序. 十字架の主に向き合って

 今日与えられている聖書の箇所は、マルコ福音書の中のクライマックスであります。主イエスの地上の御生涯は、ここの十字架に向けての歩みでありました。十字架の死ということがなければ、イエス・キリストは救い主ではありませんし、キリスト教の信仰は成り立たなかったでしょう。教会のシンボルとして十字架が立てられるのも、十字架の恵みを伝えているところこそが教会であるからであります。
 しかし、十字架というのは、決して美しいものではありません。それは人の罪をあらわし、罪の結果である死を意味するものであって、アクセサリーになるようなものではありません。むしろ、出来れば避けたいもの、忌み嫌われるべきものであります。けれども、キリスト教の信仰にとって、イエス・キリストの十字架の出来事を外すことは出来ません。むしろ、イエス・キリストを信じるためには、この出来事と正面から向き合わなければなりません。十字架の主と向き合うことがなければ、主イエスに出会ったとは言えないのであります。
 しかしながら、主イエスの十字架は、私たちにとって簡単に受け入れることの出来ることではありません。十字架に架かったイエス・キリストがなぜ信仰の対象になるのか、なぜそのような人が「私」の救い主だと言えるのかということは、大きな問いであります。先週の箇所では、十字架の周りにいた人たちが皆、主イエスを侮辱したことを聞きました。彼らは言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシアなら今すぐに十字架から降りるがよい」と言って、ののしりました。これが十字架に向き合う者の、普通の姿であります。私たちもまた、十字架の主と真剣に向き合おうとすれば、彼らと同じ叫び声を上げざるを得ないのであります。なぜ、主イエスは十字架に架からねばならないのか、なぜ、神の子が死ななければならないのか、この問いを避けて、十字架の主に向き合うことは出来ません。今日は、この問いをもって、聖書の御言葉に向き合いたいと思います。

1.全地は暗くなり

 主イエスが十字架に架けられたのは、25節にありましたように、朝の9時でありました。それから人々の侮辱が続いたのでありますが、33節によれば、昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いたのであります。このように急に天候が変わることは、決して珍しいことではなかったようですが、聖書がわざわざここに書き記しているのは、単なる偶発的な出来事としては受け取らなかったからでしょう。主イエスの命が消えかかっていることを、世界が闇に閉ざされることと重ね合わせているのであります。ある人は、「全自然も、主イエスの苦しみにあやかろうとしている、言うならば喪に服したのだ」と言います。また、神様が創造の御業をなさった時に、「光あれ」と言って光を創造されましたが、それ以前の暗黒の状態に、世界が突き戻されたことを示している、と受け取ることも出来ます。主イエスの誕生物語の中で、ザカリアは「あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」(ルカ1:7879)と歌いましたが、その光が、今や失われようとしていると言えるのであります。
 しかしながら多くの人は、主イエスの死というものを、それほど深刻なものとは受け取っていないのではないでしょうか。2000年前にこの世を去った一人の偉大な人物の死ではあるけれど、今の自分の人生に大きな影響をもたらすような出来事とは考えていないのではないでしょうか。まして、世界が暗黒に突き落されるような出来事とは感じていないのではないでしょうか。主イエスがこの地上から去って、大きな希望の光が消えたのかもしれないけれども、人類は色々な光を産み出して来たし、それでもって様々な前向きの営みをして来たではないか、主イエスが亡くなられたことによって、地上の光が全て消えてしまったわけではない、暗黒だけが残されるわけではない、現に、自分の人生においても、様々な不安や悩みがあるけれども、暗黒で覆い尽くされているわけではなくて、それなりに様々な光がある、何も主イエスの光だけに頼る必要もない、仮に主イエスの光が消えたとしても、他の光もあるではないか、と心の奥底では思っているのではないでしょうか。――しかし聖書は、主イエスの死の時が迫って来た時に、「全地が暗くなり」と記すのであります。全地の光が消え失せて、闇が覆ったと捉えているのであります。主イエスが死ぬということは、実はこの世から光が失われるということであります。当然、私たちの人生からも光が失われることなのであります。そこここに、何か光と思えることがあったとしても、空しい光に過ぎません。やがて消え去るしかない光であります。本当は暗黒しか残らないのであります。そのことを、聖書は「全地が暗くなり」と記すことで私たちに伝えようとしているのではないでしょうか。

2.「わが神、わが神、なぜ・・・」

 さて、そのような暗闇が覆い始める中で、私たちに光が届かなくなるだけではなく、ここで私たちが問題にしなければならないのは、主イエスが闇に直面しておられる、という事実であります。34節です。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。――これは絶望的な叫びであります。神様から見捨てられたということを深く覚えられたということです。弟子たちに棄てられたとか、民衆に捨てられたということではありません。とことんまで従って来た父なる神様に見捨てられたということです。しかも、「なぜ」と問うておられます。これまで、神様の御心に従って、十字架への道を歩んで来られた主イエスであります。しかし、死ということは神様との関係が切れることであります。神様がお見捨てになったということです。これは大きな謎であります。罪深い者が捨てられるのなら止むを得ないかもしれないのですが、罪のない者が見捨てられるのは、容易に納得出来ることではありません。

