「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」   (マルコによる福音書1436

 過越の食事を終えた主イエスは、十字架を前にして祈るために、3人の弟子とゲツセマネに行かれた。そこで主は、ひどく恐れてもだえ始め、弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われ、標記のように「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られた。ここまで、敢然と十字架に向かっておられた主が、なぜ恐れておられるのだろうか。
 一つの説明は、主イエスは「真の神」でありつつ、「真の人」でもあるからである。私たちと同じような一人の人間として、死へ向かう恐れの中におられるのであって、神の筋書きに沿って、十字架と復活の劇を演じておられるわけではないのだ。
 しかし、この恐れは、単に十字架の死の肉体的な苦しみに対するものではない。「杯」とは、神の怒りと裁きを意味する。神に棄てられ、神との関係を断ち切られるに等しい苦しみなのである。この主の苦しみを、<この期に及んで>などと、冷ややかに見ることは出来ない。主の苦しみの原因には私たちの罪があることを直視しなければならない。主は私たちが受けるべき裁きを代わって受けておられるのである。そこで、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られた。この祈りこそ、私たちの祈りのモデルであり、私たちの祈りの確かさの基礎である。私たちは身勝手な祈りをしてしまうが、主イエスのこの祈りによって執り成しを受けて清められるのだ。主イエスの苦悩は、「真の神」としてのお姿をも示している。
 主イエスが祈っておられる間に、弟子たちは眠ってしまった。そんな弟子たちに、「目を覚ましていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と云われた。「心」とは「霊」であり、「肉体」とは罪を犯しやすい人間のことである。ここに私たちの現実がある。主イエスは三度にわたって弟子たちのところに来て言葉をかけられたあと、「もうこれでいい。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と弟子たちを促された。主は独り目覚めて、十字架への道を進まれた。それが祈りの中で神から示された救いへの道であった。
 主は先に「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」28)と言われていた。そこは、弟子たちが召命を受けた地であり、そこで主は彼らの再出発のために待っておられるのである。主は、まどろみ勝ちな私たちのためにも、救いの道を先立って歩まれて、新しい出発に備えてくださっているのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年3月8日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書14:32-42 
 説教題:「
御心を問う祈り」 説教リストに戻る