序.心が鈍くなっていた弟子たち

 先週はマルコ福音書63044節までの箇所でした。そこには、五つのパンと二匹の魚で五千人以上もの人たちが満腹したという主イエスの奇跡の業が記されていたのですが、そこで福音書の記者が伝えようとしていることは、その奇跡の業に対する驚きや、主イエスの不思議な力のことであるよりも、飼い主のいない羊のような群衆に対する主イエスの深い憐みと、その主の御心を理解せずに責任を回避しようとした不信仰な弟子たちであっても、主イエスのお言葉に従えば、大きな働きを出来る、ということでありました。
 今日の45節以下の箇所は、冒頭に、それからすぐ、とあるように、五千人以上の人々が満腹した出来事の直後のことが書かれています。ここでも、逆風に漕ぎ悩んでいた弟子たちのところに主イエスが現れて、湖の上を歩いたとか、舟に乗り込まれると風が静まったという不思議な出来事に目を奪われがちです。しかし、福音書の記者がここで伝えようとしていることは、52節にパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたと書かれているような不信仰な弟子たちの姿と、それとは対照的に、向こう岸の人々の癒しのために、祈りつつ進んで行かれる憐れみ深い主イエスのお姿であります。弟子たちにとって一番大切なことは、主イエスを正しく理解し、主イエスが何をしようとされているのか、主イエスによってもたらされる救いがどのようなものなのかをよく知って、主イエスを信頼して従って行くことであります。ところが弟子たちは主イエスをよく理解しておりませんでした。福音書記者は、かつてのそうした自分たちの情けない不信仰な姿を隠すことなく記しつつ、そのような自分たちや、また救いを求めている「飼い主のいない羊のような」人々に対して、主イエスがどれほど憐れみ深かったかを伝えようとしているのであります。
 そうわけで、この箇所を私たちが読みますときに、ここで描かれている弟子たちの心が鈍くなっていた姿を、今の私たちの姿に重ね合わせて読むときに、主イエスが与えようとされている本当の救いの恵みに与ることができるのではないかと思います。
  本年の米子伝道所の目標は「御言葉が実を結ぶ」ということで、それは、礼拝出席者数が増えるとか、求道者が受洗に導かれるといった具体的な成果として実を結ぶことを願っているのでありますが、そのために大切なことは、一人一人が御言葉によって、自分の心が鈍くなっていることに気づかされると共に、主イエスが何をなさろうとしておられるのか、その憐み深い御心に触れることではないでしょうか。今日の箇所からも、そうした恵みの御言葉を聴き取りたいと思います。

1.強いて舟に乗せ

 さて、45節にはこう書かれています。それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
 主イエスはなぜ弟子たちを「強いて舟に乗せ」られたのでしょう。ガリラヤ湖の気象をよく知っている弟子たちは、天候が悪くなることを予感して舟を出すことを渋ったけれども、主は敢えて舟を出すように命じられたということでしょうか。或いは、パンの奇跡を経験した人たちが主イエスに対する期待が膨らませて、主イエスを王に仕立てようとする動きが高まったので、弟子たちがそんな動きに巻き込まれないためにそういう人たちと弟子たちを切り離すためだったのでしょうか。いずれにしろ、主イエスの思いと弟子たちの思いや期待とは違っていたのでしょう。だから主イエスは弟子たちを「強いて舟に乗せ」られたのであります。主の弟子になるということは、自分が望んでいることが達成出来るために主に助けていただくということではなくて、主イエスの思いや御計画を強いられて生きるということであります。主の御命令に仕えるということであります。そこには、この後、弟子たちが経験するように、逆風が待ち受けているかもしれません。苦しい生活に耐えなければならないかもしれません。しかし、主イエスに従うことによる本当に遣り甲斐のある道が開けるし、本当の喜びがあり、平安があり、希望があるのであります。主に強いられることこそ、本当の意味での自由への解放なのであります。
 群衆を解散させられた主イエスは、46節を見ると、群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた、と書かれています。主イエスは時折このように山に登って一人で祈られたことが聖書に記されています。主イエスの思いを弟子や群衆が理解しない中で、神様の御心を確かめるためであったのでしょう。弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、群衆も解散させられたのですが、主イエスは彼らを見放されたわけではなくて、むしろ彼らのことを思い、彼らのために自分は何をすべきかを神様に確かめられたのでしょう。このような主イエスがおられるので、弟子たちも、群衆も、そして私たちも守られているのであります。

