序.主イエスの苦悩はなぜ?

 本日与えられておりますマタイ福音書143242節の箇所は、先週に聴きました過越の食事を終えられた主イエスが、ゲッセマネと呼ばれるオリーブ園でお祈りになった場面であります。
 そのお祈りは、十字架を前にした、非常に厳粛なものでありますが、その祈りの御様子や祈りの内容は、すんなりと受け入れることが出来ないものであります。
  まず一点は、33から34節にかけて、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と書かれていることです。主イエスは、ここまでの箇所では、弟子たちや人々が恐れているときに「恐れるな」と言われていたのに、ここでは主イエス御自身が恐れてもだえておられます。どんなことがあっても動じない主イエスでありましたし、十字架の死についても、これまで既に三度にわたって予告しておられました。それなのに、この期に及んで、なぜ恐れてもだえておられるのでしょうか。これがすんなりとは受け取れない第一点であります。
 第二点は、お祈りの中身ですが、35節に、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、とあり、36節では、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈っておられることであります。ここまで主イエスは、十字架に向かって敢然と事を進めて来られたように見えます。殺意を持った人たちから身を隠す機会もあったように思いますが、逃げ隠れはなさいませんでした。十字架にお架かりになるということについても、弟子たちは納得できておりませんでしたが、主イエスの御決心は固まっているように思えました。それなのに、ここに来てなぜ、このような祈りをなさったのか。いよいよ十字架が現実のこととなろうとするに及んで、躊躇しておられるということなのでしょうか。
 この二つの点で、私たちは戸惑いを覚えざるを得ないのであります。これは、簡単に説明して理解出来るというものではないと思います。しかし、この点が分からないと、このゲッセマネの祈りの意義が理解出来ないということになるのではないかと思います。私のような者がこれを解き明かすことが出来るのかどうか、恐れさえ覚えるのですが、この礼拝のために与えられた御言葉ですので、何とか主イエスの御心の一端にでも触れることが出来ればと願っております。

1.死ぬばかりに悲しい

 さて、主イエスは過越の食事のあと、オリ-ブ山へ出かけられたということが26節に書かれていますが、ゲッセマネというのはその一角のようであります。ゲッセマネというのは油搾りの用具のことで、オリーブの油を搾る場所であったのでしょう。そこは、主イエスと弟子たちがしばしば訪れて祈られた場所でありました。そこに来ると、主イエスは弟子たちのうちで、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを伴って祈りの場所に行かれたようです。この三人は、ヤイロの娘が甦った時や山上の変貌の時にも、その出来事の証人とされた弟子であります。この時も彼らは、主イエスが「ひどく恐れてもだえ」ておられる姿を目撃し、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われた言葉をも聞くのであります。この三人がいたからこそ、私たちもこの時の主イエスのありのままのお姿を知ることが出来るのであります。そして、主イエスの御心の一端を慮ることが出来るのであります。
 では、なぜ主イエスが、このように恐れ、悲しみ給わなければならなかったのでしょうか。ある人は、ここに主イエスが「真の神でありつつ、真の人」であるお姿がある、と言っております。主イエスをただ、天にいます「真の神」とだけ思っていると、この主イエスのお姿に驚かざるを得ないのですが、主イエスは「真の人」でもあります。正真正銘の人間であられます。主イエスが十字架にお架かりになるということが、何か神様の筋書きのようなものがあって、その台本に沿って事が進んでいて、十字架の後には復活があることになっているというのであれば、苦しみを受ける役割を一時的に我慢して演じておればよいということになるのですが、そういうことではありません。主イエスは「真の人」として、私たちと同じように、死へ向かう恐れの中におられるのであります。――これは納得のできる一つの説明であります。しかし、罪のない主イエスが、なぜ、罪ある人間のように、恐れや悲しみをお覚えにならなければならないのでしょうか。なぜ、十字架の苦しみをお受けにならなければならないのでしょうか。そこで私たちは、主イエスの苦しみを第三者として見ていては何も分かりません。主イエスの苦しみは、本来は罪深い私たちが負うべき恐れであり、悲しみなのではないでしょうか。主イエスの恐れや悲しみは、私たちのためのものであります。御自分のことを恐れたり悲しんだりする必要は何もないお方でありますが、私たちを愛するが故に、私たちの受けるべき恐れや悲しみを負ってくださっているのであります。私たちの罪のことを御自分のこととして恐れ悲しんでくださっているのであります。――私たちが、自分の罪に思い至るならば、キリストの恐れと悲しみを少しは理解できるのではないでしょうか。

2.この杯を取りのけてください

 第二の疑問点は、十字架への道をまっすぐに歩んで来られた筈の主イエスが、ここにきてなぜ、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと、『この杯をわたしから取りのけて下さい』」と祈られたのか、という点であります。

