序. 実を結ばせるのは誰か

 今月の礼拝では、今年の米子伝道所の目標である「御言葉が実を結ぶ」について学んで参りました。14日の礼拝では今年の主題聖句に掲げましたヨハネ福音書155節で主イエスが「わたしはぶどうの木」と言われた御言葉によって学び、111日と18日の礼拝ではマルコ福音書の「パンの出来事」と「湖の上で逆風に悩まされた出来事」によって学びました。今日は旧約聖書のイザヤ書45章を与えられていますが、その8節ではこう言われております。
 天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。――この中にも「実を結ぶ」という言葉が含まれています。この箇所は、今年の主題聖句の候補にも挙がっていたもので、ここでは「御言葉が実を結ぶ」ではなくて、「救いが実を結ぶ」となっているのですが、目指すところは同じであります。昨年の目標が「御言葉に生かされる」であったので、それとの連続性を考えて、「御言葉が実を結ぶ」と決まりましたが、目指すところは「救いが実を結ぶ」ことであります。――そういうわけで、今日はこの第二イザヤの預言を通して、今年の目標である「御言葉が実を結ぶ」ということを行うのは誰か、誰が救いを実現させてくださるのか、ということを学びたいと思います。その答えは初めから明らかであります。神様が救いを実現させてくださるのであります。しかし、そのことは決して自明のことではありません。イスラエルの民は、この第二イザヤと呼ばれる預言者が活動した時期にはバビロンに捕囚となっていました。そうした中で、先月にイザヤ書44章で学びましたように、イザヤはペルシャ王キュロスによる解放を告げたのであります。異邦人の王が神の民であるイスラエルを救うというのであります。これはイスラエルの民にとっては簡単には受け入れ難いことであります。今日の箇所の背景には、そうしたイスラエルの民の驚きと反発があります。
 私たちもまた、色々な意味で救いが実を結ぶことを期待しておりますが、現実の厳しい状況の中で、聖書が告げる救いの御言葉に対して疑問や不安が出て来るのであります。私たちにはそれぞれ、自分の生き方の流儀があります。自分が大切にしているものがあります。それは例えば、これまでに努力して得た立場であったり、家族との間の絆であったり、遣り甲斐を感じている活動であったり、自分が学んで来た思想や信念であったりいたします。そうしたものに絶対的な確かさがあるとは思っているわけではないのですが、それらを捨てて、聖書の告げる救いに身を投じることには不安があるのであります。これはまだ信仰を持っていない人にとっては当然のことですが、既に信仰を持っている人でも同様で、自分の生活の中で礼拝生活をどう位置付けるかとか、教会の様々な活動をどう進めて行くかといったことについて、思い切った行動に踏み切れないところがあります。新約聖書の中に登場する主イエスに出会った人物の中で、すぐに主イエスに従った者もいますが、ファリサイ派の人々は自分たちの生き方に自信を持っていましたから、主イエスに従うことが出来ませんでした。金持ちの青年は永遠の生命を求めて主イエスのところにやって来ましたが、持ち物を全部売って貧しい人に施しなさいと言われて、主イエスの許から去って行ってしまいました。ニコデモは主イエスから良いものを受けようと思ってやって来ましたが、「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われてしまいました。私たちは自分の生き方の流儀を変えることが大変難しいのであります。
  バビロン捕囚の中にあったイスラエルの民も、イザヤが告げるキュロスによる解放を受け入れることが出来ませんでした。そうした中で、イザヤはイスラエルの人々にどのように語ったのでしょうか。そして神様はイザヤを通して私たちに何を語ってくださるのでしょうか。――今日はそれを聴き取りたいと思います。