2.逆風のために漕ぎ悩んでいるのを見て

 47節に進みます。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。

 ここで疑問が湧いて来ます。主イエスが強いて舟に乗せ、向こう岸に行かせたのに、なぜ逆風に悩まされなければならないのでしょうか。
 
私たちの人生の中でも、色々な形で逆風に遭遇することがあります。キリスト者であれば逆風に遭わないかというと、そうとは限りません。むしろ、キリスト者であるが故に激しい逆風を受けなければならないことがあるかもしれません。教会自体がこの世の中にあって逆風を受けるということがあります。現代のわが国の状況はキリスト教会にとって決して順風の状態ではなく、むしろ逆風が吹いている状況であります。激しい迫害などがあるわけではありませんが、むしろ教会に対する無関心とか、何も期待を抱かないという逆風があります。神様はなぜこのような逆風の状態に置かれるのだろうか、と疑問に思ってしまいます。逆風は私たちの過ちに対する罰のようなものなのでしょうか。それとも試練を与えて鍛えようとなさっているのでしょうか。――それは私たちには分からないことであります。

ここで見落としてならないことは、「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」と書かれていることです。ここは正確に訳すと、「弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを御覧になりつつ」となります。つまり、主イエスは祈っておられる間、弟子たちのことを忘れておられたのではなく、むしろ弟子たちのことをずっと覚え続けて見守っておられて、決して忘れてしまったり、目を離しておられたわけではない、ということです。そして、弟子たちのためにこそ祈っておられたのではないでしょうか。同様に主イエスは今も、私たちが逆風に漕ぎ悩んでいるのも見ておられるということであります。たとい私たちがどんなに神様から遠く引き離され、捨てられたかのように思える状態の中に置かれることがあっても、主イエスは決して私たちから目を話しておられるのではなくて、私たちを見守っていてくださる、そして、私たちのために神様に執り成していてくださる、ということであります。

 しかし、そのあとで「そばを通り過ぎようとされた」という表現があります。これはどういうことを表わしているのでしょうか。この「通り過ぎる」という表現は、旧約聖書では神様が現れられる時に用いられる言い方で、例えば、列王記上1911節では、ホレブの山に逃れた預言者エリヤのそばを「主が通り過ぎて行かれた」とあります。人間は神様の前に正面を向いて立つことが出来ない存在であります。そのような人間に、神様が生きて働いておられることをお示しになる時になさったことが、「そばを通り過ぎる」ということなのであります。ですからこれは、神様が現臨しておられる、顕現されたということを意味しているのであって、決して主イエスが弟子たちを見過ごしにされたという意味ではありません。なおこの時は、もともと向こう岸へ渡るために出発したわけですから、逆風があっても、主イエスが先頭に立って、なおも先へ進んで行かれたという意味合いも含まれていたとみることが出来ます。目的地があるわけですから、逆風が収まって弟子たちがくつろぐのが最終目的ではなくて、主イエスと共に更に先へ進むように促されたということでしょう。

3.安心しなさい

しかし、この時の弟子たちは、すぐにはイエス様が来られたとは気づかなかったようであります。49節を見ますと弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ、と書かれています。「幽霊」と訳されている言葉は、「妖怪」とか「亡霊」を意味して、夜の間や夢の中で現れて人間に不幸をもたらすものだとされていました。本当には存在しないもの、実在しないものです。弟子たちが主イエスを幽霊とか亡霊としか見なかったということは、実在しないと思ったということです。そこに、弟子たちの信仰の大きな問題がありました。幽霊や亡霊であれば、それは現実ではないということです。もし、この出来事や後の復活の出来事を幽霊や亡霊だったと理解するならば、心の中の願望が幻想となって現れたに過ぎないという合理的な説明になって、分かりやすいかもしれませんが、そこには、何の救いもありません。しかし、この時の弟子たちは幽霊かと思って怯えて、大声で叫んだのであります。
 このような弟子たちに対して、主イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われと書かれています。この中で「わたしだ」という言葉は、英語で言うと、I am.で、ギリシャ語では、エゴー・エイミと言います。「私がここにいる」という意味です。幽霊や亡霊は「わたしだ」とは言いません。そこに生きた人格がある、ということです。旧約聖書で、モーセが神様の名前を尋ねたときに、神様は「わたしはあるというものだ」と答えられました(出314)。それには<私が神であって、他に神はない>という意味が込められています。また、申命記3239節では、「しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである」と言っておられます。神様自身が自己確認されるときの言い方です。そういう神様の言い方を用いて、主イエスが今、<お前たちと一緒にいるのだ、だから安心してよいのだ>と言っておられるのであります。
 「安心しなさい」という言葉は「勇気を出しなさい」とも訳されます。逆風の中にあっても、嵐の只中にあっても、「神の子である私がここにいて、あなたたちを守るのだから、安心しなさい」と言っておられるのであります。「安心」というのは、ただ心が安らぐという意味ではなくて、勇気が湧いてくるのです。立止まって安心するだけではなくて、更に先に進んで行く勇気さえ湧いて来るのであります。
 「恐れることはない」という言葉も、「今、恐れるな」というだけではなくて、恐れることが続くのを禁止する意味が含まれていて、「恐れることをやめなさい、もはやこれ以上恐れることはない」と言っておられるのです。
 これらの言葉は、聖書が書かれた時代に、迫害の中にあった初代教会の人々にとって、大きな安心と勇気を与えるものとなったに違いありません。だからこそ、このように書き残しているわけです。私たちもまた、この主イエスの言葉を自分に語りかけられた言葉として受け取ることによって、今も生きて私たちと共にいてくださる主イエス・キリストとの出会いに導かれるのであります。

