序. ピラトの裁判で何が起こっているのか

 主イエスの御受難を覚えるレント(受難節)の第4の主日を迎えております。先週は主イエスがゲツセマネで「御心を問う祈り」をなさった箇所から御言葉を聴きましたが、今日は少し間を飛ばして、総督ピラトによる裁判の場面から御言葉を聴こうとしております。飛ばした間の箇所には、主イエスがユダの裏切りによって逮捕されたこと、そしてユダヤの最高法院で裁判を受けられたこと、弟子のペトロが主イエスを知らないと言って裏切ったことが書かれています。
 最高法院では、祭司長、長老、律法学者たちが主イエスを訴えて、死刑にしようとしましたが、主イエスにとって不利な証言を得ることが出来ませんでした。そこで、最高の地位にある大祭司が主イエスに、「お前はメシアなのか」と尋ねると、「そうです」と答えられました。すると大祭司は、この冒瀆の言葉で十分だとして、死刑にすべきことを決議したのであります。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあって、ユダヤの最高議会では死刑の最終決定を行うことができず、ユダヤを治めていたローマの総督の決定が必要でした。
 そこで、151節から15節までの今日の箇所では、ローマ総督であるピラトによる尋問と判決の模様が記されているのであります。私たちは「使徒信条」の中で、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と告白しております。ピラトのもとで一体何が起こっていたのか。今日は、このピラトによる裁判で起こっていることの真実を見て参りたいと思います。

1.祭司長たちによる引き渡し

 まず、1節を見ますと、こう書かれています。夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
 夜中に行われていた最高法院における裁判は一旦閉じられ、夜が明けるとすぐに再度開かれたようであります。主イエスが死刑に値するという結論は既に出ていました。ではなぜ、もう一度最高法院全体で相談をしなければならなかったのでしょう。このあと2節を見ますと、ピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しています。ということは、大祭司らのピラトへの訴えの理由としては、主イエスがご自分をユダヤ人の王とした、ということだったのでしょう。神を冒涜するということは宗教の世界では決定的な理由になりますが、政治の世界では裁判の理由にはなりません。そこで、最高法院を早朝に開いて、訴えの理由の「すり替え」を相談したのだと考えられます。最高法院がこのように早朝に開かれたのは、出来るだけ早くピラトに引き渡して、午前中に死刑の執行をしてもらうためであります。その日は過越の祭の日であります。祭のために集まっている人々によって煩わされないために、事を急いだのでありましょう。「イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した」とあります。ここに、主イエスの御受難のキーワードである「引き渡し」という言葉が出て来ています。祭司長たちが主イエスを死刑にするためにピラトに引き渡したのであります。10節を見ますと、祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである、とあります。ここにも「引き渡し」という言葉があります。最高法院が主イエスを死刑にすべきだとしたのは、主イエスがご自分のことをメシアとして、神様を冒涜したことが理由でありましたが、最高法院はそれを「ユダヤ人の王」としたとすり替えました。しかし、総督ピラトは、引き渡しの本当の理由は「ねたみ」であることを見抜いていたと聖書は語るのであります。「ねたみ」とは自己中心の思いから来るものであります。そこには人間の罪があります。ユダヤの祭司長、長老、律法学者、そして最高法院の議員たちといった、最高の権威を持つ人たちの罪が主イエスを十字架の死に追いやったということであります。祭司長たちによる引き渡しの本当の理由は、人間の罪でありました。
 ところが、ピラトが祭司長たちの訴えに従って、主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問致しますと、主イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。このギリシャ語は日本語にするのが難しいのですが、口語訳聖書では意訳して「そのとおりである」と訳されていて、新共同訳は文字通りの訳であります。いずれにしろはっきりしていることは、主イエスのお答えは否定ではなく、肯定であります。しかし、主イエスが考えておられる「ユダヤ人の王」というのは単なる政治的な意味での王ではありません。そのことはピラトにも分かっていたと思われます。けれども、主イエスが肯定された「ユダヤ人の王」というのは、ダビデの子孫に生まれるとされていて、イスラエルの人々によって待ち望まれていた、救い主メシアである王であります。それは単に宗教的、精神的な意味だけではありません。人々の現実の生活を支え導かれる王でもあります。霊的な意味でも、肉体的な意味でも、全てを支配し、支え、新しい命に生かす王であります。けれども、その王の御支配は、強い権力によってではなくて、自ら十字架に架かることによる御支配であります。
 そのようなことは、訴えた祭司長らも、ピラトにも分かりません。祭司長たちは、何とかして死刑の判決を出してもらおうとして、いろいろと訴えましたが、ピラトは死罪に当たる決定的な理由を見出すことが出来ません。ピラトは主イエスに、「何も答えないのか。彼らがあのようにお前に訴えているのに」と言いましたが、主イエスはもはや何もお答えにはなりませんでした。先程、旧約聖書のイザヤ書53章が読まれましたが、その中の7節にはこう書かれていました。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。主イエスがこの時、何もお答えにならなかったのは、このイザヤ書の預言が成就したと受け止められています。主イエスは神の小羊として、黙々と十字架の死へと向かわれるのであります。

