序. 人間関係の基本

 昨年春からエフェソの信徒への手紙を読んで参りました。この手紙のテーマは、「キリストの体なる教会」ということで、1章から3章までは、<教会とは何か>という教会論の教理的・原理的なことが述べられ、4章からは、<信仰者としての生き方>という実践的なことに関する勧め(勧告)が語られて来ました。そこでは、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けなさい」「神に倣う者となりなさい」「光の子として歩みなさい」というように勧められて来ました。更に今日の箇所から6章にかけては、具体的な人間関係についての勧めが語られて参ります。まず、今日の箇所では夫婦のあり方、来週取り上げる6章1節~9節では、親子の関係のあり方、奴隷と主人の関係のあり方が述べられて行きます。これらは「家庭訓」と呼ばれて、基本的な人間関係についての勧めであります。奴隷と主人の関係が「家庭訓」に含められるのは違和感があるかもしれませんが、当時の奴隷というのは、家庭内の使用人(召使)のような者のことです。
 さて、こうした家庭内の基本的な人間関係について語るに当たって、最初に勧めていることが21節の言葉であります。これは、新共同訳の段落の区切り方では「妻と夫」の段落の中に入っていますが、これは後の「子と親」の関係、「奴隷と主人」との関係にも当て嵌まる基本的な勧めで、5章の6節~20節までに語られてきた「光の子として生きる」ことのまとめと言ってよい言葉ですので、聖書によっては前の段落に含めている言葉です。段落の切り方はともかく、21節の言葉は、家庭をはじめ、あらゆる人間関係の基本を教えるものだと言ってよいかと思いますので、まずこの言葉に耳を傾けたいと思います。

1.キリストに対する畏れをもって

 こう勧められています。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。――人間関係の基本は、互いが仕え合うことにある、という勧めなのですが、これは単なる家庭訓ではありません。その前提が大切で、「キリストに対する畏れをもって」と言われていることを聞き逃しては、聖書の教えにはなりませんし、「仕え合う」という関係も出て来ないのではないかと思います。
 「畏れ」と訳されているギリシャ語は、恐怖の意味の「恐れ」と、「畏敬」の意味の畏れと両方の意味を持っている言葉ですが、ここでは明らかに「恐怖をもって」ではなくて、「畏敬をもって」という意味で使われています。その意味での「畏れ」は、普通は神様に対して用いられることが多いのですが、ここではそれを「キリストに対する畏れ」と言って、キリストに対して用いております。
 この手紙が書かれた1世紀末の社会では、夫に対する妻の立場、親に対する子の立場、主人に対する奴隷(召使)の立場というのは支配に対する従属という主従関係にあったと思われますが、その場合には、「畏れ」と言っても、「恐怖」の思いが支配的な関係であったでしょう。しかし、神様に対する「畏れ」とか、「キリストに対する畏れ」という場合には、恐ろしい者に対する「恐怖」の関係ではなくて、神様やキリストの愛に対して感謝と畏敬の念をもって向き合うという、愛と信頼によって結ばれた関係であります。
 そして大事なことは、夫婦の関係、親子の関係、主人と奴隷の関係においても、それぞれがキリストに対して畏れを持っているかどうか、キリストと愛と信頼の関係を持っているかどうかということが基礎にあって、その関係のもとでこそ、夫婦の関係、親子の関係、主人と奴隷の関係もあるべき関係を持つことが出来るということであります。夫婦の関係で言えば、夫もキリストに対する畏れをもっている、妻もキリストに対する畏れをもっているというところから、夫婦の間のあるべき関係も成立するということであります。もっとも、現実には一方だけがクリスチャンという場合もあるわけですが、そういう場合はあるべき夫婦関係が成立しないのかというと、そうではなくて、少なくても一方がしっかりとキリストに対する畏れをもっているということが一層重要になって来るということではないでしょうか。

2.互いに仕え合いなさい

 続けて21節の後半ですが、互いに仕え合いなさい、と勧められています。この「仕え合いなさい」の「仕える」という言葉は、元々は軍隊用語だそうで、低い階級につけるという意味から、「下に立つ」「服従する」「従属する」という意味に使われるようになったと言います。そういう意味からすると、ここで勧められていることは、自分を相手より下の者とし、相手を上の者として立てて、相手に服従するということであります。これは私たちにはなかなか出来ないことです。私たちはどうしても上に立ちたいのです。仮に立場上、相手が上の立場にある人であっても、内心は自分の方が正しいとか、優れているとか、よく分かっていると思いたいのであります。そういう自尊心というか、プライドというものは、競争に打ち勝って行くためには必要なことがあります。テニスの錦織選手は上位の選手にも勝てる筈だという強い心を持つことによって勝ち進むことが出来たと言います。スポーツの世界ではそういうことも必要であります。しかし、人間関係ではそうであってはならない、ということです。たとえ実力が相手より上回っていたとしても、相手を立てて従うことが必要だと言うのです。でも、そういうことはなかなか出来ません。どうしてそういうことが出来るようになるのか。それは、「キリストに対する畏れをもつ」ことによって出来るということではないでしょうか。主イエスはマタイ福音書20章で、弟子たちにこう教えておられます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ202528)――主イエス御自身が私たちのために命まで差出して仕えてくださった、その愛の尊さに対して畏れをもつことによって、私たちも人に仕えることが出来るようになるのであります。