4.パンの出来事を理解せず

ところが、5152節を見ると、このように書かれています。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。 主イエスが舟に乗り込まれて、風は静まりました。4章で突風が起こった時には、主イエスが風と湖を叱って、静められました。しかし、この時は逆風を静められる言葉を語っておられません。主イエスの言葉によって奇跡的に静まったのではなくて、止むべきときに止んだのかもしれませんし、主イエスが舟に乗り込まれただけで、逆風も静まったということかもしれません。ところが、そのことを弟子たちは心の中で非常に驚いたというのです。そして、その理由が「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と書いているのです。「パンの出来事」というのは、五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人が満腹した出来事ということですが、何度も申しますように、それは単に主イエスが不思議な出来事を起こされたということではなくて、そこに「飼い主のいない羊のような」人々を深く憐れまれ、その人々のために御自分の体であるパンをも差出そうとしておられるという意味が込められているのですが、そのことを、弟子たちは、心が鈍いために、理解出来ていなかったということであります。
 同じ出来事を記したヨハネ福音書では、今日の箇所の出来事を書いた後、人々に命のパンのことを話されたことが書かれています。その中で主イエスは、こう言っておられます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(ヨハネ627)、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ635)つまり、主イエス御自身が命のパンであるということを、この時の弟子たちは「心が鈍くなっていた」ために、理解出来ていなかったということであります。マルコ福音書ではこの後、8章に至って主イエスがご自分の十字架の死と復活のことについて話し始められるので、弟子たちが、この時に十字架と復活のことが分からないのは無理からぬことであるかもしれません。しかし、人々のために、そして弟子たちのためにも、御自分の体をパンとして与えようとまで考えておられる御心に触れていなかったのは、後から考えると、やはり心が鈍くなっていたと思い返しているのであります。
 私たちも、様々の逆風に遭遇する中で、心が鈍いために、主イエスの御心を理解していないかもしれません。殊に、今は天に昇られた主イエスのお姿を見ることができません。そうすると、私たちは自分たちだけで逆風に立ち向かっているように思ってしまいます。しかし、主イエスは山ではなく今や天において、私たちのために祈っておられます。そして、私たちが漕ぎ悩んでいる様子も全部見ておられるのであります。そして、必要になれば、私たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださいます。そして、私たちを不信仰から救い出してくださるのであります。

結.触れた者は皆いやされた

 53節以下には、主イエスと弟子たちの一行が湖を渡ってゲネサレトという土地に着いた時のことが記されています。そこでは、町や村を巡り歩きながら、癒しを求めて次々とやって来る人々に対応された様子が書かれています。彼らも、主イエスの深い御心がよく分かっているわけではありません。ただ何とか癒していただきたいと、病人を連れて来て、せめて主イエスの服のすそにでも触れさせてほしいと願うのであります。主イエスはそういう人たちを批難されることなく、避けられることもなく、むしろ深く憐れまれました。そして、触れた者は皆いやされたのであります。
 この御心は、心が鈍く、パンの出来事を理解しない弟子たちに対する御心でもありますし、同じように心の鈍い私たちに対する御心でもあります。主イエスは私たちの様子をいつも見ていて、祈っていてくださり,逆風に漕ぎ悩んでいる私たちのところへも来てくださるお方であります。それだけではありません。私たちのために御自身の命さえ注ぎ込もうとしていてくださるお方であることを覚えたいと思います。そして、癒しを求めている多くの人たちのために、主イエスと共に働く者でありたいと思います。私たちだけでは何も出来ません。しかし、主が先頭に立って、働いていてくださいます。そうであれば、必ず、主の御心は成就いたします。御言葉は目に見える形でも実を結ぶ筈であります。
 祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストの父なる神様!
 心が鈍く、パンの出来事を理解しない私たちをもお見捨てになることなく、今日も聖書に記された御言葉を通して、主の御心に触れることが出来ましたことを感謝いたします。
 「御言葉が実を結ぶ」との年間目標を掲げて歩み始めましたが、どうか、御言葉を聴き続けることによって、主の御心を少しでも深く覚える者とならせてください。そしてどうか、主の御心に沿って、飼い主のいない羊たちのために、主と共に働く者とならせてください。そしてどうか、私たち自身と多くの方々が、あなたの救いに与り、真の命の実を結ぶことが出来るようにさせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年1月18日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 6:45-56
 説教題:「
逆風の中を」         説教リストに戻る