序. レントに入って

 教会の暦では218日からレント(受難節)に入っておりまして、今日はレント第一主日になります。去年4月からマルコ福音書の連続講解説教をして来て、6章の終わりまで来ましたが、レントに入りましたので、それに合わせて、マルコ福音書で受難の出来事が記されている箇所まで飛ばすことにして、今日の1410節以下を読み進んで、最後の復活の出来事の箇所まで行きたいと考えています。そして5月に入ってから、7章以下に戻る予定にしております。
 マルコ福音書では、主イエスは既に11章からエルサレムにお入りになっていて、最後の1週間のことが書かれて来ているのですが、今日の箇所は、もう、最後の晩餐の準備のことが書かれている部分にまで来ております。
 ここには、イスカリオテのユダが裏切りを企てていたこと、主イエスが弟子たちに過越しの食事の準備をさせなさったこと、そして、一緒に食事をしている十二人の弟子の中から裏切る者が出ることをお語りになったことが書かれていて、十字架の時が近づいているのでありますが、これらの出来事を2000年前の主イエスと弟子たちの物語として聞くのではなしに、今の私たちと主イエスの間に起こっている出来事を指し示している物語として聴きたいと思っています。主イエスの十字架というのは、決して他人事ではありません。裏切りを企てたユダは、私たちとは違うとんでもない人間なのではなくて、十二人の弟子たちの一人であり、私たちの代表であるという思いを持ちながら、今日の箇所に込められたメッセージを聴いて参りたいと思います。

1.引き渡しの企て

 さて、10節からの今日の箇所に入る前に、14章初めの12節を見ておきたいと思います。さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕えて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
 主イエスを殺そうという動きは、マルコ福音書でも既に3章と11章に書かれていまして、かなり早い段階からそのような動きがあったことが分かるのですが、ここでは、いよいよそのことを実行する時が近づいているという切迫感を感じさせる書き方がされています。
 しかし、この切迫感を2000年前の特殊な状況の中だけのこととして捉えてはならないのではないでしょうか。今の時代は、この時のようにあからさまに主イエスと敵対していないように見えますし、教会が大きな迫害を受けているわけではありませんが、多くの人たちが、キリストのこと、教会のことに無関心で、存在を無視しているということでは、根本的な事態は当時と変わらないのではないでしょうか。更に言うならば、主イエスを殺そうとしているのは、キリストのことをよく知らない人たち、教会の外の人たちではなくて、私たち自身の姿と重なるのではないか、ということです。主イエスを殺そうとするということは、言い換えれば神の言葉を殺すということであります。神様の言葉を聞こうとせず、聞いても真剣には受け止めない。御言葉をまともに受け止めて、その通りに生きるのは不都合だから、建て前としてしか受け取らずにいて、御言葉に従って自分の生き方を変えることをしない。――もしそういうことであれば、それは御言葉を殺すこと、主イエスを殺すのと同じことではないでしょうか。
 過越祭と除酵祭の二日前になった、とあります。過越祭というのは、イスラエルの民がエジプトから出る時に、小羊の血を塗っていたイスラエルの民の家は災いを免れたという出来事に由来する祭です。除酵祭というのは、本来は春の収穫の祭であったのですが、既に主イエスの時代に、過越祭と合体されていたようです。この二つの祭が行われる時には各地から人々がエルサレムに集まって来るので、その時にイエスを捕えて殺すようなことをすると、主イエスを支持している民衆が騒ぎ出して混乱するといけないから、祭りの間は避けようと考えたということです。
 ところが、事は彼らの考えたようには進みませんでした。マタイによる福音書によれば、主イエスはこう言っておられます。「二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」(マタイ262)つまり、十字架の日程を決定されたのは他ならぬ主イエス御自身であったのです。なぜなら、イスラエルの民が救われるために小羊が殺された過越しの日が、神の小羊である主イエスが十字架にお架かりになるのに最も相応しい日であったからであります。主イエスの十字架の出来事は、人間の悪意と計略によってやむを得ず起こってしまった不幸な出来事ではなくて、実は主イエスの決断によって起こされたことであり、神様の御心に沿った出来事であったということが大事な点であります。
 1011節には、十二人の弟子の一人のイスカリオテのユダが主イエスを裏切って、祭司長らに引き渡そうとしたことが書かれています。なぜユダが、主イエスを裏切ろうと考えるようになったのか、そのことについて聖書は明確には記しておりません。すぐ前にはベタニアで一人の女が高価なナルドの香油を主イエスの頭に注いだ事が書かれていて、その行為を無駄遣いだとして批難した人たちがいたのですが、マタイ福音書では、弟子たちが憤慨したと書かれており、ヨハネ福音書ではユダが言ったとはっきり書かれています。主イエスはその女のしたことに対して、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」8)とおっしゃいました。そこに、ユダと主イエスの考え方の違いが表れております。ユダは「貧しい人々に施す」という人道的な観点を重視していましたが、主イエスは罪の問題を解決するために、自分の命を捨てようと考えておられました。このような主イエスにユダはついて行くことが出来なかったのでしょう。ユダは主イエスに従うことも、主イエスを祭司長たちの手に引き渡すことも出来る自由があると思っていました。そして、自分自身を主イエスに引き渡さず、祭司長たちに引き渡しました。この「引き渡し」という言葉は、「裏切り」とも訳せる言葉であります。では、主イエスはユダに裏切られたのでしょうか。――主イエスがユダに裏切られというよりも、そのようなユダが用いられて、十字架の御業は進んで行くことになるのであります。

