「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
                     (マルコによる福音書153132 

 主イエスを十字架につけるために、総督ピラトから兵士たちに引き渡されると、彼らは、主イエスを侮辱して、紫の服を着せ、茨の冠をかぶらせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言いながら、「王様ごっこ」のようなことを始めた。このローマ兵の姿の中には、キリストに対して真剣な礼拝を捧げていない私たちの姿が描き出されていないか、問い直してみる必要がある。
 だが、もっと大切なことは、兵士たちによって侮辱される王なる主イエスのお姿の中に、私たちの罪を負ってくださる真実の王の姿を見ることである。主イエスは、苦しみを和らげるぶどう酒を差し出されてもお受けにもならず、神の御心に従って、苦難の杯を最後の一滴まで飲み干そうとしておられるのだ。
 主イエスが十字架につけられると、通りかかった人々は、頭をふりながら、「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と言ってののしり、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、標記のように主イエスを侮辱した。しかし、かつて荒れ野でサタンから「神の子なら、飛び降りたらどうだ」との誘惑を受けて拒否なさった主イエスは、ここでも、神の御心に沿って人々の救いを実現するために、十字架から降りて自分を救うことをなさらなかったのである。
 聖書は、人々から侮辱を受けられた主イエスのお姿を記す間に、総督官邸から刑場へ向かう途中で、十字架を担ぐことが出来なくなった主イエスに代わって、キレネ人シモンが無理に担がされたことを書きとめている。これはシモンにとって辛いことであるだけでなく、辱めを受けることでもあったが、兵士たちの命令に従うほかなかった。しかし、ここにはシモンの二人の息子の名が記されていることから、後にシモンがキリストを信じて、家族が教会に加わったと推察されている。主イエスは、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われた。彼は、文字通り、キリストの十字架を負うキリスト者となったのである。このシモンの姿の中に、私たちの姿が示されているのではないか。私たちも、キリストの十字架の一端を担うだけで、罪を赦される者とされたのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年3月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書15:16-32 
 説教題:「
真の救いとは」 説教リストに戻る