序. 悪魔の策略に対抗して

 4月から聴いて参りましたエフェソの信徒への手紙ですが、最後の箇所に至りました。この手紙のテーマは、「キリストの体としての教会」という教会論でありました。そして、教会の頭はキリストであることが主張され、教会にはユダヤ人も異邦人もいるけれども、キリストにおいて一つであること、キリスト者はそれぞれの役割を担いながら、それらが組み合わされて一つの神殿として建てられること、また、頭であるキリストに向かって成長していくことが述べられ、その中で、個々のキリスト者は古い生き方から新しい光の子としての生き方へと生まれ変わることが語られて来ました。そして、前々回と前回は、キリスト者の家庭における人間関係についての勧めを聴きました。
 そして、今日の箇所の冒頭には、最後に言う、とあって、主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい、と勧めております。なぜ強くならなければならないのか。――それは、1112節に書かれているように、信仰者の歩み・教会の歩みには悪魔との戦いがあるからであり、その戦いに勝たなければならないからであります。
 では、悪魔とは何者でしょうか。悪魔とは、私たちの信仰をつまずかせ、私たちを神様から引き離そうとする諸々の力のことであります。12節にはこう書かれています。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。血肉を相手にするものではなく」と言われています。戦いの相手は人間ではなくて、霊的なものである、という意味で、世界を神様の支配から引き離そうとする悪魔的な力を問題としているようです。しかし、悪魔的な力というのは、人間とは無関係に遠くの宇宙からやって来る放射線のようなものではなくて、そこには必ず人間の欲望や利己心や神様に対する罪が働いています。世界の歴史は、この「悪の諸霊」によって掻き回されて来ました。その中で、教会もそうした「悪の諸霊」との戦いを余儀なくされるのであります。昨今の世界の情勢、その中でのわが国の動きも、「悪の諸霊」が働いていると思わざるを得ません。また、現在の我が国のキリスト教会が置かれている厳しい状況も、「悪の諸霊」が働いているからだと言えるかもしれません。しかし、「悪の諸霊」と言っても、得体の知れない魔力のようなものではなくて、そこには必ず人間が関わっています。人間の罪が関わっています。けれども、それは悪い人間を排除したり、やっつければよいというものではありません。そういう意味で「血肉を相手にするものではなく」、何を大切にし、何を命とするかという、信仰の戦いであります。それは、信仰を持たない人や信仰に反対する人たちとの戦いであるだけではなく、自分自身との戦いでもあります。教会の外の人たちとの戦いであるだけでなく、教会の中の戦いでもあるのではないでしょうか。

1.しっかりと立つ

 では、そのような「悪の諸霊」との戦いをどのように戦えばよいのでしょうか。それを一言で言ったのが、10節の言葉で、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」という勧めであります。ここで、「主に依り頼み」と訳されているところは、直訳すれば「主によって」または「主にあって」であります。自分の力や自分の熱心とか努力によって強くなるのではありません。主の「偉大な力」によって、弱い私たちも強くされるのであります。
 では、どうすれば「その偉大な力」を持つことができるのでしょうか。11節にはこう書かれています。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。また、13節ではこう言われています。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい。
 ここに「立つ」という言葉が二つ出て来ていますし、次の13節にも「立って、真理の帯として腰に締め」とあります。戦うためには、「立つ」ことが必要なのであります。私たちは教会に来て、安らぎや平安を与えられることを期待いたします。「立つ」ことよりも、「座る」こと、「戦う」ことよりも、「憩う」ことを望む傾向にあります。確かに、教会は魂の憩いの場であります。真の平安が与えられる場であります。しかし、信仰を持つことによって、座して憩うよりも、立ち上がって戦わねばならないことに気がつくのであります。
 ホーリネスの小林和夫先生は、今日の箇所を17節までと18節以下の二つに分けて、それぞれの箇所で私たちに求められている感覚を、分かりやすい言葉で表現しておられます。前半の17節までで求められているのは、「敵前感」だと言われます。私たちの前には敵がいる、という感覚であります。敵である悪魔がいつも私たちを狙っているという感覚であります。キリスト者は戦いを好みません。平和を愛します。主イエスも、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」とおっしゃいました。(マタイ629)しかし、主イエスを逮捕しようとする者たちが近づいていた時には、主イエスは眠っていた弟子たちに向かって、「立て、行こう」(マタイ2646)と言われました。弟子たちは「敵前感」を失っていましたが、主イエスは十字架の時が近づいたことを知って、真剣に神様に祈っておられました。そして、神様の御心に従って、敵と向き合われたのであります。もっとも、敵たちがやって来た時に、弟子の一人が剣を抜いて、切りかかりましたが、主イエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃいました。――ところが、今日の箇所では、「神の武具を身に着けなさい」と言われています。これは主イエスがおっしゃったことと矛盾するのでしょうか。ここで、「神の武具」とは、何のことを言っているのでしょうか。