2.群衆による引き渡し

 ところで、総督ピラトにしてみれば、最も心配なことは、騒動が起こってユダヤの支配が揺らぐことであります。自分の任期中には、ローマ法に沿って正しく支配が行われ、平穏無事に任期を終えて、ローマ皇帝から高い評価を得たいというのが本音であります。そのためには、法に則って正しい裁判を行わねばなりません。ピラトの判断によれば、主イエスに死に当たる罪を見出すことができません。と言って、無罪の判決を下せば、ユダヤ議会が猛反発するのは必至であります。そこで、一つの知恵を働かせました。それは群衆の力を利用することであります。そのことが6節以下に書かれています。祭の度ごとに、人々が願い出る囚人を一人釈放する習慣があったようです。ピラトは、ユダヤの指導者層の連中は主イエスを死刑にしたがっているが、それは「ねたみ」のためであって、民衆は主イエスを尊敬し、期待していると見ていました。事実、主イエスが一週間前にエルサレムに入城された時には、民衆は歓呼して迎えたのでありました。当時の一般民衆は、ローマの支配に反発していましたから、彼らが騒ぎ出すと総督の失政になってしまうので、この機会に、民衆の期待を満たしてやるのが自分にとっても得策だと考えたのでしょう。ちょうどその頃、暴動を起こして投獄されていた人物の中にバラバという者がいて、群衆はその釈放を要求して押し寄せて来ていました。総督としては、そんな危険人物を釈放するより、主イエスを赦してやって、民衆が収まるなら、一挙両得だと判断したのでしょう。そこでピラトは、9節にあるように、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言いました。

 ところが、祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動いたしました。ピラトの思惑どおりには行きませんでした。ピラトは職権で群衆を解散させることも出来たと思われますが、逆に、群衆の意向を尋ねます。「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか。」すると群衆は叫び出します。「十字架につけろ」と叫びます。それに対してピラトは「いったいどんな悪事を働いたというのか」と問い返すのですが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てるのでありました。エルサレム入城の時に主イエスを歓呼して迎えた人々が心変わりしたのか、それとも別な人々の声が大きかったのかはよく分かりません。しかし、群衆心理はいつも揺れ動きます。祭司長たちの扇動もありましたが、ユダヤ人の王として期待したのに、黙っていて何も起こされない主イエスの様子を見て、期待が裏切られたという思いに至ったのかもしれません。主イエスを十字架に追いやった首謀者は祭司長たち、当時のユダヤの指導者層の人たちであって、民衆は主イエスを支持していたように見えましたが、ここに来て彼らの罪も露わになりました。彼らは、自分たちの利益のために主イエスに期待していただけで、自分の思い通りに事が進まないと見ると、心は離れてしまったのであります。主イエスをピラトに引き渡したのは、祭司長たちでありましたが、群衆もまた、主イエスを裏切って、十字架へと引き渡したのであります。この群衆の姿に、私たちの姿を重ねることが出来るかもしれません。私たちもまた、御都合主義であります。自分の期待に沿うものが与えられていると思うときには、神様の方を向いていますが、期待が外れたと思うと、神様から離れて行ってしまうのではないでしょうか。私たちもまた、主イエスを十字架へ引き渡す罪を犯す者であります。

3.ピラトによる引き渡し

 主イエスに対して「ねたみ」を抱く祭司長ら、ユダヤの指導者層の人たち、それに、主イエスに期待を抱きながらも、自分たちの期待が満たされないと知るや、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆たち、それに対してローマ総督ピラトは、主イエスに死にあたる罪があるかないかを確かめようとしました。そして、主イエスには罪がないことを認めて、釈放する手段まで考えたのでありますが、結局は、群衆の声に押されて、正義を貫くことが出来ませんでした。正義よりも、自己保身が大切だったのであります。15節にあるように、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放しました。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡しました。ここにも「引き渡し」という言葉が出て来ます。先程の1節と10節にあった引き渡しは、イエスを逮捕した祭司長たちからローマ総督ピラトへの引き渡しでありましたが、ここでは更に、処刑を執行するローマ兵士へ引き渡されたのであります。その間にあって、群衆については「引き渡し」という言葉はありませんが、彼らもまた主イエスから愛され、御言葉を受けたり、癒されたりしていながら、主エスを裏切って、ピラトへ引き渡したのであります。そしてまた、イスカリオテのユダやペトロをはじめ主イエスの弟子たちも、主イエスから多くの教えを受け、驚くべき御業に何度も接していながら、結局は主イエスを裏切って、主イエスを十字架へと引き渡してしまうのであります。こうして、「引き渡し」のバトンタッチが続いて、十字架が決定的となったのであります。