 では、この主イエスの叫びをどう理解すればよいのでしょうか。一つの理解としてよく言われることは、この言葉は先程朗読した詩編22編の冒頭の言葉ありますが、この詩編の最後は賛美と感謝の言葉になるので、主イエスは全体を語られるつもりだったのだけれども、途中で息絶えられたのではないか、という説明であります。もしかすると、そうであったかもしれません。しかし、そう理解することで、主イエスの絶望をそれほど深刻なものではなかったとか、神様に見捨てられたとの思いは一時的なものに過ぎなかったと考えるならば、それは誤りではないでしょうか。

皆様はこの主イエスの叫びをどう受け止められるでしょうか。主イエスであっても、最後はこのような絶望的で懐疑的な言葉で終わらなければならなかったとしたら、十字架には救いはないと考えざるを得ないのでしょうか。それとも、もっと格好良い言葉を発する筈だったのだけれども、事切れてしまったのであって、本当は、例えば、「人々の救いのために、御心に従って最後まで苦しみを味わい尽くします」といった格好良い勝利の宣言の言葉を言おうとされたのだけれども、それを言う前に息が絶えてしまった、と考えた方がよいのでしょうか。――私はどちらとも考えません。この主イエスの叫びで十分だし、ここに救いがあると思います。主イエスは罪人が受けるべき苦しみと絶望を、その深みまで御自分のものとされ、神様から見捨てられるという断絶を引き受けられたのであります。最後まで神様の御心に従う神の子でありつつ、罪人としての人間が受けるべき裁きを徹底的に担われたのであります。ある人は、「キリストの神性が隠された」、「神であることを隠してまでも、徹底的に人間であろうとしてくださった」と言っております。ここに、人と共にあり給うインマヌエル(神我らと共に)としての主イエスの姿が鮮やかに示されているのであります。

しかし、そうかと言って、神の子であることを捨てて、神を信頼しない不信仰な人間になられたのではありません。「わが神、わが神」と呼びかけておられます。神様への深い信頼をもって呼びかけられているのであります。決して神様との関係を諦めたり、捨て去ったりはしておられないのです。この叫びの言葉は詩編22編の冒頭の言葉であります。聖書の言葉であります。人間の思いつきの言葉ではなくて、神の言葉であります。神様に見捨てられたとしか思えないような絶望的な状況の中で、最後に語られた言葉は、自分の感情からほとばしるだけの言葉ではなく、誰かを批難する言葉でもなく、自分の正しさを主張するような言葉でもなく、聖書の御言葉でありました。あくまでも神様の御言葉に信頼しておられるのであります。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という神に見捨てられた罪人の言葉を御自分の言葉として叫ばれることの中に、御言葉に対する主イエスの深い信頼があるのではないでしょうか。このような主イエスの神様に対する深い信頼があるので、不信仰な私たちも神様に祈ることが出来るし、信頼して罪の赦しを願うことさえも許されるのではないでしょうか。

 このあとの35節、36節は省略させていただきます。そして、37節以下に参ります。

3.神殿の垂れ幕が真っ二つに

 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られたとあります。大声で何を言おうとされたのかは分かりません。断末魔の苦しい叫びであったかもしれませんし、御業を為し切ったという勝利の叫びであったのかもしれません。いずれにしろ、最後まで死と罪に対して、徹底的に戦われたということであります。そして注目すべきは、38節であります。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた、という出来事がありました。
 この「神殿の垂れ幕」というのは、神殿の中の聖所と、大祭司だけが入ることの出来る至聖所との間の幕であります。その幕が裂けたということは、神様と人間との間を遮るものが取り除かれたということであります。もちろん、神様と人間の差が無くなったということではありませんが、罪ある人間も神様の許に近づくことができる道が開かれたということ、神様と人間との和解が成就したということであります。そのことが、主イエスの死によって始まったのであります。かつての時代は、神殿において動物の血が注がれ、大祭司が執り成すことで罪の贖いが成立するとされたのでありますが、今や動物の血や大祭司の執り成しがなくても、誰でも罪の赦しを受けることが出来るようになったということです。こうして、もはや神殿の存在する意味が失われました。マルコ福音書の1115節以下には、主イエスが神殿から商人を追い出された出来事が書かれていて、131節以下では、主イエスが神殿の崩壊を予告されたことが記されています。そしてそのことが神殿を冒涜したとして、主イエスを訴える理由の一つにもなったのですが、今や、主イエスの十字架の死によって、その神殿が実質的に崩壊した、即ち存在理由がなくなった、のであります。
 こうして、私たちの礼拝の仕方が変わりました。ローマの信徒への手紙でパウロはこう勧めています。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12:1)もはや、動物などの犠牲を献げる必要はありません。神様との間の幕は取り払われました。罪ある私たち自身が神様の許に入って行くことが出来ます。そして、私たち自身を聖なるいけにえとして献げることで、罪の赦しを受けることが出来るようになりました。こうして、私たち自身が神様に仕える者に造り変えられ、生き方が大きく変えられることになったのであります。

