序. キリストに結ばれている者として

 エフェソの信徒への手紙は「キリストの体なる教会」ということをテーマにしておりますが、その中で4章以下は、教会に連なる信仰者の生き方について語られて来て、先週の521節から今日の69節までは、「家庭訓」と呼ばれる、最も身近な家庭における人間関係についての勧めが述べられています。そのうち、先週の521節~33節までの箇所では夫婦のあり方が語られ、今日の619節では、親子の関係と奴隷と主人の関係(家庭内における主人と使用者の関係)について述べられています。
 このような家庭内の人間関係の基本的な教えは、先週の説教で申しましたように、21節であります。これは、「妻と夫」という小見出しがついた段落の中に書かれていますが、今日の箇所の「子と親」や「奴隷と主人」の関係まで含めた、人間関係についての基本な勧めであるということを申しました。そこではこう言われています。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。――「キリストに対する畏れをもって」ということは、<キリストの深い愛に対する畏敬の念をもって>ということです。そのようなキリストに対する畏敬の念があるところでの人間関係は、<互いに仕え合う>という関係になるということであります。キリストは私たちのために命を投げ出すほどに仕えてくださいました。そのような愛を受けた人間同士は、互いに仕え合う関係、愛の関係へと導かれるということであります。
 このような<互いに仕え合う>という関係は、「妻と夫」の間ではまだしも、今日の箇所で取り上げられている「子と親」や「奴隷と主人」の関係においても成り立つのでしょうか。子が親に従い、奴隷が主人に従うのは、ある意味では当然かもしれませんが、その逆も成り立つのでしょうか。その辺りを聖書はどう考えているのか、またそのことを通して現代の私たちに何を語ろうとしているのか、そのことを聴き取って参りたいと思います。

1.子供たちへ――両親に従いなさい

 まず、子供たちに向けては、こう言われています。主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
 「両親に従いなさい」と勧められています。子が親に従うということは、日本の伝統的な家族観の中では当然のことだと考えられて来ました。しかし、子供は親の所有物ではありません。子供には子供の人格があり、権利があります。それが近代的な親子観でしょう。また子供は一定の年頃になると、親に反発を覚えるものです。子は親に反発することで成長もするのであります。――では、ここで聖書が「両親に従いなさい」と教えるのは、古い家族観の押し付けなのでしょうか。そうではありません。「主に結ばれている者として」と言われています。原文は「主にあって」であります。「主との関係において」ということです。「主」というのは、ここでは直接的にはイエス・キリストのことを指しているのでしょう。子が親に反発したくなる時があり、親子で意見が違ったり、利害が一致しないことがあります。そういう時に、主イエスとの関係を思い起こして、考え直しなさい、ということです。では、主イエスとの関係とは、どういう関係でしょうか。それは、父なる神様との間の敗れた関係を、十字架の贖いによって修復していただいたという関係です。父なる神様との間の破れた関係とはどういうことでしょう。23節を御覧ください。こう書かれています。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。――これは十戒の第五戒の引用です。これによれば、子は父と母を敬うように命じられています。これは親が立派だからではありません。親が尊敬に値するかどうかは問題にされていません。子が親を敬うのは神様の御心なのであります。そういう親子の関係は神様が与えてくださったのです。そのような関係を私たちが疎かにするということは神様の御心に反するのです。親を敬わず、親に従わないことは、神様に従わないこと、罪を犯すことになります。そのような私たちのためにも、主イエスは十字架に架かってくださったのです。そうして、親子の関係を造り直してくださったので、子は両親に従うのが「正しいこと」なのです。この第五戒には続けて、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という祝福の約束がついています。この約束を単なる地上的な幸せとか、長寿というように受け止めては間違いでしょう。ここに約束されていることは、神様との関係における霊的な幸福、永遠の命に生きることが出来るというように受け止める必要がありますが、親を敬い、親に従うことによって最高の幸せを与えられるということであります。
 では、どんな悪い親であっても敬い、従わなければならないということでしょうか。「主に結ばれている者として両親に従いなさい」と言われています。ということは、「主に結ばれている限りにおいて」という意味でもあります。神様の御心に反するようなことを子に要求するような場合は、そのような親を敬い、言うことに従う根拠がなくなります。例えば、親が教会に行くことを禁じたり、クリスチャンと結婚することに反対するようなことがあるとしたら、そういうことは神様の御心に反することであり、せっかく主イエスと結ばれた関係を台無しにすることで、本当の幸福には結び付く筈がありませんから、親に従うことは出来ません。けれども、そのようなことでない限り、信仰を持っていない親であっても、神様が備えられた親子の関係なのですから、親には従うべきなのです。