 主イエスの祈りの言葉を、少し丁寧に聴いて行きたいと思います。

 まず、「アッバ、父よ」と呼びかけられています。これは、幼い子供が父親を呼ぶときの言い方でありました。そこには、子供の父親に対する無条件の信頼が表わされています。子供が親にすべてを委ね切っているように、主イエスは父なる神を深く信頼して祈っておられるということであります。

 次に、「あなたは何でもおできになります」と言っておられます。神様には出来ないことは何もありません。それならば、キリストの十字架なしで、罪人を救うことが出来るのでしょうか。主イエスがかつて、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたときに、弟子たちが驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。すると主イエスは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とおっしゃいました。(ヨハネ10:2527)では、罪人が神の国に入ることが出来るのでしょうか。それは、無償ではできません。救いが可能となるのは、主イエスの犠牲があるからであります。神様は愛する独り子を犠牲にすることさえお出来になるのであります。

 主イエスは今、神様の全能を確認した上で、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られます。「杯」とは、神様の怒りと裁きを意味します。人間の罪が、主イエスを十字架へと追いやろうとしています。その罪に対する神様の怒りと裁きを避けることは出来ません。誰かがその杯を引き受けなければなりません。その杯を「わたしから取りのけてください」と祈っておられるのです。ここまで十字架への道をまっすぐに進んで来られたのに、<なぜ、ここに来て>という疑問も出て来るのでありますが、神様の怒りと裁きを受けるということが、どれほど耐え難いことであるかを、思わなくてはなりません。ただ、十字架の肉体的な苦しみだけのことではありません。神様に捨てられ、神様との関係を断ち切られるに等しい苦しみを受けなければならないということであります。主イエスにとって、それだけは何としても避けたいところでありあます。だからこそ、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られねばならなかったのです。私たちは、この主イエスのギリギリの苦しみを、<この期に及んで>などと、冷ややかに見ることはできません。主イエスのこの苦しみの原因に私たちの罪があることを、ここでも私たちは直視しなければなりません。

3.御心を問う祈り

 さて、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られた後、すぐにこう続いています。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
 主イエスの祈りは、ただ自分の要求を述べるだけではありませんでした。神様の御心を最優先されるのであります。十字架という杯を飲むことが神様の御心であることは、誰よりもよく分かっておられます。だから、仕方なく要求を諦めるというのではありません。神様の御心であるなら喜んで従います、と言っておられるのであります。ここには、神様に対する固い信頼があります。十字架の死の先にどうなるのか、そのことはすべて神様に委ねておられます。
 これは私たちの祈りのモデルであり基礎であります。主イエスは、主の祈りの中で、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈ることを教えられました。これは、ここで「御心に適うことが行われますように」と祈っておられることと同じであります。主イエスが私たちに先立って、率先して祈ってくださったということであります。私たちはどうしても、自分の要求を優先してしまいます。そこに罪があります。その罪を贖うために、主イエスが父なる神の御心に従って十字架に架かってくださいました。そして、私たちの罪が赦されることになりました。ここに主の祈りをはじめ、私たちの祈りの基礎があり、確かさがあります。私たちが身勝手な祈りをしたとしても、主イエスのゲッセマネの祈りによって執り成しを受けて清められる、と言ってよいかもしれません。さきほど、主イエスの苦悩は、「真の人」としての主イエスのお姿を表わしているということを申しましたが、ここで全てを神様に委ねておられるのは、「真の神」としてのお姿が表わされていると言ってよいのではないでしょうか。このような「真の神にして真の人」である主イエスの執り成しと犠牲があるので、私たちの祈りが支えられ聞かれるのだ、ということを覚えたいと思います。