 ここではまた、「互いに」仕え合うように勧められていることにも注目する必要があります。一方的であっては意味がありません。仮に社会的地位に差があっても、あるいは能力や、業績において差があっても、キリストに対する畏れをもつなら、互いに仕え合うことができるのです。これがここで勧められている人間関係の基本であります。

3.妻たちに対して――仕えなさい

 では、22節からの具体的な勧めに入って行きましょう。ここからは結婚式で読まれる箇所です。最初は妻に対する勧めです。
 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
 ここでは、妻が夫に仕えるように勧められています。そして、その勧めの理由として、「夫は妻の頭だからです」と言われていて、「すべての面で夫に仕えるべきです」とまで言っています。これを読むと、男尊女卑の封建的な考え方のように思えて、現代の夫婦関係にはそぐわないように思ってしまうかもしれません。確かに、現代の男女平等論からすると違和感のある言葉が並んでいますし、聖書が書かれた古代社会の通念が反映しているということも言えるかもしれません。しかし、誤解のないように、真意をきっちりと読み取ることが必要です。
 まず、「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」と訳されていますが、原文を見ますと、「仕える」という言葉はなくて、直訳すると、「主に対するように、自分の夫に」と言われているのです。24節も、「教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で仕えるべきです」とありますが、原文では、「教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面でそのように」とあるだけで、妻について「仕えるべきです」とは書かれていないのです。確かに「教会がキリストに仕えるように」とありますから、妻のところにも仕えるという言葉を入れて読んだ方が分かりやすいということでしょう。しかしここで「仕えなさい」という言葉を入れなかったのは、命令として語ると誤解する恐れがあるからで、真意は、21節にあったように、「キリストに対する畏れ」を抱くのと同じように、夫の愛に対する信頼をもって応えるということであり、また「キリストと教会」の関係が夫と妻の関係に映し出されているということが言いたいのであります。夫と妻の関係というのは、単に好きだとか愛しているというだけでは保つことが出来ません。夫婦の間では、どうしても相手と馴染めないことがあったり、我侭が出て来たり、意見の違うところがあったりして、ぴったり一致できるというものではありません。そうした中で二人が一緒に暮らして行くことが出来るのは、21節の言葉で言えば「キリストに対する畏れ」があるからです。つまり、夫との関係の破れについても、キリストの愛の赦しの恵みが働いていて、そのキリストの愛に対する畏敬の念があるからであります。また、教会にも弱さや過ちや怠慢があって、人間の醜い罪がありますが、それにも拘わらずキリストが教会を愛し続け、教会の頭として導き、救っていてくださっています。そうしたことを覚える中で、そのキリストと教会の愛の関係を知ることが夫と妻の破れた関係をも修復して、夫に対する赦しや謙遜な思いへと導いてくれるのであります。こうして、夫に対する尊敬の思いが芽生え、ここで「仕える」と記されているような新しい関係へと高められる、ということではないでしょうか。