2.父親たちへ――子供を怒らせないで

 では、父親に対しては何と勧められているでしょうか。4節です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。

 ここで父親に対してだけ述べられていますが、母親を無視したのではなくて、両親を代表してこのように言っていると見るべきでしょう。

子供は我侭です。気に入らないことがあるとすぐ泣いたり怒ったりします。しかし、聖書は「子供を怒らせてはなりません」と命じます。子供が泣いたり怒ったりするのには理由があります。ですから、子を叱る前に、まずは、親の方(自分たちの方)に問題がないかを考えるべきなのです。親が自分の都合や自分の気分やその時の思い付きで、子供を縛り付けたり叱ったりしていないか、ということです。親は子供に対してしっかりとした基準(物差し)を持っていなければなりません。その基準の根本は、主イエス御自身が私たちに対してどう接してくださったか、ということであります。主イエスは弟子たちに対しては、御自身の都合や御自身の身を守るということを度外視して、愛をもって行動なさり、周囲の人たちにも働きかけられました。主イエスは、間違いの多い私たちのために、自らの命をも懸けてくださいました。そこに、私たちが子に接する際のモデルがあります。

 しかし、聖書は、子供の言いなりになれとか、放任主義がよいと言っているのではありません。「主がしつけ諭されるように、育てなさい」と言っております。ここでも主イエスが弟子たちにどのように教えられ、命じられたかがモデルになります。今、マルコ福音書の連続講解説教をしておりますが、その中で、主イエスが弟子たちに語られた言葉を聞いて参りました。舟に乗って湖に出たときに激しい突風が起こって、弟子たちが右往左往して、眠っている主イエスを起こしますと、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とおっしゃいました。弟子たちを村々に派遣される時に、「何も持たず」に行くように命じられました。これらは、神様に対する信頼を諭されたのであります。また、五千人以上の群衆が空腹になっている時に、弟子たちは解散してめいめいで買い物に行かせるように提案いたしましたが、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃいました。責任逃れをするのでなくて、人々のために仕えるべきことを教えられました。このあと、主イエスが十字架のことを予告されますと、ペトロが主を諫め始めました。すると主は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言って、厳しくお叱りになりました。主イエスは口先だけではない、身をもって教えられました。間違ったことははっきりと「だめ」とおっしゃいました。そのように、親は子に、体を張って言うべきことを言わなければなりません。特に、信仰のことについては、子供にも信教の自由があるなどと考えて、子供の好きなようにさせるというようなことは、神様に対して親の責任を放棄したことになるのではないでしょうか。

3.奴隷たちへ――喜んで仕えなさい

 次に、奴隷たちに対する勧めが語られています。「奴隷」といっても、家庭内で働く使用人のことで、しかも、奴隷も主人もキリスト者の場合であります。ここで聖書が奴隷制度を容認しているとして、批難するのは見当違いであります。ここで扱われているのは家庭での主人と使用人の関係でありますが、社会における主従関係一般についての教えと受け取ってもよいでしょう。
 使用人である奴隷に対して、58節でこう勧められています。奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。
 ここでも、「キリストに従うように」「キリストの奴隷として」「主に仕えるように」と、キリストとの関係、主イエスとの結びつきが大前提であり、キリストとの関係から主人との関係も導き出されるということです。まず、「恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」と勧めます。「恐れおののき」ということは、自分の置かれた立場、主従の関係をしっかりと弁えるということでしょう。しかしこれは、「隷従しなさい」「言いなりになりなさい」ということではないでしょう。「真心を込めて」と言われており、「うわべだけで仕えるのではなく」「喜んで仕えなさい」と言われているように、主人の期待や思いを自分の心として、主人が喜ぶことをするということであります。私たちはつい、上司を批判したり、形だけの仕事をこなすようなことになりがちでありますが、それではキリストに仕える者のあり方とは言えません。「善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」と言われています。仮に、一生懸命働いても、上司が評価してくれないことがあったとしても、善い仕事をすれば、主から報いを受けることができるのです。それがキリスト者の仕事の仕方であります。主イエスは僕のあり方について、こう教えられています。「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17910)「わたしどもは取るに足りない僕です」という言葉は、主人の言いなりになっている者の言い方ではありません。仕事に誇りを持っている者の言葉です。しかし、誉めてもらうことや、感謝されることを求めていません。ここに仕える者の自由があります。嫌々ではなく、喜びをもって仕えているのであります。これがキリストに仕える者としての僕のあり方であり、キリスト者として地上の主人に仕える者のあり方であります。