4.目を覚ましていなさい

 ところで、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に対して、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」とおっしゃって、御自分は少し進んで、三人とは離れて独りで祈っておられました。ところが、37節にあるように、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたのであります。弟子たちがこの時、主イエスが祈っておられる間、たとえ目を覚ましていたとしても、主イエスと同じ思いになることは出来なかったでしょう。また、弟子たちがこの時、目を覚まして祈っていたとしても、主イエスと同じ祈りをすることは出来なかったでしょう。この時の主イエスの祈りは、孤独な祈りであります。神の子キリストにして祈れる祈りであり、神の子にして悩まなければならない苦悩でありました。それでも主イエスは、弟子たちを伴ってここに来られ、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言って、主イエスの近くにいて、主イエスと共に悩み、主イエスの祈りを共有することを望まれたのでありましょう。それにもかかわらず、弟子たちは祈ることはおろか、目を覚ましていることも出来ずに、眠ってしまったのです。
 そこで主イエスはペトロにこう言われました。「シモン、眠っているのか。わずか一時(いっとき)も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
 ここで、「心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。この言葉は、この翻訳だと、<心では一生懸命にやろうという気持ちはあるのだけれども、体がついて行かない>という意味に受け取られます。ですから、主イエスがここでおっしゃったのは、弟子たちの肉体的な弱さを思い遣った言葉として受け止めてしまい勝ちであります。しかし、ここで「心」と訳されている言葉は、普通は「霊」と訳される言葉で、「霊」とは元来、神様のものであります。神様が注いでくださるものです。その「霊」は燃えていて、前向きなのです。一方、「肉体」と訳されている言葉は、パウロがよく使う言葉で、普通は「肉」と訳されていますが、それは、「精神」とか「心」に対する「肉体」ということではなくて、人間そのものを表わします。それは、人間が神様に背いている姿勢、即ち、罪に対して弱い存在であることを言います。ですから、「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉の本来の意味は、<神の霊は燃えて働いていても、人間として罪の力に弱い>ということで、<神様の霊は燃えていて、御心に沿う気持ちを起こさせているのだが、人間が持っている神に背く罪の弱さの中にまだ留まっている>というような状態を、主イエスは嘆いておられるのであります。
 主イエスが三度目に戻って来られた時も、弟子たちはまだ眠っておりました。そこで、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」と言われました。まさに、霊に満ちた主イエスの呼びかけに対しても、罪から目覚めなかった弟子たちの姿が描かれているのであります。これが、弟子たちと主イエスの関係の現実でありました。そして、このように主イエスと共に目覚めて祈ることが出来なかった弟子たちは、結局、皆、主イエスを裏切ることになったのであります。
 私たちと主イエスの関係はどうなのでしょうか。主イエスは私たちに対しても、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」とおっしゃらないでしょうか。このレントの季節にあっても、もしかすると私たちは、<眠ってばかりいるのではないか>と問われています。
 主イエスは三度祈られました。これは、神様の御心を問う祈りでありました。しかしおそらく、<弟子たちが裏切らないように、罪を犯すことがないように>という祈りでもあったことでしょう。このあと、ペトロは三度、主イエスを知らないと言って、裏切ってしまいます。しかし、その前に、主イエスが三度、弟子たちのためにも祈っておられた筈であります。その執り成しの祈りが、復活後にペトロを救うことになったのではないでしょうか。主イエスは、私たちのためにも、私たちに先立って祈っていてくださる筈であります。

結.「立て、行こう」

 さて、主イエスは41節後半で、「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」と言われています。父なる神様の御心が行われる時が来たのであります。真の神の子であり、人の子であるお方が罪人たちの手に引き渡されるのであります。しかし、その引き渡しこそが、罪人たちに救いを引き渡す唯一の道であったのであります。
 42節で、「立て、行こう。みよ、わたしを裏切る者が来た」と弟子たちを促されています。弟子たちはまだ眠っていました。まだ罪の中にいました。しかし、主イエスは独り目覚めておられます。そして、独りで十字架への道を進まれます。それが、祈りの中で父なる神様によって示された救いの道でありました。
 弟子たちは重い瞼を開いて、主イエスについて行ったのであります。そして、彼らの目が本当に開かれるのは、復活のあとになってからでありました。先週聴いた28節のところで、主イエスは「わたしは復活した後、あなたがたよりも先にガリラヤへ行く」とおっしゃいました。ガリラヤは弟子たちが最初に召命を受けた地であります。そこで、復活の主に出会うことになるのであります。主イエスはその再出発の地へ、先に行って待っていてくださるのであります。眠りこけていた弟子たちの中には、再出発の備えも兆しも力もありません。主が先に備えてくださっていました。何の当てもなく、トボトボと故郷のガリラヤに帰った弟子たちに、復活の主が出会われます。
 同じように、まどろみ勝ちな私たちの「肉」の中には、再出発の備えもエネルギーも信仰もないかもしれません。けれども、主が先立って、救いの道を備え、新しい出発に備えてくださっているのであります。私たちにとって、復活の主に出会うガリラヤとは、教会の礼拝であります。主はこの礼拝の場で、全てを備えて待っていてくださるのであります。
 祈りましょう。

祈  り

私たちが滅びないために、御子に苦い杯を取らせ給うた、恵み深い父なる神様!
 目を覚ましていることが出来ず、まどろんでしまう私たちでありますが、そんな者を、今日もこのように礼拝に招いてくださり、主イエスの厳しい祈りのお姿を排し、御言葉を聴くことを許してくださったことを感謝いたします。
 私たちは、主イエスの御苦しみを知り尽くすことは出来ませんが、どうか、絶えず御言葉によって目覚めさせられ、主の愛と恵みに気づかせてください。主が先立ってくださるが故に、どうかその招きに従って行く者たちとならせてください。そしてどうか、罪の赦しの救いにあずかって、新しい命に生きる者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年3月8日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書14:32-42
 説教題:「
御心を問う祈り」         説教リストに戻る