序. イエスさまの復活でどう変わるのか

 今日は、初めは紙芝居で、イエスさまが十字架に架けられて死んでしまわれた出来事を見て、次には人形劇で、復活なさったイエスさまが弟子たちに次々と現れた時の様子を見ました。
 イエスさまは、なぜ十字架に架けられることになったのでしたか?何か大きな悪いことをしたからですか。そうではありませんね。イエスさまが十字架に架けられたのは、お国の偉い人たちがイエスさまを憎らしく思っていたということもありましたが、それだけの理由ではありませんでした。弟子たちがイエスさまに間違ったお願いをしたように、イエスさまのことがよく分かっていなかったために、弟子たちもイエスさまを裏切ってしまいました。また、町の多くの人々は、イエスさまが王様になって素晴らしいことをしていただけると期待していましたが、自分たちの望みがかなえられないと分かると、「十字架につけろ」と言って、結局、十字架に架けることに賛成してしまいました。お国の偉い人も、町の多くの人も、そして弟子たちまでもが、自分のことだけを考えて、イエスを心から信じることが出来なかったのです。それは、人間みんなの中にある恐ろしい「罪」が原因でした。
 こうして、イエスさまは遂に十字架に架けられて死んで、お墓に葬られたのですが、三日目の日曜日の朝に、お墓から復活されました。その後、イエスさまは、四十日にわたって、何度か弟子たちに現れられたのですが、今日はそのうちの三つの場面を人形劇で見ました。最初は、イエスさまのお体に良い臭いの油を塗ろうと思ってお墓に来た女の人たちに現れました。次は、その日の夕方、部屋の中に隠れていた弟子たちに現れました。そして三つ目は、そのとき一緒にいなかったトマスさんのために、もう一度現れてくださったのでした。
 では、復活したイエスさまにお会いした人たちは、イエスさまにお会いしたことによって、どう変わったのでしょうか。そのことを、もう一度、考えてみたいと思います。

1.空になった墓――墓が終わりではない

 まず最初は、十字架で亡くなられてから三日目の朝早くの出来事です。女の人たちは、大好きなイエスさまが死んでしまわれて、がっかりすると同時に、さびしい思いになっていたと思います。亡くなった次の日は安息日と言って、外に出歩いたらいけない日だったので、お墓に行くことも出来ませんでしたが、三日目の明け方早くに、亡くなったイエス様のお顔をもう一度見たいし、お体に良い臭いの油を塗ろうと、お墓までやって来ました。女の人たちは、お墓の入り口をふさいである大きな石を誰がころがしてくれるかと、心配しながらお墓に着くと、驚いたことに、大きな石はもう除けられていて、お墓の入り口は開いていました。中を見ると、イエスさまのお体がありません。すると、天使が現れて、イエスさまが復活されたと言いました。でも、女の人たちは、何が起こったのか分からずに、恐ろしくなりました。だって、イエスさまが復活されるなんて思ってもいなかったからです。
 イエスさまは以前から、十字架に架けられて死ぬけれども、必ず復活するということをおっしゃっていたのですが、そんなことはすっかり忘れていました。十字架の上で血を流しながら死んでしまわれたイエスさまを見ていましたから、とても復活されるなどと思えなかったでしょう。亡くなった人はお墓に入れられて、それでおしまいです。
 しかし、イエスさまは違います。お墓に入れられておしまいではないのです。死んでしまったら終わりではないのです。お墓は空っぽでした。復活したイエスさまに、もうお墓は要りません。お墓から新しいことが始まるのです。死ぬことに打ち勝って、新しい復活の命が始まるのです。
 でも、女の人たちはそんな新しいことが始まっているとは思いません。それで、きっと誰かが、大事なイエスさまのお体を盗んだのではないかと考えました。そこで、急いで男のお弟子さんたちに知らせに行こうとしました。