4.夫たちに対して――愛しなさい

 次に、25節からは夫たちに対する勧めに入りますが、それは29節まで続きます。妻に対する勧めよりも長いのです。まず25節から見て行きます。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。――夫たちに対しては妻を「愛する」ことが求められています。その愛というのは、「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」とありますように、主イエスは御自分を裏切ってしまった弟子たちを愛し、また、御自分を十字架に架けた人々をも愛し抜かれて、救いの御業を成し遂げられたキリストの十字架の愛、自己犠牲の愛であります。そのように「妻を愛しなさい」と勧めるのであります。
 そのキリスト自己犠牲の愛ついて更に2627節でこう言います。
 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。――ここで「水の洗い」というのは洗礼のことですが、「言葉を伴う」と付け加えられているように、儀式としての形だけの洗礼ではなく、御言葉を伴うことによって内面的な変化が起こるような洗礼のことを言っていると思われますが、そのような洗礼によって、教会は(すなわち信仰者の群れは)、聖なる、汚れのない者とされるというのです。これはイエス・キリストの自己犠牲の愛が深いだけに、そこまで効力を持つということを言おうとしているのでしょう。
 そのようなキリストの愛を語った上で28節ではこう言います。
 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。――ここではキリストと教会の関係と類比しながら、夫と妻の関係が述べられています。それは「自分の体のように」愛する関係だということです。結婚は二人の人格の結びつきですが、結婚によって一つの人格になってしまうわけではありません。しかし、二人が愛で結ばれているということは、自分の体のように、痛みも喜びも一つだということであります。
 このような夫に対する勧めは、先程の妻に対する勧めと比べてどうでしょうか。妻に対する勧めでは「仕えるべきです」と訳されていたので、女性蔑視ではないかとひっかかったのですが、考えてみると、「愛する」ということが、単に好きとか気に入っているということではなくて、キリストの十字架の愛に倣うということであれば、こちらの方がはるかに責任重大な勧めであって、単に仕えるどころではなくて、自分の命を捧げるようなことが求められていると言ってよいのではないでしょうか。しかし、どちらが重いか軽いかというようなことは愚かな議論であって、聖書が言おうとしていることは、21節にあるように、どちらも相手のために「仕える」ことであり、キリストが教会を愛されたように「愛する」ことであります。
 しかし、そんなことは簡単に達成出来ることではありません。私たちは夫婦の関係においても罪を犯してしまいます。親しい夫婦の間柄であるだけに平気で相手を侮辱したり、自分のわがままや傲慢を押し通したりしてしまいます。「仕える」とか「愛する」ということが忘れ去られたような間柄になってしまいがちであります。それは、程度の差こそあれ、どの夫婦も同じなのではないでしょうか。

5.キリストの体の一部

では、ここに勧められていることは理想論に過ぎないということでしょうか。そうではありません。夫婦の関係がキリストと教会の関係との類比で語られました。それは、キリストと教会の関係が夫婦の関係の単なる理想、あるいは模範として示されているということではありません。何のためにキリストは十字架の架かってくださったのか。それは、私たちの罪を贖うためでありました。罪に汚れた私たちを清い者として扱ってくださるためでした。私たちの夫婦の関係には破れがありあります。そこには罪があります。キリストはそのような罪をも贖うためにこそ十字架に架かってくださったのであります。30節にはこう述べられています。わたしたちはキリストの体の一部なのです。――キリストの十字架の故に、罪深い私たちのような者をもキリストの体の一部とされたのであります。私たちはこのような赦しの恵みの中に置かれているので、夫婦の間でも、自分の罪を悔い改めて、互いに赦し合うことが出来るようになるのであります。次の31節にはこう書かれています。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」。――これは創世記2章にある、人間が男と女に造られた物語の中で言われていることの引用ですが、男と女はもともと一体となるように造られているということです。それにも拘わらず、罪が入り込んでしまいました。しかし、神様はキリストの十字架によって、造られた時の関係へと修復しようとされるということです。

結.キリストと教会

 今日は、夫婦の関係についての勧めを聴いて来たのですが、そこで聖書はキリストと教会の関係を語らざるを得ませんでした。32節で、この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです、と語っている通りです。
 私たちは夫婦の間でも、その他の人間関係においても、罪を犯してしまう者でありますが、何よりも神様に対して罪を犯し続けている者であります。キリストが十字架に架かってくださったのは、まさにそのような私たちの罪の贖いのためでありました。そのようなイエス・キリストの愛が、私たちの人間関係を清めてくださるとともに、教会を清め、悔い改めへと導き、新しい命を生み出し、実を結ばせるのだということを改めて覚えたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様!
 今日も礼拝にお招きくださって、夫婦の関係という実際的な問題について、キリストと教会の関係を通して、御言葉を聴くことが出来ましたことを感謝いたします。
 私たちはあなたによって造られたことを忘れて、自分中心に振る舞い、人間関係を損ない、またあなたとの関係を疎かにしてしまっている者であります。そんな私たちのために、あなたはキリストを遣わし、十字架の御業をもって、私たちの罪を贖い、人間関係も、あなたとの関係も修復してくださることを覚えて、重ねて感謝いたします。
 どうか、私たちの人間関係、また教会生活の真ん中に、絶えずキリストが立っていてくださいますように、お願いいたします。
 先週は定期総会を行い、新たな思いをもって今年度の歩みを始めることが出来ました。なお、多くの欠けを持ち、弱さを持つ教会であり、また、健康上の不安を持つ者もおります。そのような教会でありますが、どうか、教会の頭であり給うキリストに仕える教会として、御心に従って歩むことができるように、導いてください。また必要な助けをお与えください。そして、あなたの御栄光をあらわすことができますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年2月1日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙 5:21-33
 説教題:「
互に仕え合いなさい」         説教リストに戻る