4.「本当に、この人は神の子」

 そして、そのことがすぐさま実際に起こりました。39節です。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。この百人隊長がイエスの方を向いていたのは、職務上の任務でありました。彼は死刑を執行する兵士たちの監督者であり、主イエスが完全に息を引き取ったことを確認して、死の証人となるのであります。しかし彼は、主イエスの死を確認しただけではありません。「本当に、この人は神の子だった」と言うのであります。これまで兵士たちは十字架の主を侮辱したりからかったりしていました。しかし、その隊長である百人隊長は、一部始終を見ていて、こう言わざるを得なかったのでしょう。当時、「神の子」という言い方は、ローマ皇帝に対する呼び名でもあったと言われます。そんな呼び名を死刑囚に対して言ったということは驚きです。もっとも、この百人隊長が主イエスのことを救い主として正しく捉えていたかどうかは疑問であります。けれども、主イエスの死を目の当たりにして、非常に厳粛なものを感じたのでしょう。この百人隊長の言葉がここに書き残されているということは、後の教会がこの十字架の出来事をどう受け止めたかということを表わしています。このマルコ福音書の筆者は、11節で、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で書き出していて、主イエスが神の子であることを証言するのが、この福音書のテーマだとしているわけですが、ここに来て、「本当に、この人は神の子だった」という言葉を記して、主イエスこそ神の子であるという、自分の信仰の告白をここに書き留めているのであります。
 ここで、「神の子」という言い方について、もう一つ思い出しておくべきことがあります。ヨハネ福音書の初めで、主イエスのことを「言」と言っておりますが、その中で、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)と言っていますし、ローマ書では「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ローマ8:14)と言われ、ヨハネの手紙でも、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(Ⅰヨハネ3:1)と記されているように、私たちも神の子とされるのであります。もちろん、私たちが神の子と呼ばれるのは、キリストが「神の子」と言われるのと同じ意味ではなくて、私たちはイエス・キリストとの関係において神の子と見做されるだけのでありますが、キリストと同じように「神の子」と呼ばれるところに大きな意味が込められていると思います。それは、十字架のキリストが苦しみを受け、侮辱されて、死に給うたように、私たちもまたキリストのお姿の、またその十字架の一端を担う者であり、そのような者でありつつ、またそのような姿であるが故に、「神の子」である、ということであり、そのような光栄を帯びる者たちである、ということであります。

結.神の国を待ち望んでいた人たち

 ところで、40節以下によれば、十字架の下にいて一部始終を見守っていたのは、主イエスがガリラヤで伝道しておられた時から従って来た婦人たちでありました。男の弟子たちの多くはどこかに行ってしまって、主イエスの死の証人となることが出来ませんでした。
 また、42節以下には、主イエスの御遺体が墓に葬られたことが書かれているのですが、ここに登場するのも、弟子たちではなく、アリマタヤ出身のヨセフと婦人たちであります。このヨセフは身分の高い議員であります。最高法院で、主イエスの裁判が行われた時には、主イエスの死刑に賛成したかもしれません。しかし、ここでは、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出たのであります。百人隊長と同じく、主イエスの十字架を見て、この人もまた、「本当に、この人は神の子だった」という思いを与えられたのかもしれません。この人も神の国を待ち望んでいたのである、と記されています。この人の信仰の内容まで推し量ることは出来ませんが、主イエスを十字架に追いやった一人であるこの人も、神の国に入れられるように導かれているのであります。
 主イエスの葬りというのは、主イエスの死が、仮死なんかではなくて、正真正銘の死であることを表わすものであり、私たちの罪の結果は死であることをはっきりと示すものでありますが、そのことの役目を担ったのが、婦人の弟子たちと、このアリマタヤのヨセフでありました。使徒信条の中でも、「十字架につけられ、死んで葬られ」と告白されますように、主イエスが私たちの罪を担って、完全に死んでくださったということが、私たちの救いにつながるのであります。40節には、婦人たちも遠くから見守っていた、とあり、47節の最後にも、彼女たちがイエスの遺体を納めた場所をみつめていた、と記されています。彼女たちは主イエスの十字架の死をしっかりとみつめていたのであります。その彼女たちが、復活の主イエスにも出会うことになります。私たちもまた、私たちの罪の結果である主イエスの死ときっちりと向き合うことで、復活の喜び、救いの恵みに与ることが許されるのであります。 お祈りいたします。

祈  り

神の御子イエス・キリストの父なる神様!
 主イエスの十字架の上での叫びに耳を傾けることが出来ましてありがとうございます。私たちはこの叫びを他人事のように聞き過ごしたり、救いなどどこにもないのかと思ってしまったりしてしまう者でありますが、御言葉によって、主イエスこそが、私たちをあなたの御許に近づけてくださったお方であることを覚えて、感謝いたします。
 どうか、いつもこの主イエスの叫びに立ち帰る者とならせてください。そしてどうか、十字架の下で、主イエスを神の子と告白する者とならせてください。
 
どうか、一人でも多くの方が、十字架の主を仰ぎつつ、神の国を待ち望む者たちの群れに加えられますように、お導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年3月29日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書15:33-47
 説教題:「
神の子の死」         説教リストに戻る