2.神の武具を身に着ける

 1417節にこう書かれています。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。それによって。悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
 ここに並べられている武具は、当時のローマ兵が完全装備として身に着けていたものだと言われます。しかし、私たちの戦いは悪魔との戦いであり、血肉を相手にするものではありませんから、ここには、「悪の諸霊」と戦う時に身に着けるべきものが並べられています。
 第一は、「真理を帯として腰に締め」と言われます。当時の服は上から下までつながっていましたから、帯で腰を締めることが武装の基本でありました。その帯とは「真理」だと言います。これは一般的な真理ではなくて、福音の真理、あるいは信仰の真理のことでしょう。私たちが信仰の告白で言い表わしていることであります。あるいは、教理と言い直すことが出来るでしょう。悪魔は、「お前の信じていることは本当なのか」「イエス・キリストは本当に神の子なのか」などと問いかけて来て、私たちを本当の信仰から引き離そうとします。ですから、信仰の真理をしっかりと身に着けておく必要があります。
 第二は、「正義を胸当てとして着け」です。「正義」とは、神様の前での正しさということですが、私たちは神様の前で胸を張れるような正しさを持っていません。不義なる者であります。それでは悪魔の攻撃を受ければ、命取りになります。しかし、そんな私たちのために、主イエス・キリストが私たちの正義となってくださいました。パウロはローマの信徒への手紙の中で、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ロマ322)と言っております。この神の正義を胸当てとすれば、どんな矢が飛んで来ても、それを弾き返すことが出来る、ということです。
 第三は、「平和の福音を告げる準備を履物としなさい」であります。イザヤ書で、こんなことが言われています。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる」(イザヤ527)。ここで「平和」とは、単に戦争がないということではありません。神様との間の平和であり、それはイエス・キリストによってもたらされました。その平和の福音を告げる用意があることが、悪魔との戦いの足ごしらえになる、丈夫な軍靴のような履物になるということです。

 第四は、「信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです」と言われています。っこで「盾」と訳されているのは、手で持つことができるような小さな盾ではなくて、楕円形の大きな盾のことだそうで、敵が火をつけて放った矢は、この盾で防ぐと消えてしまうのです。この大きな盾の役割をするのが、「信仰」だと言います。悪魔は火のついた誘惑の矢や疑いの矢や失望の矢を放って来ます。それが私たちの心の中に投げ込まれると、燃え上がって、手が付けられなくなります。それを防ぐものが信仰という盾です。主に対する信頼の心と言ってよいでしょう。

 第五は、「救いを兜としてかぶり」と言われています。兜というのは頭を守るものですから、一番大切なものです。それが「救い」である、と言っているのです。「救い」とは、単に危ない状態から救われるということではなくて、罪からの救いであります。キリストの十字架の贖いによって、永遠の命を与えられたということです。その救いをかぶっているなら、私たちの命である神様との関係が断たれることはありまぜん。終わりの日に永遠の命を与えられる希望が奪い去られることはありません。

 最後の第六は、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と言われています。これまでの武具は、帯も胸当ても履物も盾も兜も身を守る武具でしたが、最後の「剣」だけは攻撃用の武具であります。悪魔を倒すことが出来るのは、霊的な剣である「神の言葉」であります。主イエスも荒れ野で悪魔から三つの誘惑を受けられた時に、いずれも旧約聖書の言葉をもって退けられました。ヘブライ人への手紙にも、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブライ412)とあります。「精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに」という厳しい表現で語られていますが、神の言葉は悪魔の正体を暴き出すということを述べていると受け止めたらよいのではないでしょうか。ところで、「悪魔」と言っても、実は他人事ではありません。私たちがいつの間にか悪魔に乗っ取られているかもしれません。神の言葉はそんな私たちの醜い罪の姿をも明らかにします。しかし、神の言葉は私たちの罪を暴き出すだけではありません。神の言葉はまた、私たちを悔い改めへと導き、救いへと招き入れる福音でもあります。

 では、どうすればこの「神の言葉」という「霊の剣」を身に着けることができるのでしょうか。――それは、神様に向き合って御言葉を聴くということによってしか出来ないのではないでしょうか。具体的には、主の日の礼拝によって、御言葉を聴く、また日々の生活の中で聖書を読むことによって、御言葉に出会うということです。ただし、これは聖書をよく勉強する、聖書の知識を増やすということとは必ずしもイコールではありません。礼拝において、また聖書を読むときに、神様と向き合っているかどうか、神様の御心に触れているかどうかが肝心であります。そこで必要になるのが、18節以下で勧められていることです。こう言っております。