2.過越の食事の準備

 12節から17節までは、主イエスが弟子たちに過越の食事の準備をさせなさったことが書かれています。過越の食事と言うのは、小羊をエルサレム神殿の庭で屠ってもらい、それをエルサレムの都の中で食べるのでありますが、主イエスの一行はエルサレムには家がないので、部屋を借りる必要がありました。この祭りの時には全国から人々がやって来るのですから、食事の場所を確保するのも大変だったと思われます。そこで弟子たちは主イエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と相談するのです。すると主イエスは、二人の弟子に言われました。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」――このお言葉から、主イエスが既に綿密な計画を立てて、手配をしておられたことが読み取れます。主イエスは御自分に危険が迫っていることはご存知でありましたから、弟子たちと一緒に行って食事の準備をすることは避けて、あらかじめ親しい人を通じて手配をさせておかれたのでしょう。「水がめを運んでいる男」というのが目じるしとして語られていますが、当時の風習では水がめを持つのは女のすることだったようで、男が水がめを持っておれば、顔を知らなくても見分けることができたのだと解説されています。このように主イエスによって十分に打ち合わせがされていたようであります。ここには、「席が整って用意ができた二階の広間を見せてくれるから」という言葉もあり、16節には、弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した、とも書かれています。つまり、すべてが主イエスの御計画によって整えられていたということが強調されているのであります。このあと22節以下は来週の礼拝で読みますが、そこには主イエスと弟子たちとの最後の晩餐となる過越の食事の模様が書かれています。過越の食事というのは、出エジプトの時に小羊の血が流されたことを覚えて感謝する食事でありますが、そのことと重ねて、パンとぶどう酒をもって、主イエスが十字架上で肉を裂き血を流されることが示されるのであります。それは、主イエスが身代わりの小羊となって人々の罪を贖われるということであります。

 主イエスが周到に用意されたのは、単に過越の食事の場を手配されたということではありません。私たちの罪が贖われるための十字架の犠牲が、主イエスによって周到に用意されたということを指し示しています。祭司長や律法学者の計略によって事が進められたのではありませんし、ユダの無理解から来る裏切りによって、不幸な出来事が起こったのでもありません。神様の御心によって主イエスが準備されたことであります。それは、私たちへの主イエスの深い愛から来る御計画であります。「席が整って用意のできた二階の広間」――それは、私たちのためにも主イエスが用意してくださっている場所であります。主イエスが私たちのために十字架にお架かりになることを知らされる場所、主の御言葉を聴く礼拝の場所であります。

 17節に、夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた、と書かれています。「十二人」ということは、10節でも「十二人の一人イスカリオテのユダ」とありましたし、このあと20節でも、「十二人のうちの一人で」とあります。この「十二」という数字は、イスラエルの十二の部族の数に合わせて、選ばれた弟子たちの数でありますが、これはイスラエルの民が全て救われるということであり、主によって選ばれた者たちすべてが救われるということを表わしています。

その十二人の中に裏切ったユダも含まれているのであります。これは、間違って入ってしまったということでしょうか。そうではありません。ユダも含めての十二人ということが強調されているのであります。むしろ、裏切り者のユダも加わって十二という数が満たされるのであります。そのことは、18節以下で更にはっきりと示されて参ります。

3.わたしと一緒に食事をしている者が

 18節。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
 「はっきり言っておくが」と言っておられます。これは原典のギリシャ語を直訳すれば「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という言葉で、主イエスが重要なことを語られる際におっしゃった言い方でありまして、権威をもって語られた発言であることを表わしています。聞く者は、厳粛な思いを持って聴くべきであります。
 「あなたがたの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が」と言っておられます。主がお選びになり、これまで主から数々の教えを聞き、様々な奇跡の業も見て来た「あなたがた」であります。過越の祭に「一緒に食事をしている者」ということは特別に親しい関係でもあります。その一人が、「わたしを裏切ろうとしている」と言われるのであります。弟子たちにとって衝撃的なお言葉であったに違いありません。この言葉は、詩編4110節で、「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします」と言われていたことの実現だと解釈されています。主イエスを裏切る者が、主イエスとの関係があまり深くない者や、平素から斜に構えていた者とか、主イエスがあまり信頼しておられなかった者の中から出るのではなく、最も信頼していた者たちの中から出るのであります。

