百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。          (マルコによる福音書1539

 主イエスが十字架につけられたのは朝の9時だったが、昼の12時になると、全地が暗くなった。それは単なる天候の急変であったかもしれないが、聖書がそのことを記しているのは、世の光として来られた主イエスの命が消えることは、世界が暗黒に突き落されることだと言いたいのだろう。
 全地が暗くなる中で、主イエスは大声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。この叫びをどう理解すればよいのか。これは詩編22編の冒頭の言葉で、後半は賛美と感謝の言葉になるので、全体を語るつもりが、途中で息絶えたとする理解もある。だが、主イエスは罪人が受けるべき裁きを代わって担われ、神から見捨てられるという断絶を引き受けられたのであるから、このように叫ばれたことにこそ私たちの救いがあると言えるのではないか。ここに、人と共にあり給うインマヌエル(神我らと共に)としての主イエスの姿が鮮やかに示されている。しかも、「わが神、わが神」と、神への深い信頼をもって呼びかけておられる。神との関係を諦めたり、捨て去ったりしておられない。また、自分の感情や主張から出た言葉ではなく、聖書の言葉をもって叫ばれたことの中にも、神の言葉への深い信頼を聞き取ることが出来る。
 こうして主イエスが息を引き取られると、神殿の垂れ幕(聖所と至聖所を隔てる幕)が上から下まで真っ二つに裂けた。これは、罪ある人間も神の許に近づく道が開かれ、神と人間の和解が成就したことを示している。もはや、神殿で犠牲を献げる必要がなくなり、神殿の存在の意味さえ失われ、私たちの礼拝の仕方が変わることとなった。
 すると、死刑の執行を行う兵士たちの責任者である百人隊長が標記のように、「本当に、この人は神の子だった」と言った。彼が主イエスを救い主として正しく捉えていたかどうかは別としても、主イエスの死を目の当たりにして、非常に厳粛なものを感じたのであろう。そして、彼が述べた言葉は、その後の教会が主イエスをどのようなお方として告白したかを示している。つまり、十字架の苦しみを受け、人々に侮辱されて死に給うたお方こそ、神の子であるということである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年3月29日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書15:33-47 
 説教題:「
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