序. 裏切りの只中で

 教会の暦では、今日はレント(受難節)の第二の主日になります。
 今日はマルコ福音書142231節を与えられていますが、先週は、すぐ前の箇所でした。そこには、主イエスと弟子たちが過越しの食事の準備をしたことと、その席で主イエスが「わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と話されたことが書かれていました。この「裏切ろうとしている」と言われた弟子とは、直接的にはイスカリオテのユダのことを指しているとみられます。そして、今日の箇所のうち、2226節の部分には、その過越しの食事の中で、私たちが今も守っている聖餐式を制定されたことが記されています。そのあと、2731節では、弟子たちのつまずきのこと、特に、つまずきを否定したペトロに対して、「わたしのことを知らないと言うだろう」と明言されたことが書かれているのであります。つまり、パンと杯による聖なる晩餐の前後には、弟子たちの裏切りが予告されているのであります。ということは、二つの裏切りの予告の間に聖なる晩餐が行われたということであり、裏切って行く弟子たちに向かって主イエスは、パンと杯による約束をなさったということになります。
 先週の箇所で、主イエスが「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」とおっしゃった時に、弟子たちは心を痛めて、口々に「まさかわたしのことでは」と言い始めたということが書かれていました。そして、この主の言葉を聞いて、弟子たちばかりでなく、私たちも心を痛めざるを得なかったのであります。私たちも、<主イエスとの関係がどうなっているのか>と問い直さざるを得ないのであります。そのような私たちが、今日の箇所では弟子たちと共に、パンと杯による約束の言葉を聴くのであります。主イエスは私たちに何を語ってくださるのでしょうか。そして、何を約束してくださるのでしょうか。――今日はその約束の言葉に耳を傾けたいと思います。

1.パン――わたしの体

 まず、22節の言葉を聴きましょう。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
 一同は過越しの食事をしておりました。当然、神殿で屠られた小羊の肉も食べていた筈です。そして、出エジプトの時の過越しの恵みを噛みしめた筈であります。けれども聖書は、ここではそのことには触れられていません。ここでは、かつての小羊に代わって、主イエスが小羊になられることに焦点が絞られています。主イエスの体を表わすパンと血を表わすぶどう酒に焦点が当てられています。
 主イエスはまず、パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂いて、弟子たちに与えられました。ユダヤでは食事の際に、このように家族の長、または同席者の中の最も地位の高い人物が、祈ってパンを裂いて同席者に配るのが習慣でありました。しかしこの時は、パンを裂いて配るということに特別な意味が込められていました。「これはわたしの体である」とおしゃいました。これにはどのような意味が込められているのでしょうか。パンというのは人間の命を養い支えているものであります。普段はそれを神様が与えてくださる自然の恵みとして、感謝していただくわけですが、ここでは、そのパンが「わたしの体」、すなわち主イエスの体であると言われているのであります。つまり、主イエスが私たちの命を養い支えるということであります。しかもそのパンは、裂かれたパンであります。十字架の上で裂かれた主イエスの体であります。弟子たちや私たちがつまずき裏切ったことによって裂かれた主イエスの体であります。その体は、私たちのために裂かれたのであります。私たちの失われかけた命を生き返らせるために裂かれた体であります。教会は「キリストの体」であると言われます。十字架で裂かれたパンを私たちが食べることによって、私たちもイエス・キリストの体の一部とされるのであります。そして、主イエスの命に私たちもあずかるのであります。それは、私たちの中にキリストが肉となって生き始めてくださるということでありますが、それはむしろ、私たちがキリストの体の中で生き始める、教会の群れの一人として生き始める、ということであります。キリストの現臨というのは、キリストが現に生きて働いてくださるという意味ですが、その現臨が、私たちの中に起こるということであります。それは、私たちがキリストのような素晴らしい人間になるということではありませんが、私たちの汚れた体をも用いて、救いの御業をなしてくださる、ということであります。つまずいた弟子たちもそうであったように、私たちもキリストの体の一部として、用いられるのであります。

