「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
                       (マルコによる福音書1418 

 ユダヤ最大の祭である過越祭が近づいた頃、祭司長や律法学者たちは、なんとか計略を用いて主イエスを捕えて殺そうと考えていた。(14:1)十二弟子の一人のイスカリオテのユダは、主イエスにつまずいて、祭司長たちに主イエスを引き渡す折を探っていた。(10)しかし、祭司長たちは、各地から人々がエルサレムに集まって来る祭りの間は、民衆が騒ぎ出すといけないから避けようと考えていた。(2
 ところが、事は彼らの考えたようには進まなかった。主イエスは、「二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(マタイ26:2)と明言された。というのは、かつてイスラエルの民が救われるために小羊が殺されたことを記念する過越祭の日こそが、神の小羊である主イエスが十字架にお架かりになるのに最もふさわしい日であるからである。そうして、主イエスは既に、都の中に過越の食事の席を手配され、弟子たちに準備を命じられたのだ。
 このように、主イエスの十字架の出来事は、人間の悪意と計略によってやむを得ず起こってしまった不幸な出来事ではなくて、実は、主イエスの深慮と決断によって起こされたことであり、神の御心に沿った御業なのである。しかも、一同が席について食事をしているとき、主イエスは標記のように言われた。これは直接にはユダのことを言われたのであろうが、弟子たちは皆、心を痛めて「まさかわたしのことでは」と言い始めた。(19)私たちもまた、この言葉を聞いて、心を痛めざるを得ないのではないか。
 だが、主イエスは、まさに裏切らざるを得ない者たちのために、十字架の御業の実現へと向かっておられたのである。主は、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生れなかった方が、その者のためによかった」21)とも言われた。この厳しいお言葉を、私たちも自分のこととして聴かねばならない。しかし主は、そのような私たちの不幸を幸いにしようとしておられ、新しく生き直すことへと招き入れようとしておられるのだ。主はその救いの御業のために、あのユダをさえ用いようとされているのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年2月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書14:10-21 
 説教題:「
まさかわたしのことでは」 説教リストに戻る