2.女たちに現れる――イエスさまとの新しい関係

 するとそのとき、女の人たち前にイエスさまが立っておられたのです!でも、最初はイエスさまとは分かりませんでした。(人形劇では詳しく演じませんでしたが、)初めは、お墓の番人かと思って、「イエスさまのお体をどこかに運んだのなら教えてください」と言いました。するとイエスさまが「マリア!」とおっしゃったのですね。(イエスさまのお母さんのマリアでなくて、マグダラのマリアともう一人のマリア。)びっくりしたでしょうね。でも、死んでしまわれたと思っていたイエスさまにお会いできて、思わず「先生!」と叫んで抱きつこうとしました。

 ところが、イエスさまはこう言われたのです。「すがりつくのはよしなさい」。――なぜ、すがりついてはいけないのでしょうか?復活なさったイエスさまのお体は、幽霊のようなものだからでしょうか。そうではありません。あとの場面で出て来るように、十字架にお架かりになった傷もそのままのお体です。けれども、復活されたイエスさまと弟子たちとの関係というのは、以前のように先生と弟子たちという関係ではありません。十字架にお架りになって復活されたイエスさまは、もはや私たちと同じ人間ではありません。同じ人間同士のように、抱き合って喜び合う関係ではありません。私たちが礼拝しなければならないお方です。そのことが分かって、女の人たちはイエスさまの前にひれ伏して礼拝しました(マタイ福音書)。イエスさまは復活して、ただ元の体に戻られて、元の先生と弟子という関係が続くということではなくて、救い主として私たちが礼拝するお方になられたということです。こうして、復活されたイエスさまと私たちとの関係は礼拝するという新しい関係になったのです。

そして、そのあと、イエスさまがマリアさんたちに言われたことは、<まもなく、イエスさまは天の父なる神様のところへ昇る>ということと、<他の弟子たちのところへ行って、ガリラヤで待っているように伝えなさい>ということでした。

3.弟子たちに現れる――罪を赦されて

 さて、その日の夕方のことです。弟子たちは恐れて家の戸の鍵を締めて集まっていました。何を怖がっていたのでしょうか?――それは、イエスさまを十字架に架けた人たちが自分たちを捕まえに来るのではないかということを恐れたのです。夕方までには、女の弟子たちから、イエスさまが復活なさったという知らせも伝わっていた筈ですけれども、そんなことは信じられなくて、喜ぶどころか、弟子たちの心の中は、怖がる気持ちの方が強かったようです。捕まえられるのも怖いですけれど、もしイエスさまが本当に復活なさったのだったら、自分たちがイエスさまを裏切ってしまったことで、お叱りをうけることも恐ろしかったかもしれません。だから、復活なさったなんて、信じたくもなかったのではないでしょうか。
 ところが不思議なことに、鍵がかかっていた家の中に、イエスさまがスーッと入って来られたのです。弟子たちはどんなにびっくりしたことでしょうか。入って来られたイエスさまは、こう言われました。「あなたがたに平和があるように。」これは、ユダヤの国では普段の挨拶で使われている言い方で、「ごきげんよう」というような言葉なのですが、ただの挨拶ではない深い意味が込められていました。それは、怖がっている弟子たちが「安心しなさい」という意味です。それは、「捕まえられることはないから安心しなさい」という意味もあったでしょうが、イエスさまを心から信じることが出来ないで裏切ってしまうという大きな罪を犯してしまったのですが、その「あなた方の罪も赦されるから安心しなさい」という意味も込められていたと思います。イエスさまは、しっかりと鍵のかかった扉を通って家の中に入って来られましたが、実は、イエスさまと裏切った弟子たちの間には、分厚い心の扉の鍵がかかっていたのですが、それをイエスさまの方から突き破ってくださったということです。
 それでも、弟子たちははじめ、イエスさまが本当に復活されたことが分からなかったと思います。幽霊でも見ているような気がしたかもしれません。そこでイエスさまは、手とわき腹をお見せになりました。すると、確かに、手には十字架に釘づけされたときの釘跡があります。わき腹には槍で刺された跡があります。弟子たちは十字架にお架かりになられたイエスさまに間違いないことを知って大喜びしました。イエスさまは本当に復活なさったのです。そればかりではありません。弟子たちがイエスさまを信じられないで、イエスさまを裏切ってしまった罪も赦してくださっていることを知ることができたのです。