2. 「取りなさい」

 ところで、主イエスはパンを裂いて弟子たちに与えて、「取りなさい」と言われました。これは主イエスの命令であります。取りたくなければ取らなくてもよい、ということではなくて、必ず取らなくてはならないものとして差し出されているのであります。『アレテイア』という説教黙想の月刊誌がありますが、その中でこんなエピソードが紹介されています。ある女の人がある教会で洗礼を受けたのですが、やがてその教会から足が遠ざかって、十数年も礼拝に行っていなかったのですが、ある年のイースターをきっかけに別の教会の礼拝に出席しはじめたのですが、聖餐式の時に、役員の人がパンと杯を配ると、その人は受け取らなかったのです。その人は何年も礼拝に出席していないので、聖餐にあずかる資格がないと考えたのでしょう。その役員はその女の人が未信者だと思って、通り過ぎたのですが、司式をしていた牧師はその人が既に洗礼を受けていることを知っていたので、その役員に「もう一度あの人の所に行って、『あなたは洗礼を受けているのだから、キリストのからだを取りなさい』と言ってください」とささやいて、その女の人に聖餐を受けさせたということです。それをきっかけに、その人の信仰が見事に回復したという話です。聖餐を受けないことの方が誠実な態度のように思えるのですが、主イエスは裏切ろうとしている弟子たちに、御自分の体を与えようとされたのであります。裂かれたパンはその徴であります。だから、つまずきがちな私たちにこそ「取りなさい」と言って、差出してくださっているのであります。私たちは、喜んで感謝して、受けとるべきなのであります。私たちの誠実さが大切なのではなくて、主イエスの誠実さ、主イエスが私たちのために、「取りなさい」と言って命を差し出してくださっていることを、喜んで受け取るべきなのであります。

 それならば、まだ洗礼を受けていない人でも取って食べてよいのでしょうか。そうではありません。「これはわたしの体である」という主イエスの言葉を「その通りです」と信仰をもって受け入れるのでなければ、それはただの一片のパン切れに過ぎず、全く何の意味もないからであります。

3.杯――わたしの血、契約の血

 次に、杯の方に進みます。23,24節の言葉を聴きましょう。また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
 杯に入れられた赤ぶどう酒は、血の色をしのばせるものであり、「わたしの血」とおっしゃっているように、主イエスが十字架の上で流された血を表わしています。血は体全体を生かすためになくてならないものですが、私たちの霊的な命を保つために、主イエスが流された血を飲まなければならないのであります。罪深い私たちこそ血を流して死すべき者でありましたが、主イエスが代わりに十字架の上で血を流してくださったので、その犠牲によって、私たちが霊的に生かされるのであります。
 主イエスは更に、「契約の血である」とも言っておられます。これにはまた深い意味があります。先程、旧約聖書の朗読では出エジプト記24章を読んでいただきました。それはシナイ山でモーセを通して十戒が与えられたあと、山のふもとで契約を結んだ時のことが書かれている箇所でありました。モーセは、祭壇を築いて、献げ物として雄牛をささげ、その血の半分を祭壇に注いで、残りの半分は、契約を守ることを誓った民に振りかけて、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(出24:8)と宣言したことが書かれていました。しかし、イスラエルの民はこのシナイ山での契約を守れなかったのであります。そこで、預言者エレミヤは「新しい契約」のことを伝えます。「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:3233)このエレミヤが伝えた「新しい契約」こそ、主イエス・キリストにおいて成就したというのが、新約聖書の理解であります。かつての古い契約は神様と人間の双方が守る義務を負う双務契約でありましたが、新しい契約は神の御子キリストが十字架において流される血によって満たされる片務契約であります。主イエスは杯を弟子たちに分かつことによって、つまずいた弟子たちにも罪の赦しの恵みが及ぶことを示されたのであります。
 弟子たちに及ぶだけではありません。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血」と言っておられます。この「多くの人のために」という言葉は、私たちが聖餐式で用いているコリントの信徒への手紙の言葉には含まれていません。しかし、マタイとマルコには書き残されていることを重く受け止める必要があります。キリストの血は、私や、私たちと今一緒にいる人々のためだけでなくて、更に、もっと多くの人のために流されたのであります。ヨハネによる福音書の中で、主イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない」(ヨハネ10:16)と言っておられます。パンと杯によって与えられる恵みの契約は、更に多くの人々にまで広げられることが、主イエスの御心であります。私たちはこの御心を受け止めて、伝道の業を怠らないようにしなければなりませんし、まだ洗礼を受けていない方々にも、この主の御心が御自分にも向けられていることを知ってほしいと思います。