4.バラバの釈放――救われた罪人

 しかし、このピラトの裁判で起こっていることの中で、こうした人々の罪によって、主イエスが十字架へと引き渡されたということ以外に、見落としてはならない大切なことが二つあります。
 一つは、暴動の時に人殺しをしたために、投獄されていたバラバが釈放されたということであります。彼も当然、ローマに対して反逆行為を行ったということで、死刑にされるべき罪人でありました。そのバラバが救われたのであります。死んでも当たり前であった人間が、主イエスを殺すために命を救われたのであります。主イエスの命との交換のような形で、死を免れたのであります。このバラバに起こったことは、私たち一人一人にも起こっていることではないでしょうか。私たちは自分の利益や自分の主張を貫くために、人を生かすよりも人を殺すのと同様なことをしてしまいます。それだけではなく、神様の深い愛を蔑ろにして、主イエスを十字架へと引き渡してしまうものであります。しかし、そのような私たちが、主イエスの身代わりの十字架によって、バラバと同様に、永遠の死から釈放されたのであります。ここに描かれているバラバの姿は、私たちの姿を写し出していると言ってよいのではないでしょうか。このピラトの裁判の場面では、主イエスの十字架への引き渡しが起こっていると同時に、私たちの救いへの引き渡しという出来事が起こっているのであります。

結.神による引き渡し

 このピラトの裁判で起こっている、もう一つの見落としてはならないことがあります。主イエスが逮捕されたこと、そして裁判にかけられたこと、そして死刑という判決が下されたという一連の出来事は皆、人間のねたみ、人間の自己保身、人間の失望といった、人間の思惑と意志によって起こされたことでありました。ですから、最初から最後まで、人間の(たくら)みの結果として起こったことなのであります。
 しかし、先週の礼拝で聴いたように、主イエスがゲツセマネの祈りの中で、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られた結果、主イエスは、十字架に架けられるという神様の御心に従われたのでありました。フィリピの手紙にも、こう書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、・・・人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:68)。このように、聖書は、同じ一つの出来事が、一方では人間の企みの結果として起こったことを記しながら、他方では神様の御意志に従って起こったのだということを述べているのであります。その神様の御意志とは、私たち人間を罪の奴隷から救い出して、神の国へと引き渡すということでありました。人間が主イエスを十字架へと引き渡したことの背後に、神様が私たちを救いへと引き渡そうという、大きな愛の御心があったということであります。ファウスティという人は、最高法院での裁判からピラトの裁判に至る一連の出来事について、「最高法院での裁判では『冒瀆』が中心テーマであった。」つまり、主イエスが神を冒涜したということで、十字架への引き渡しが行われたのでありました。それに対して、「ピラトの裁判では『救い』というテーマが中心になる」と記しています。つまり、主イエスを十字架へ引き渡したことが、実は、私たち人間を「救い」へと引き渡すことになったということが、この箇所のテーマだということであります。
 神様は今日、この箇所の出来事を私たちに聴かせることによって、私たちを罪から救い出し、永遠の命へと、そして神の国へと引き渡そうとしておられるのであります。
 この救いの御業を感謝して、祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 御子イエス・キリストを罪深い人間の手に引き渡し給うことによって、私たちを救いへと引き渡してくださった出来事を覚え、私たちの罪の深さを思い知らされましたことを、心より感謝いたします。
 私たちはなお、あなたの御心に反して、御子を十字架へと引き渡すような罪を重ねている者でございます。どうか、お赦しください。
 どうか、この受難節を通して、主の御苦しみと恵みに一層深く思いを致す者とならせてください。どうか、まだこの大きな恵みの出来事を知らず、あなたの愛の御心に出会っていない方々が、このような礼拝において、御言葉によってあなたと出会い、救いに引き渡されますように計らってください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年3月15日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書15:1-15
 説教題:「
十字架への引き渡し」         説教リストに戻る