序. 侮辱されるイエスの姿から

 窓際とオルガンの上に、黄色いロースクが合わせて5本並びました。レント(受難節)に入って5回目の主日を迎えております。
 先週は、主イエスがローマ総督ピラトのもとで、裁判を受けられた場面から御言葉を聴きました。ピラトは主イエスに何の罪も見出すことは出来なかったのでありますが、群衆の叫び声に押されて、遂に、主イエスを十字架につけるために、主イエスの身柄を兵士たちに引き渡したのでありました。
 今日の、1516節から32節までの箇所は、いよいよ主イエスが十字架につけられた場面でありますが、ここには、主イエスを十字架につける兵士たちによって主イエスが侮辱を受けたことと、十字架につけられた主イエスを、そこを通りかかった人々や祭司長・律法学者たちがののしって侮辱したことが書かれていて、その間に、総督の官邸からゴルゴタの丘までの道行で、キレネ人シモンという人が、主イエスに代わって十字架を負わせられて侮辱を受けたことが書かれております。――今日は、これらの十字架に関わる侮辱のシーンから、ここで起こっていることの真実は何なのか、そして、私たちにとっての真実の救いとはどういうことなのか、ということを聴いて参りたいと思います。

1.兵士たちによる侮辱――真の王として

 さて、十字架につけるために兵士たちに引き渡された主イエスは、総督の官邸に引いて行かれました。そこで、部隊の全員を呼び集めたと書かれています。その数は600人ほどだとも200人程度ではないかとも言われています。ちょうど過越し祭の時でしたから、群衆による騒ぎが起こらないよう、治安維持のために多くの兵士たちが呼び集められていたのでしょう。そして彼らは主イエスに対して心ない侮辱を始めるのであります。彼らの公的な務めは、刑を執行することでありますが、その枠をはみ出して、十字架にかける主イエスをからかうのであります。これは一部の下品な兵士だけがやったのではなくて、どうやら集められた兵士たち皆が参加したようです。これまで主イエスに敵対して来たのは、ユダヤ人たちでした。しかし、ここでは異邦人であるローマの兵士たちまでもが主イエスを侮辱しています。彼らはローマ皇帝の権威の下で、ユダヤを支配している先兵たちであります。ユダヤに強い力を持った王が出現したら、最前線で立ち向かわなければならない任務を帯びている者たちです。しかし、今捕えられている者は、そんな実力を持たないのに自らをユダヤ人の王としてローマに逆らったとの罪状で死刑にされるわけです。彼らは主イエスが世界を御支配なさる真の王であることを知らずに、何の抵抗もなさらない、力のない王を馬鹿にして、「王様ごっこ」のようなことをし始めました。紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、というのは王様の服装を模したものです。そして、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めました。葦の棒で頭をたたき、というのは、王様が持っている王笏になぞらえて主イエスの手に持たせて、唾を吐きかけてからかったのでしょう。また、ひざまずいて拝んだりした、とも書かれています。これは、万歳と言って敬礼したのと共に、ローマ皇帝にささげる賛美の仕方を模したものであります。当時、既にローマ皇帝は、単に尊敬されるだけでなくて、礼拝されるような存在になりつつあったようです。このような賛美の仕方を主イエスに対して行ったのは、悪ふざけに過ぎないのですが、ここに私たちに対する、大変大事な警告と暗示がなされているのではないでしょうか。
 というのは、一つは、このローマ兵たちの姿の中に、私たちの姿が描き出されているのではないか、ということです。日本キリスト教会の大先輩で今も御健在の渡辺信夫先生はマルコ福音書の講解説教の中で、このように言っておられます。「かれ(主イエス)を王として信じているのでもないのに、一応王にまがうような恰好をつけさせることは、あのローマ兵士だけのすることでしょうか。キリスト者という人たちの中にも、それがあるのではないでしょうか。なるほど、かれらは礼拝をしに来ます。なるほど、かれらは『イエス・キリストは主なり』と口で言います。なにがしかの捧げ物を供えます。しかし、心ではキリストを信じ切っておりません。口では告白しますが、心には保留が残っているのです。あのローマ兵と余り違わないのではないでしょうか。」――厳しい指摘でありますが、私たちはこの兵隊たちの姿を通して、自分自身が、主イエスに対して、真剣な礼拝を捧げているかどうか、兵士たちのような形だけの礼拝に終わってはいないか、と問い返してみることが大事であります。
 しかし、この箇所から聴き取らなければならない、もっと大事なことがあります。それは、ここに示されている主イエスの真実の姿であります。兵隊たちの侮辱が続けられる中で、主イエスは一言も言われずに、耐えておられました。そのお姿は、旧約聖書に「主の僕」として記されている姿そのものでありました。一つはイザヤ書506~7節です。「打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない」。また、イザヤ書5323節では、「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」と述べられています。――確かに、ここに描かれている主イエスの姿は、威厳はなく、侮辱されるままの、みすぼらしいお姿であります。しかし、このお姿の中に、真実の王としてのお姿が示されているのではないでしょうか。主イエスは、私たちの心ない仕打ちにも耐えつつ、真実の王として、私たちの罪を負っていてくださるということであります。
 21節のキレネ人シモンのことは後程触れるとして、22節以降には、ゴルゴタの丘で十字架につけられた時の様子が記されています。ここでは、一つは、十字架の苦しみを和らげるために差し出された没薬を混ぜたぶどう酒を、主イエスはお受けにならなかったことが書かれています。主イエスは十字架の苦痛を少なくしようとはされませんでした。主イエスは父なる神様の御心に従って、苦難の杯を、最後の一滴まで飲みほそうとされたのであります。そうすることによって、徹底的に人間が負うべき苦難を担われたのであります。そのような主イエスの苦しみが続いている時に、その足もとでは、兵士たちが24節に書かれているようなことを行っていました。その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから、とあります。一段下げて書かれているのは、詩編2219節からの引用だからです。犯罪人を十字架に架けてから息を引き取るまで、長いと数十時間も番をしていなければならないので、暇つぶしに一種の賭け事のようなことをしていたのでしょう。一人の人間が生死をさ迷っているときに、平気でこんなことが出来るというところにも、人間のあさましい姿が描き出されているのではないでしょうか。人間性を失った人間の恐ろしい姿ですが、これも決して、ローマ兵だけの姿ではなくて、現代の人間の姿を写し出しているということも出来ますし、特に、主イエスの十字架を見ようとも、考えようともしない私たちの姿を突きつけつけられていると受け取ることもできるのではないでしょうか。