4.まさかわたしのことでは

 この主イエスの言葉を聞いて、弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、(19)とあります。弟子たちは主イエスを待ち受けている恐ろしいことを思って心を痛めただけではありません。自分の中に裏切りの心があることに気づいて、ギクリとしたのであります。自分の中にも主イエスを信頼し切れないものがあって、逃げ出してしまいかねない者であることを知らされたのであります。事実、このあと主イエスが逮捕されると、弟子たちは逃げ去ってしまうことになるのであります。弟子たちは動揺しつつ、それを打ち消すかのように「まさかわたしのことでは」と言わざるを得ませんでした。
 私たちもまた、この主イエスの言葉を聞いて、心を痛めざるを得ないのではないでしょうか。もし、「わたしは関係ありません」と言い切ることが出来るとしたら、主イエスの御心が何も分かっていないか、自分の本当の姿が見えていないということになります。私たちは改めて、<一体、私と主イエスとの関係はどうなっているのか><私は主のために何をして来たのか><主イエスと共にどこまでもついて行けるのだろうか>と問わざるを得ないのではありませんか。そして、弟子たちと一緒に私たちもまた、「まさかわたしのことでは」と言わざるを得ない者たちなのではないでしょうか。
 続けて20節で、主イエスはこう言っておられます。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。」――これは、実際にこの時ユダが一緒に鉢に食べ物を浸していたということではなくて、一緒に食事をするような親しい関係の者が主イエスを敵に引き渡すことになる、ということを明言されたのでしょう。それは、裏切ろうとしている者を告発しようとする意味で言われたのではなくて、むしろ、裏切らざるを得ないようなあなたがたをこそ、私は一緒に食事をするほどの者としているのだよと、弟子たちとの変わることのない連帯を強調しておられるのではないでしょうか。

結.聖書に書いてあるとおりに

 最後に、21節の御言葉を心して聴きたいと思います。まず、こう言われています。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。
 聖書に書いてあるとおりに」とありますが、旧約聖書の中で、ぴったり当てはまる言葉は見当たりません。先程引用した詩編4110節がそれに当たるのかもしれませんし、イザヤ書53章の「苦難の僕」の歌がそれに当たるのかもしれません。そこではこう言われています。彼が担ったのはわたしの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ5345)これは確かに主イエスの十字架を指し示しています。しかし、聖書のどこに主イエスの死のことが書いてあったかということが大事なのではなくて、ここで主イエスがおっしゃりたかったことは、これから起こる主イエスの十字架の死が、やむを得ず起こった悲劇なんかではなくて、神様の救いの御計画の実現だということでありましょう。
 主イエスは更に、こう言われました。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」――これは恐ろしい呪いの言葉であります。この言葉を私たちはどう受け止めればよいのでしょうか。ユダに向けて言われた言葉として、私たちはユダのようなことはしなかったと、安心してよいのでしょうか。そんなことはありません。今日、聴いて来たように、弟子たちは皆、「まさかわたしのことでは」と言わざるを得ませんでしたし、私たち自身の中にもユダがいることを覚えざるを得ませんでした。ですから、そのような私たちは「不幸」でありますし「生まれなかった方が、その者のためによかった」のであります。そのことを私たちははっきりと認識しなければなりません。私たちこそ、永遠の死に相応しい者なのであります。しかし、主イエスは、そのような者たちのために、今、十字架へ向かおうとしておられるのであります。そのような私たちの不幸を幸いにしようとしておられ、新しく生き直すことへと招き入れようとしておられるのであります。その救いの御業のために、あのユダをさえ用いようとされているのであります。そして、私たちをも、救いの御計画の中に組み入れてくださるばかりか、その御業の一端を担うことさえさせようとしていてくださるのであります。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 あなたが大きな、そして深い憐みをもって、私たちを救おうとして招いてくださっていますのに、その御心に気づかず、結局は主イエスを裏切るようなことばかりをしてしまっている者であることを覚えて、心から懺悔いたします。
 
そのような不幸者を、あなたはなお見捨てず、私たちのためにも、主イエスの尊い命と引き換えに、私たちを赦し、新しい命へと生かそうとしてくださっている恵みを覚えて、感謝いたします。
 
何の取り得もない私たちですが、どうか、主の救いの御業の一端を担う者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年2月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書14:10-21
 説教題:「
まさかわたしのことでは」         説教リストに戻る