4.トマスも信じる――疑いの壁が破られて

 ところが、この日、そこにいなかった弟子が一人いました。それはトマスさんです。他の弟子たちから、イエスさまが復活されたことを聞きましたが、トマスさんはこう言いました。「わたしはあの方の手に釘跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 それから一週間が経ちました。その時も弟子たちは家の扉の鍵をかけていました。今度はトマスさんも一緒にいました。するとそこへ、また復活されたイエスさまが来られたのです。イエスさまを信じられなかったトマスさんをお叱りになったでしょうか。トマスさんにこう言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」トマスさんが自分の手でさわって確かめないと信じられないなら、そうしなさいということです。イエスさまはトマスさんがどう言っていたかもご存知で、何とかトマスさんも信じてほしいと思われたのでしょう。
 けれども続けてこう言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」本当は、イエスさまを見て、手で触って確かめるのではなくて、イエスさまが復活すると約束してくださったお言葉を聞いただけで信じることを、イエスさまは喜んでくださるのです。
 そのあと、トマスはイエスさまの釘跡に指を入れたでしょうか。手をわき腹に入れて確かめたでしょうか。そうはしませんでした。けれども、イエスさまのお姿を見るまでは、イエスさまが復活されたことを信じることができませんでした。イエスさまは最後にトマスさんにこうおっしゃいました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」――トマスさんは復活したイエスさまのお姿を見て信じることができたのですが、それよりも、イエスさまのお姿を見ないでも信じることが出来るなら、もっとすばらしいことだ、とおっしゃったのです。
 私たちは、イエスさまの復活のことを信じることが出来るでしょうか。私たちは、2000年も前におられたイエスさまにお会いすることは出来ませんし、今、復活されたイエスさまのお姿を見ることもできません。それでも、私たちは、復活されたイエスさまが弟子たち現れたこと、そして弟子たちにお話しになった言葉を、こうして聖書から聞くことが出来ます。そして、イエスさまが復活されたこと、イエスさまが弟子たちの罪をお赦しになったように、私たちの罪も赦してくださることを信じることができるようにしてくださいました。これは、とても幸いなことです。イエスさまは、こうして聖書のお話しを聞くことによって、私たちの心の中にある厚い疑いの扉を通り越して、私たちの心の中に入って来てくださって、私たちを信じることのできる者に変えてくださるのです。

結.「わたしの主、わたしの神よ」――イエスさまに従う

 最後に、イエスさまの復活を信じることが出来たトマスさんは、イエスさまに向かってこう言いました。「わたしの主、わたしの神よ」
 イエスさまを礼拝することが出来たということです。トマスさんはこうして、疑いから解放されました。信じることが出来ました。罪を赦されることも出来ました。ということは、トマスさんも他の弟子たちも、イエスさまと一緒に新しい命、復活の命に生きることが出来るようになったということです。私たちも、今日の聖書のお話しを聞いて、弟子たちと同じように、復活のイエスさまを信じることができて、イエスさまを礼拝することが出来るならば、イエスさまに従って生きて行く者になって、私たちも今までとは違う新しい復活の命に生き返ることが出来るということです。
 お祈りいたしましょう。

祈  り

イエスさまの父なる神様!
 あなたは私たちのためにイエスさまをこの世にお送りくださって、そのイエスさまを十字架にお架けになるまでして、私たちの罪をお赦しくださり、イエスさまと神様を信じることができるようにしてくださいましたことを感謝いたします。
 私たちは、イエスさまの復活のことを遠い昔の話のように聞いてしまって、信じることが難しいのですが、こうして復活節の礼拝にお招きくださって、聖書を通して、復活されたイエスさまのお言葉を聞き、御心に触れることによって、イエスさまにお会いできますことをうれしく思います。どうか、これからもずっとイエスさまを信じて、イエスさまの復活の命を生きることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝(復活節合同礼拝)説教<全原稿> 2015年4月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書20:1-29
 説教題:「
イエスさまの復活」         説教リストに戻る