2.十字架の周りの人々による侮辱――真の救い主として

 次に、25節以下に書かれている十字架の周りの人々による主イエスに対する侮辱を見て参ります。

 十字架の上には、罪状書きが掲げられていて、それには「ユダヤ人の王」と書かれていました。ヨハネ福音書によれば、この罪状書きについて、祭司長たちが抗議を申し立てて、「『この男はユダヤ人の王と自称した』と書いてください」と言ったのですが、総督ピラトはそれを聞き入れませんでした。それは、ピラトが主イエスをユダヤ人の王と認めていたということではなくて、王とはとても思えない情けない男に翻弄されているユダヤ人たちをからかいたかったのでありましょう。誰もこの罪状書きを真に受ける人はいませんでした。ローマ人はせせら笑い、ユダヤ人はいまいましがっていました。けれども、私たちは、「ユダヤ人の王」ということをそのままに受け取りますし、それだけでなく、この方こそ世界の王、真の王として礼拝するのであります。このことは、現代においても一層大切なことであります。様々な人間の知恵や権力の持ち主が、王であることを競い合っています。しかし、本当の王を見失っています。うっかりするとキリスト者でさえ、真の王を見失って、他のものに助けを求めてしまいかねません。十字架の主こそ真の王なのであります。

 27節には、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた、と記されていて、32節の最後に、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった、と書かれています。ルカ福音書によれば、二人の犯罪人のことがもう少し詳しく記されていて、一人が主イエスをののしって、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったのに対して、もう一人の方が、それをたしなめた上で、主イエスに「あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言って、主イエスから、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とのお言葉をもらったことが書かれています。(ルカ23:3943)このように、同じ犯罪人であっても、十字架の主に対する見方は分かれるのであります。多くの人は、十字架の主がメシア、救い主とは思えないのであります。

 29節には、そこを通りかかった人々のことが書かれていて、頭を振りながらイエスをののしって、「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と言いました。「頭を振りながら」というのは、ののしる際のしぐさであります。今日の旧約聖書の朗読で詩編109編が読まれましたが、その25節には、「わたしは人間の恥、彼らはわたしを見て頭を振ります」とありました。同じような表現は来週読む詩編22編にもあって、その詩編は主イエスの十字架と深い関係があるもので、来週に聴く「イエスの死」の場面で、十字架の上の主イエス自身がこの詩の初めの部分を引用されたように、この詩の内容は主イエスによって成就するのであります。

