくて、私たちにしても、絶えず、御言葉によって主イエスに出会うことによって、確かめなければ信じられない不信仰な者であります。ですから、私たちもまた、弟子たちと一緒に、何度も主イエスのおとがめを受けなければならないのではないでしょうか。

 ここで、「おとがめになった」と訳されている言葉は、非常にきつい言葉です。十字架上の主イエスを人々が「頭を振りながらののしった」(1532)と書かれていましたが、その「ののしった」という言葉と同じです。他の福音書では、復活の主が弟子たちのところに現れたときには、「あなたがたに平和があるように」と語られたことが書かれているのですが、このときにもそういう言葉もあったのかもしれませんが、ここでは厳しいおとがめの言葉がクローズアップされています。復活の主イエスはやさしいだけのお方ではありません。不信仰とかたくなな心に対しては厳しいお方であります。

 私たちが復活の主に出会うときも、私たちを優しく包み込んでくださるという面と共に、私たちを厳しくおとがめになるという面があることを知らなければなりません。ある人は、「主イエスに責められたおぼえのない人は、まだ本当にキリストに出会っていない」と言っています。私たちは礼拝において、御言葉において主イエスと出会うのでありますが、そのときに、甘い優しい言葉しか聞こうとしなければ、主イエスと出会っているとは言えないのではないでしょうか。主イエスが深い愛を込めて私たちと出会ってくださるときには、私たちのかたくなで不信仰な心を打ち砕こうとされるのであります。その主イエスの御心に正面から向き合うのでなければ、出会ったことにはならないのであります。

 では、主イエスがおとがめになった不信仰とは、どのようなものだったでしょうか。ここには、「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」と書かれています。主イエスを裏切ってしまったことをおとがめになっているのではありません。主イエスは弟子たちの弱さを十分知っておられて、そのような弟子たちをも救うためにこそ十字架にお架かりになったのであります。だから、弟子たちの裏切りは、いわば折込み済みであります。私たちの弱さも十分に御存知であります。だから、そのことをおとがめにはなりません。では、何をおとがめになっているのでしょうか。主イエスは、弟子たちに十字架の死のことを予告なさっただけではなくて、十字架の後に復活するということを何度も弟子たちに告げておられました。そして今や、その復活の主に出会ったという人の言うことを信じない弟子たちをおとがめになっているのであります。「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じない」ということは、復活すると約束されていた主イエスの御言葉を信じていないということです。そこに弟子たちの不信仰があります。そして、私たちがとがめられるのも、主イエスが復活の約束を語っておられ、その御言葉の通り復活なさったという知らせを聞いているのに信じないという点であります。

 しかし、主イエスは弟子たちの不信仰とかたくなな心を知って、彼らをお見捨てになったのではなくて、今や弟子たちのところにも現れられたのであります。そして、他の福音書に書いてあるように、十字架の際の手と脇の傷跡をお見せになったのであります。そこまでして、主の復活を信じなかった弟子たちを、不信仰から離れさせようとされたのであります。そして、弟子たちが如何に不信仰でかたくなであったかに気づかせようとなさっているのであります。弟子たちと違って、私たちはこのような主イエスと直接出会うわけではありません。しかし、今は聖書を通して、このようにして弟子たちに会われた主イエスに出会っているのであります。主イエスは私たちのために、そこまでしてくださっているのであります。それでもまだ信じられないとしたら、私たちの不信仰とかたくなな心は大きなおとがめを受けざるを得ないのではないでしょうか。しかし、今日、主イエスのおとがめを受ける者は幸いであります。信じる者へと変えられるからであります。