4.神の国で飲むその日

 杯についての主の御言葉は更に続きます。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」25節)
 「はっきり言っておく」という言い方は18節にもありましたが、主イエスが重大な宣言をなさる際の言い方であります。その重大なこととは何でしょうか。「神の国で新たに飲むその日」とは、天に昇られる主イエスがもう一度来られて、神の国が完成する日のことで、その日には盛大な祝宴が開かれるのであります。「その日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とおっしゃったのは、この時の食事がこの世で最後になる、ということだけを述べられたのではありません。もっと積極的な意味が込められています。<今度私が来るときには、神の国が完成し、喜びの大祝宴が開かれるのだ。今行っている食事は、その時の祝宴をあらかじめ告げるものなのだ>という意味の宣言なのであります。ということは、今私たちが行なっている聖餐式というのは、その神の国の祝宴の先取りであって、神の国は既にそこにおいて始まっているということであります。確かに、一面では、神の国はまだ完成しておりません。救いの御業はまだ完成に至っておりません。しかし、主イエスは復活された後、エマオに向かっていた弟子たちに現れて、一緒に食事をされた時、パンを裂いて弟子たちに渡されました。またガリラヤの湖畔で弟子たちに現れて、朝の食事を共にされた時も、パンをとって弟子たちに与えられました。それらにはぶどう酒は登場しませんが、明らかに、神の国での新しい食事の始まりを示すものでありました。また、その後、ペンテコステ(聖霊降臨日)に成立した教会では、パンを裂くことが行われるようになって、今のミサや聖餐式になって行くわけであります。まだ神の国は完成には至っておりませんが、既に神の国の祝宴は聖餐式において始まっているのであります。

結.ガリラヤへ行く

 このあとの27節以下については詳しく触れる余裕はありませんが、大事な言葉だけ取り上げておきます。
 27節で主イエスはこう言っておられます。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。」――これは旧約聖書のゼカリヤ書137節の預言を引用して語っておられるのですが、「羊飼い」を主イエス御自身のこととして語っておられて、神様によって十字架に架けられることを言われ、そのことによって「羊」である弟子たちがつまずいて去っていくことを述べておられるのであります。これを聞いて、弟子のペトロは強がりを言うのですが、主イエスは、再び「はっきりと言っておくが」と言いながら、「あなたは・・・わたしのことを知らないと言うだろう」と明言されるのであります。弟子たちをはじめ、誰も主イエスが十字架へと進まれる道を止めることは出来ないのであります。私たちも、「散ってしまう羊」でしかありません。強がりを言っても、羊飼いが打たれることを止めることは出来ません。
 しかし、主イエスが語られたことの中に聞き落としてはならない言葉があります。それは、28節にある言葉です。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とおっしゃいました。
 主が復活されることは、既に弟子たちに三度も予告しておられましたが、弟子たちは主イエスとともに死ぬことしか見えていませんでした。しかし、十字架への道を先頭に立って歩まれた主イエスは、ここで、「復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と明言されました。主イエスは、弟子たちが「散ってしまう」ことだけを預言されたのではありません。一旦は散るのですが、復活の主のもとに再結集されることを告げられているのであります。復活の主がガリラヤへ行かれることは、このあと16章の復活の記事の中で、天使が告げることでもあります。そして実際に復活後、ガリラヤで弟子たちに会われたことは、このマルコ福音書では明記されていませんが、マタイ福音書の最後(マタイ28:16以下)では、「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った」と書かれていて、そこで、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という、世界宣教命令を受けるのであります。また、ヨハネ福音書では、ガリラヤのティベリアス湖畔で、朝の食事の用意をして弟子たちを待っておられました。そして、裏切ったペトロに「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)とおっしゃって、もう一度、弟子としてお用いになるのであります。こうして、散らされた羊がもう一度、大牧者である主イエスのもとに集められるだけでなく、小さな羊飼いたちとして、働く者とされるのであります。――私たちも、強がりを言ったりはしますが、つまずいてしまう弱い者たちであります。しかし、復活の主イエスが先にガリラヤへ行って、即ち、教会で待っていてくださいます。この主からパンと杯を受けることによって、私たちのような者をも、もう一度、弟子として用いてくださるのであります。お祈りいたします。

祈  り

大牧者なるイエス・キリストの父なる神様!
  私たちは、あなたの御業につまずきやすく、羊飼いなる主イエスのことを知らないと言うような生き方をしてしまう者たちでございます。そのような者たちのために、主イエスは肉を裂き、血を流して、罪の贖いを成し遂げてくださったことを感謝いたします。
 私たちは、差し出されている尊い主の肉と血をさえ疎かにしがちな罪深い者であることを覚えます。どうか、お赦しください。
 私たちこそ、打たれ、御許から散らされても仕方のない羊でありますが、そのような者をも、大牧者イエス・キリストの許に、もう一度集め直してくださいます恵みを覚えて、御名を賛美いたします。
 どうか、この弱い、愚かな羊をも、ご用のために用いてください。
 どうか、終わりの日における神の国の祝宴に、末席にでも加えていただけますように、お願いいたします。
 このあと、聖餐式において、主イエスの体と血にあずかろうとしております。どうか、その席に相応しい者としてくださり、主の恵みをより深く覚える時とさせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年3月1日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書14:22-31
 説教題:「
パンと杯」         説教リストに戻る