4.主人たちへ――脅かすのはやめなさい

 では、主人の方はどうあるべきなのでしょうか。9節以下でこう教えています。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
 「同じように奴隷を扱いなさい」というのは、キリスト者である奴隷(使用人)が、主に仕えるように主人に仕える、それと同じように、主人も奴隷に対して接しなさい、ということです。キリストに仕える姿勢をもって奴隷にも接する、ということです。自分も奴隷(使用人)も、共に主に仕える者であります。ですから、奴隷(使用人)を自分の私物のように自由に扱うことは間違いです。ですから、「彼らを脅すのはやめなさい」と言われています。上に立つ者の権威を振りかざして、脅かして奴隷を無理矢理働かせるのではなくて、共に主に仕える仲間として、喜んで働いてもらう、それがキリスト者としての主人のあり方であります。

結.キリスト者の人間関係

 以上、先週と今日の箇所では、キリスト者の家庭における人間関係についての教えを聴きました。しかしこれは、家庭における関係にとどまらず、キリスト者としてのあらゆる人間関係の基本が教えられているとも言えるのではないでしょうか。もちろん、教会における人間関係についても当て嵌まることは言うまでもありません。
 キリスト者としての人間関係について、ここで教えられたことの基本は、21節にありましたように、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」ということでありました。それは、<キリストの深い愛に対する畏敬の念をもって>ということでありました。つまり、キリストと自分との間に結ばれた関係をもとに、夫婦の関係も、親子の関係も、主従の関係も、そして、教会における人間関係も結びなさい、ということであります。
 それは決して堅苦しい関係ではありません。キリストに結びつけられた喜びにもとずく、自由で喜びに満ちた関係であります。お互いに顔色を窺ったり、どちらが偉いかとか、偉くないとかいった関係ではありません。牧師とか委員とかいう職務はあり、それぞれ、光栄ある責任を与えられていますが、一般の会員との間に上下の関係はありません。共に主に愛された者同士の関係であり、共に主に仕える者としての関係であります。そして、互いに仕え合う関係であります。主が私たちのために命をも差出して仕えてくださった者たちの関係であります。一人一人、教会にあって、また世にあって、主に対する具体的な仕え方は違いますが、主に仕えることによって、自由で喜びに満ちて生きることが出来る者とされているのであります。求道中の方々も、このような主を中心とした交わりの中に加えられて、共に主に仕える者とされたいと思います。お祈りします。

祈  り

私たちの主、イエス・キリストの父なる神様!
 あなたに対して、何の功績もないばかりか、御心を痛めることのみ多い私たちでありますが、大いなる憐れみをもって主イエスをお遣わしくださり、救いの御業をなしてくださって、私たちをキリストの体なる教会に加え、キリストに仕える弟子たちとしてくださいましたことを感謝いたします。
 私たちの家庭も、また教会も、人間の集まりであって、自分が中心になって、相手に対する思い遣りを欠いてしまうことが多いのですが、どうか主に結ばれた者たちとして、互いに愛し合い、仕え合うことができるようにしてください。
 
私たちの群れの中に、病を負ったり、心を患ったり、年老いたりして、不自由な生活を強いられたり、不安の中にいる者もおります。どうか、そのような一人一人にあなたが寄り添ってくださり、力づけてください。また、私たちも、主にある交わりを通して、互いに祈り合い、感謝と喜びの日々を送ることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年2月8日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙 6:1-9
 説教題:「
主に仕えるように」         説教リストに戻る