3.「全世界に行って」

 さて、主イエスのおとがめを受けた弟子たちはどうなったのでしょうか。15節にはこう書かれています。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
 主イエスは、<お前たちは不信仰でかたくなな心であるから、弟子として失格である>とはおっしゃいませんでした。おとがめになった弟子たちに対して、直ちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という壮大な務めをお与えになったのであります。これは矛盾ではないか、もっと確かな信仰を持ってから初めて、宣教の業に遣わされるのが本当ではないかと思ってしまいます。では、復活の主イエスに出会って、おとがめを受けた途端に確かな信仰を持てるようになったということでしょうか。主イエスに出会ったのですから、復活への疑念は大きく解消されたでしょう。しかし、不信仰とかたくなな心が全て消え去ったわけではないでしょう。けれども、主イエス事実、死を克服して復活されたのです。弟子たちの罪の贖いも十字架の御業によって成就しました。新しい時代が始まりました。十字架と復活の福音が全世界に伝えられるべき新しい段階に入ったのであります。この時から、その福音の御言葉が伝えられることによって、主イエスとの出会いが起こり、救いが拡がっていく時代になったのです。まだ、不信仰とかたくなな心の中にある人が世界中にいるわけですから、福音の御言葉を一刻も早く伝えなければなりません。そのために、まだ不完全な信仰しか持ち得ていない弟子たちも、そして私たちも、用いられなければならないのであります。
 続いて16節では、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と語っておられます。神の救いを受け、永遠の命を得る唯一の道は、福音を信じて、洗礼を受けることだと言われています。福音を信じただけではなくて、洗礼を受けることが伴わなくてはならないということです。洗礼というもの自体に、魔術的な力があるわけではありませんが、悔い改めて信仰を告白して洗礼を受けることで、神様が応答してくださることのしるしが洗礼であります。このお言葉は、弟子たちが福音を宣ベ伝えることに伴って行うべきことを命令として語られたものであり、主の大切な御委託であります。それと同時に、このお言葉は、まだ信仰を持っていない者たちへの招きの言葉でもあります。主イエスは弟子たちを、聞いて信じる者へと招かれましたが、それと同じように世界中の人々を、聞いて信じる信仰へと招いておられるのであります。

結.信じる者のしるし――新しい言葉を語る

 この招きに続いて17節以下で語られているのは、信じる者に伴うしるしであります。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
 これらのしるしのうち、悪霊を追い出すということは既に弟子たちが伝道から帰って来たときに報告されていましたし(ルカ1017)、手で蛇をつかむというのはパウロがマルタ島に漂着した時に行なったことが記されています(使徒283)。また、先ほど創世記3章を読んでいただきましたが、そこには人間を誘惑した蛇に勝利したことが語られていました。これは原福音と言われる箇所で、このことがキリストによって成就したと解釈されています。しかし、ここに書かれているようなことが、今日の私たちの信仰生活の中で起こると考えるのは適切ではありません。むしろ迷信になってしまいます。けれども、神様が必要とお考えになれば、どんな奇跡的なことでも起こされるということは今も同じことです。それは私たちを通してでも神様がなさることであります。そのことを信じたいと思います。ここに記されているしるしのうち、注目したいのは、「新しい言葉を語る」と言われていることであります。これは、直接的には聖霊降臨日に弟子たちが色々な国の言葉で福音を語り始めたことを指すのでしょうが、私たちもまた、キリストの復活を証しする言葉を語ることが出来るようになる、という約束として聴くことが許されるのではないでしょうか。私たちは、伝道が思うように進まない現状を嘆きがちでありますが、主の復活の福音は、「新しい言葉」として、人々を救いに導く奇跡的な力を発揮することが約束されているのであります。その約束の言葉を聞いて信じる者とされたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

復活の主イエス・キリストの父なる神様!
 復活の主が、今日も御言葉において、私たちに出会ってくださったことを感謝いたします。
 このような恵みを受けながらも、私たちは主の復活を素直に信じることが出来ず、主の復活の喜びを伝える力を欠く者であることを思わざるを得ません。どうか、主の日ごとに、御言葉において復活の主に出会うことができるようにさせてください。そしてどうか、私たちも新しい言葉を語ることの出来る者とならせてください。
 どうか、まだ復活の主と出会っていない人、出会っていてもそのことに気づいていない人に、あなたが聖霊において、更に働いてください。そして、救いの洗礼へと導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年4月12日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書16:9-18
 説教題:「
全世界に行って」         説教リストに戻る