 「十字架から降りて自分を救ってみろ」という言い方は、主イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けられた時のことを思い起こさせます。サタンは主イエスを神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と言いました。しかし、主イエスはそれに対して、「あなたの神である主を試してはならない」という聖書の御言葉で、誘惑を拒否なさいました。(マタイ4:57)十字架に架かって人を救うのか、それとも、十字架から降りて、その奇跡の力で人々を信仰へ導くのかということは、誘惑に満ちた問いかけであります。主イエスはここでも、十字架から降りることもお出来になったでしょう。主イエスは逮捕される時に、こう言われました。「わたしが父にお願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ26:5354)そう言って、逮捕に応じられて、十字架の上に上がる道を進まれたのであります。それが神様から示された道であり、人を救うことができる唯一の道だからであります。

 3132節には、同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言ったことが書かれています。こう言っております。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」――普通の考えでは、自分自身を救えないようでは、他人を救う資格はないのです。自分の救いを確保出来た者のみが、人の救いを語ることができる、と考えるのであります。しかしそれは、自分中心の考え方に過ぎません。主イエスは自分の救いをお考えにはなりませんでした。あくまでも、神様の御心に沿って、人々の救いを実現するために、自分を救うことはなさらないのであります。これが、真の救い主のお姿であります。

結.キレネ人が受けた侮辱――私たちにとっての十字架

 最後に、途中を飛ばした21節に書かれているキレネ人シモンの話に戻ります。この人はユダヤ人でありながら、他の国で生活しているディアスポラと呼ばれる人で、おそらく祭りのためにエルサレムにやって来ていたのですが、たまたま、兵士たちが主イエスを十字架の刑場に引き立てて行く場面に出くわしました。刑場には既に十字架の縦の棒は立てられていて、主イエスは横木をかついで行くのですが、前夜からの疲れで、もう担いで前に進むことも出来なくなられたのでしょう。そこで、兵士たちは通りかかったシモンに担がせたのであります。これは、兵士たちが主イエスに同情したからではなくて、早く仕事を進めたかっただけでしょう。無理に担がせた、とあります。シモンはいやがったのでしょう。それは重い物を担がされることの辛さだけでなく、恥ずかしいことであります。そこで、ローマ兵の権威でもって命じて、無理に担がせました。侮辱的なことですが、従うほかありません。
 しかし、シモンはあとになって、この時十字架を負わされたことに大きな意味があったことを知るようになるのであります。「十字架を負う」ということは、キリスト者の生き方として、主イエスが教えられたことであります。この福音書の834節で主イエスはこう教えておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」この時シモンはその主の言葉を知っていたわけではないでしょう。しかし、21節の、アレキサンドロとルフォスとの父、という紹介の仕方は、聖書が書かれた頃にはシモンのことが教会の中でよく知られていたことを伺わせます。ルフォスというシモンの息子の名前はローマ書にも出て来ます。つまり、シモンはいやいや十字架を担がされたのでありますが、後にキリスト者になって、この時の出来事が、神様の導きであったと知るようになったのではないでしょうか。そして、子供たちも教会の中で育っていたので、教会の中でもよく知られた出来事になっていて、聖書にも記されたのだと考えられています。
 十字架を負うという救いを実現する道は、ただ一人主イエスだけが歩まれる道であります。けれども、シモンが十字架を負ったように、私たちも十字架の一端を担う歩みをさせていただくことが出来るのであります。パウロは、あなたがたはキリストを信じることだけでなくキリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです、(フィリピ1:29)と言っております。キリスト者になるということは、自分が楽をするとか、得をするという、自分を救うだけの道ではありません。教会の体である主イエス・キリストとともに、十字架の一端を担う道でもあります。それは共に労苦を負うというだけではなくて、シモンがそうであったように、キリストの負われる侮辱の一端を担うことでもあります。パウロはローマの信徒への手紙の中で、「わたしは福音を恥としない」(ローマ1:16)と申しました。私たちもまた、そのような喜びと確信をもって、教会生活、礼拝生活を続けたいと思います。  祈りましょう。

祈  り

私たちの王であり、救い主であるイエス・キリストの父なる神様!
  あなたの御支配と救いの御業を賛美いたします。
  イエス・キリストが私たちの罪を背負って、人々の嘲りと侮辱を受けて、十字架に架かってくださり、私たちを滅びより救い出してくださったことを感謝いたします。
  私たちの中には、なお、ためらいがあり、不信仰があって、十字架の道を、素直に真っ直ぐに歩むことが出来ないでいます。どうか、あなたの愛によって備えられた道を、喜んで歩む者とならせてください。
  どうか、あなたの救いを知らず、自分を救うためにもがいている人々に、十字架の主が出会ってくださいますように。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年3月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書15:16-32
 説教題:「
真の救いとは」         説教リストに戻る