1.油注がれた人キュロス

 まず、1節でキュロスについてどう言われているかを聞きましょう。
 主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。
 ここではキュロスのことを「油注がれた人」と言っております。イスラエルにおいて油を注がれて任命されるのは、王と祭司と預言者であります。異邦人の王についてこのように言われることは、イスラエルの人々にとっては受け入れられないことであります。しかし、そのキュロスがバビロン王の武装を解かせ、城門の扉を開く、と述べて、キュロス王による捕囚からの解放が告げられているのであります。そんなことがあってよいのだろうかと、イスラエルの民でなくとも思います。けれどもそれは、キュロスが勝手にやることではなくて、「わたしは彼の右の手を固く取り」と言われているように、主なる神様がキュロスを用いてなさることなのであります。
 次の2節から3節前半を見てください。わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし/青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り/暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。――「わたし」というのは神様で、「あなた」というのはキュロスのことです。神様がキュロスの前に立って導かれて、バビロンの城壁の青銅の扉を破って、都を征服するのであります。真の征服者は神様であるということです。
 3節後半から5節にはこう述べられています。あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である、と。わたしの僕ヤコブのために/わたしの選んだイスラエルのために/わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが/あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった。つまり、キュロス王は神様がイスラエルのために自分を選ばれたことを「知らなかった」のであります。あとになってから「知るようになる」だけであります。
 キュロスに力を与えたのは、神様であり、イスラエルの歴史を支配しておられるのは、真の神様であるということであります。
 私たちは自分の経験や知識で、あれが良い、これが悪いと判断してしまい勝ちですが、神様は私たちが知らないところで、神様を知らない人をさえ用いて、救いの御業を進められるということであります。
 私たちが今年の目標として願っていることについても同様だということではないでしょうか。神様は「御言葉が実を結ぶ」ために、すでに用いる人を定めておられるということであります。それは、必ずしも信徒でない人が用いられるかもしれません。その人自身は「知らない」かもしれません。クリスマス礼拝に新しい方が7人来られました(内2人はクリスチャン)。その方々を誘ったのはいずれも信徒でない方です。誘った人たちは御自分が神様に用いられたとは思っておられないでしょう。しかし、もしかすると神様が、救いが実を結ぶためにお用いになられたのかもしれないのであります。
 更に、6節ではこう言われています。日の昇るところから日の沈むところまで/人々は知るようになる/わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。――ここでは「日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる」と言われています。キュロスが知るようになるだけではなく、世界中の人が知るようになるということです。真の神様への信仰が世界中に広まるのは、キリスト以後のことですが、そのことが既にここに預言されているのであります。イスラエルの民は自分たちだけが真の神様を知っていると思っていました。そして、真の神様を知らない異邦人のキュロスがイスラエルの解放のために用いられるのはおかしいと考えました。しかし、神様は初めから、世界の人々を救いの対象に考えておられたのです。少し先の22節でも、「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ」と言われています。これが神様の御心であります。

2.創造したのはわたし

 次に、7節、8節を後まわしにして、9節以下を先に見ます。ここでは「造り主」あるいは「創造した」という言葉が出て来ます。災いだ、土の器のかけらにすぎないのに/自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか。「何をしているのか/あなたの作ったものに取っ手がない」などと。災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い/なぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は。910節)粘土が陶工に文句を言うことは出来ません。産まれて来る胎児が父親や母親に、なぜ子供をもうけるのかと問うことは出来ません。そのように、神様に造られた私たちが造り主なる神様がなさることに文句をつけることは愚かなことであります。

 続いて11節から13節ではこう言われています。イスラエルの聖なる神、その造り主/主はこう言われる。あなたたちはしるしを求めるのか。わたしの子ら、わたしの手の業について/わたしに命ずるのか。大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げ/その万象を指揮するもの。わたしは正義によって彼を奮い立たせ/その行く道をすべてまっすぐにする。彼はわたしの都を再建し/わたしの捕われ人を釈放し/報酬も賄賂も求めない。万軍の主はこう言われた。――ここではキュロスによる解放に疑問を投げかける人たちに対して鋭い叱責が語られています。「あなたたちはしるしを求めるのか」、「わたしの手の業について、わたしに命じるのか」と言われています。私たちは、神様がなさる業に対して理由を求めたり、こうあるべきだと主張したりしてしまうことがあります。しかし、天地を創造し、そこに人間を造られたのも神様であり、その神様が「わたしの都」すなわちエルサレムを再建し、「捕われ人」すなわちイスラエルの民を解放しようとしておられるのであります。キュロスはその神様の救いの業のために用いられているのだということです。

