「取りなさい。これはわたしの体である。」
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
              (マルコによる福音書142224 

 標記の言葉は、過越の食事の席で主イエスがパンと杯によって約束された言葉であり、聖餐式の制定語である。この言葉を語られる前には、「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と、ユダの裏切りを予告され、この言葉の後では、「あなたは今日、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」とペトロの裏切りを予告しておられる。つまり、パンと杯による約束は、私たちをも含めた裏切る者たちに対する約束なのである。
 「パン」とは、人間の命を養い支えるものであるが、ここではそれが、「わたし(イエス)の体である」と言われる。しかもそれは、裂かれたパンである。私たちの裏切りによって十字架上で裂かれた主イエスの体が、私たちの中で肉となって生き始めるのである。キリストの現臨が私たちの中に起こって、汚れた体をも用いて、救いの御業をなしてくださるのである。
 私たちは、そんなパンをいただく資格がないと思うのが、主に対する誠実な態度だと思うかもしれないが、主は罪深い私たちに向かって、「取りなさい」と命じておられる。喜んで感謝して受け取るべきなのである。
 「わたしの血」とは、主イエスが十字架上で流された血である。かつては小羊の血をもって贖われるとされたが、今や、主イエスの血によって贖われるのである。これが「新しい契約」(エレミヤ31:3233)である。これは、「多くの人のために流される」と言われるように、未だキリストを知らない多くの人の罪の赦しのための契約の血でもあるのだ。主は、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(25)と言われた。その意味は、これが地上での最後の機会になるというだけではない、神の国が完成した時の喜びの祝宴をあらかじめ告げるものである。私たちの聖餐式はその祝宴の先取りである。
 主イエスはまた、「復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28)とも約束された。そこで、裏切った弟子たちは再結集されることになるのだ。私たちも、つまずきやすい者であるが、主が待っておられるガリラヤ(教会)で、主からパンと杯を受けることによって、もう一度弟子として用いられるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年3月1日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書14:22-31 
 説教題:「
パンと杯」 説教リストに戻る