3.目を覚まして祈る

 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのために祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。1820節)
 先ほど、小林和夫先生が、「敵前感」を持つ必要があると言っておられることを紹介しましたが、小林先生は更に、この18節以下では、「御前感」を持つべきだということを述べておられます。「御前感」というのは、神様の御前にいる、神様の前にあるという自覚を持つことであります。「御言葉を身に着ける」という場合には、神様と向き合って、御心に触れているかどうかが大事だということを申しましたが、この「御前感」というのは正にそのことでありましょう。
 その「御前感」をもって神様と向き合うのが、18節以下で語られている祈りであります。祈りというのは、私たちの願いを述べるだけでなくて、むしろ、神様の御声に耳を傾けるということ、御心を伺うということであります。先程から6つの神の武具のことを聴きましたが、これらの武具が身に着いて、効力を発揮するためにも、そこに神様の力が働かなければなりません。それには神様の御心を十分に受け止める必要があります。そのためには神様に祈ることが欠かせません。
 祈りに当たっては、自分が神の武具をしっかりと身に着けられることを願うと共に、忘れてならないことがあります。それは、「すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と言われているように、自分のための祈りだけでなくて、共に悪魔と戦っている信仰の友、同労者のためにも祈ることが必要である、ということです。私たちは自分一人で信仰の歩みをしているわけではありませんし、一人ぼっちで悪魔と戦っているのではありません。教会という神の民の一員として戦っているのです。そして、私たち自身も、他の人に祈られていることを覚えなければなりません。また、1920節では、筆者は「わたしのためにも祈ってください」と言っております。このように、私たちも自分の戦いのことについて、教会の仲間に祈ることを求めてもよいのです。
 小林先生は「敵前感」と「御前感」を持つ必要があるということを述べておられるのですが、私はそこにもう一つ、「一体感」(または「連帯感」)というのを加えたいと思います。神の民の一員であることの「一体感」であります。これは互に祈り合うことによって養われるのではないでしょうか。この祈り合う交わりというのは、米子伝道所の会員だけでもありません。全国の諸教会のキリスト者、世界の教会のキリスト者が共に召されて戦っているのです。

4.様子を知りあう教会

21節以下を見ますと、この手紙の「結びの言葉」が書かれていますが、ここには、この手紙を託するティキコのことが記されていて、21節には、わたしたちがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらう、とあり、22節では、彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためです、と言っております。つまり、互いに様子を知りあうことの大切さを述べています。そこから「一体感」を持つことが出来ます。
 今日の最初に、昨今の世界の情勢や我が国の状況のことに触れて、教会が「悪の諸霊」に脅かされているのではないかということを申しました。今こそ、教会が神の武具を身に着けて、「悪の諸霊」と戦わなければならない時であります。私たちは他の教会のことをあまり知りません。まして外国の教会のことは殆んど知りません。8月の「世界の教会を覚える日」に少し思い起こすだけであります。しかし、悪魔との激しい厳しい戦いは各地で行われている筈であります。
 先週の月曜日に中国四国地区の教職者会があって、各教会の定期総会議事資料をもとに、現状と課題を報告し合いました。どの教会にも厳しい戦いがあります。牧師が入院されて、主の日ごとの説教者を確保するのに苦労しておられる教会があります。教勢が低下して、会計状況が厳しくなっている教会があります。長老の教会観が育っていないという悩みを抱えておられる教会もあります。悪魔は色々な策略で教会の働きに挑んで来るのだということを覚えさせられました。私たちは、そのような他の教会の戦いのことも覚えて祈る必要がありますし、また私たちの教会の課題について、他の教会の人々に祈っていただくことによって、主にある一体感を深めることが出来るのではないでしょうか。

結. 主の偉大な力によって

 最後に、もう一度10節の言葉に耳を傾けましょう最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。――私たちはこのエフェソの信徒への手紙で、教会がキリストを頭とする一つの体であることを学んで参りました。私たち一人一人は悪魔の策略に対抗できる力を持ち合わせていませんが、頭であるキリストの偉大な力によって強くなることが出来るのであります。神の武具は十分に用意されています。何よりも、霊の剣である神の言葉を与えられています。今年の私たちの目標は「御言葉が実を結ぶ」であります。神の御言葉をもって戦うならば、必ず、救いの御業は実を結ぶことを信じて、目を覚まして祈りつつ、歩んで参りたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様!
 私たちは日頃、自分の生活のことにかまけて、いつのまにか悪魔の策略に落ち込んでしまっていた者でありますが、今日、御言葉をもって目覚ましめてくださり、イエス・キリストを頭とする教会に連なっていることの恵みを覚えることが出来まして、ありがとうございます。また、私たちには、悪の諸霊に立ち向かうことの出来る神の武具を備えられていることを教えられました。どうか、その恵みの武具をしっかりと身に着けて、戦い抜くことが出来ますように。
 悪魔が必死に挑んで来ている世界の情勢、また我が国の状況の中で、どうか、神の武具を備えられた教会が、祈り合いつつ、連帯して、あなたの救いの業に参加する恵みに与ることが出来ますように。
 様々な困難を抱えている教会、またその信徒たち一人一人の上に、特別な顧みと力づけがありますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年2月15日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙 6:10-24
 説教題:「
神の武具」         説教リストに戻る