 この段落には、他に二つ、注目すべき言葉があります。一つは13節にある「わたしは正義によって彼を奮い立たせ」という言葉です。「正義」という言葉は、先ほど飛ばした8節にもあります。キュロスが勝手に好きなように振舞うのではありません。神様の正義に従わせられるのであります。もう一つの注目すべき言葉は「報酬も賄賂も求めない」という言葉です。神様はもちろん御自分の利益を求めることはなさいません。イスラエルの民を愛されるがゆえに、彼らの利益のため、彼らの救いのためになさることであります。先月の44章の説教の中で、キュロスの出現は主イエス・キリストの出現を指し示す出来事だということを申しました。神様はイスラエルの民を愛し、彼らが罪から立ち帰るために御子を惜しまず遣わしてくださいました。キュロスと主イエスとはもちろん全く違うのですが、イスラエルの民を愛し、教会を愛される神様の変わらぬ御心が、キュロスをお用いになり、最終的には主イエスをもお遣わしになったということであります。

3.光を創造し、闇を創造し

 ここで、7節に戻りたいと思います。こう語られています。光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。――ここにも「創造」という言葉が出て来ますが、ここで驚くのは、神様が光を造られただけでなく、闇をも創造されたと言い、平和だけではなく、災いをも創造されるお方だと言われていることであります。私たちの世界には、確かに闇の部分があり、災いも絶えることがないのであります。それも神様がなさることだと言っているのでしょうか。深く考えさせられる事柄であります。しかし、創世記の創造物語では、神様が光を創造されたことが語られていますが、闇や混沌を創造されたとは書かれておりません。
 この後の18節ではこう言われています。「神である方、天を創造し、地を形づくり/造り上げて、固く据えられた方/混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた方/主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。」――ここには「混沌として創造されたのではなく」と述べられていて、混沌の創造が神様の創造の御業の本来の目的ではないということ、そして、人の住む所として造るのが目的であると語られています。神様の最終の目的は世界の人々が神様と人との間の平和が実現するという救いに至ることであります。

結.恵みの御業が芽生える

 最後にもう一度、8節の御言葉を聴きましょう。天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。――先程、この中の「正義」という言葉について13節との関連で触れましたが、これはヘブル語で「ツェデク」という言葉なのですが、実は、その後に出て来る「恵みの御業」と訳されているヘブル語は「ツェダカー」で、同じ言葉から来ているのです。これはイザヤ書全体で61回も使われている大切な言葉で、神様の御心を表す言葉であって、それがここでは「救い」に結びつけられています。聖書で「救い」とは、ただ人間が困難や災いから逃れることではなくて、罪から救われること、罪の赦しを受けて、新しい命に生き返ることであります。そのことは、神様の「正義」が貫かれることであり、神様の「恵み」として与えられることであります。神様はそのような救いが全ての民において実を結ぶことを最終目的にしておられるということであります。
 最後に、「わたしは主、それを創造する」と言われています。救いが実を結ぶのは、イスラエルの民の働きによるのではなく、またキュロス王の力によるのでもありません。来たるべき主イエス・キリストによって実現することになるのであります。そのようにして、神様が救いを創造されるのであります。私たちの今年の目標である「救いが実を結ぶ」も、それを実現されるのは、創造主なる神様であります。そのことを心から信じつつ、今年の歩みを進めたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 今日も私たちを御許に呼び集めてくださって、御言葉の露を滴らせ、あなたの正義の御心を注ぎかけてくださって、あなたの民である私たちに救いが芽生え、実を結ぶように働きかけてくださいましたことを感謝いたします。
 私たちは、あなたの救いに相応しくないものであり、自らの中に救いを生み出すものを持ち合わせていませんが、万物を創造し給うあなたの力をもって、私たちの中に救いを創造し、救いの実を結ばせてくださるお方であることを信じる者です。
 どうか、頑なな私たちを悔い改めに導き、救いの恵みに与らせてください。どうかこの群れの中に、信仰を告白し洗礼を受ける者を新たに加えてください。どうか、喜びをもって礼拝する者を一人でも多く加えてください。礼拝から遠ざかっている者をも、救いの実を結ぶ者の群れから漏れることがないようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年1月25日  山本 清牧師 

 聖  書:いざや書 45:1-13
 説教題:「
救いを創造する神」         説教リストに戻る