序.羊をどう養うか

 米子伝道所の今年の目標は「御言葉が実を結ぶ」で、主題聖句はヨハネ福音書155節の「わたしはぶどうの木」の箇所で、新年礼拝ではそこから御言葉を聴きました。今日は昨年4月から連続講解説教をしてきたマルコ福音書の630節以下の「五千人に食べ物を与える」という箇所であります。ここは、小見出し通り、「五千人に食べ物を与える」という、主イエスのなさった奇跡の物語が記されている箇所であります。しかし、ここから私たちが何を聴き取るかという時に、<イエスさまはこんな不思議な業を行う超能力を持ったお方である>という単純な受け取り方でよいのでしょうか。確かにここには、五つのパンと二匹の魚で男の人だけで五千人もの人が満腹したという、信じられないような奇跡が語られています。その出来事に驚いたり、疑問を感じて、実際は皆が弁当を持って来ていたのではないかなどと解釈してみたりし始めるのが、聖書が意図している読み方でしょうか。もう一方で、ここに記されていることは実際に肉体的に満腹したということではなくて、霊的に満腹したことをこのような表現で記しているのだ、という解釈があります。主イエスがパンを裂いて、弟子たちに配らせると満腹したというのは、私たちが行なっている聖餐式を思わせる行為であります。主イエスが聖餐式を制定されたのは最後の晩餐の時ですから、この時にはパンにそんな意味があるとは誰も思わなかったのですが、後から考えると、主イエスがパンを与えられたということには、主イエスがご自分の体をお与えになるという、霊的な意味が込められていて、そのような霊的なパンを受けたので皆が満腹したのだ、という解釈であります。この解釈は、大切なことを示唆しているのですが、人々が実際に肉体的に満腹したという事実を曖昧にしてしまう危険があります。
 では、聖書はこの箇所で何を伝えたかったのでしょうか。その手掛かりは、奇跡の出来事そのものより前の部分(37節まで)にあります。最初の30節から33節までの部分には、伝道に派遣された弟子たちが帰って来て主イエスに報告したことが書かれています。つまり、今日の箇所は、弟子たちを教育訓練中の出来事が書かれているということです。五千人に食べ物を与えた奇跡も、弟子たちを教育する目的があったということです。では、主イエスは弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。そのことを理解する鍵が3つあります。第一の鍵は31節で、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われたことです。第二の鍵は34節で、イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた、とあります。この中の「深く憐れみ」という言葉が、主イエスが教えようとされることのキーワードです。第三の鍵は、そのこととも関係がありますが、37節で「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたことであります。この言葉にも、弟子たちが聞くべき大事な教えが込められています。
 ところで、私たちも主イエスの弟子たちであります。そして私たちは今年、「御言葉が実を結ぶ」ことを目標に歩み出しました。そのような私たちが聞くべき大事な御言葉が、今日の箇所にも含まれていると思います。それを是非、弟子たちと一緒に聴き取りたいと思います。

1.イエスに報告し、休む

 まず、第一の鍵が含まれる3031節から見て行きたいと思います。さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。
 ここでは弟子たちのことを「使徒」と書いています。マルコ福音書では初めての言い方です。こういう言い方をしたのは、彼らが主イエスによって伝道に派遣されたからであります。そのことは66節以下に述べられていました。そして、1213節を見ると、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」と書かれています。
 彼らは悔い改めの福音を伝えるとともに、癒しの業をも行なって、それなりの成果を収めて帰って来て、主イエスに報告したのであります。彼らは大きな喜びをもって、多少得意げになって報告したと考えられます。それに対して主イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われたのです。これにはどういう思いが込められているのでしょうか。<よくやった、疲れたであろうから、しばらく休養をとりなさい>という主イエスの思い遣りがこもった言葉と言って間違いないでしょう。しかし、単に肉体的な疲れを癒しなさいというだけの言葉ではないでしょう。「人里離れた所へ行って」と言われていますが、この言葉は135節にも出ていて、主イエスはしばしば、「人里離れた所へ行って」祈られたのであります。ここでも弟子たちに対して、<静かな所で、神様に向き合って祈りなさい>という勧めが込められているのであります。<一定の成果を収めたことで自己満足に陥ってはいけない、神様の前で自分たちがしてきたことを振り返りなさい>ということではないでしょうか。もう少し厳しく言えば、<あなたがたは、成果を収めたことで得意になって、神様のことを忘れてしまっていて、霊的に貧しくなっているのではないか>ということであります。肉体的な休養が必要なだけでなくて、霊的な力の源への立ち帰りが必要だということです。
 私たちの宣教の働きも同様であります。少しばかり成果が上がって、御言葉の実が結んだように見えると、得意になってしまって、反って霊的な貧困に陥ってしまう、ということがあります。私たちは必ず主イエスのもとに立ち帰って報告し、神様に祈ることをしなければ、たちまちサタンに付け込まれるのであります。この礼拝というのは、そのようにならないために、立ち帰るべき所であります。私たちは礼拝において御言葉を受けてこの世に遣わされて、そこで神様の霊の力の助けを受けて証しをしますが、一週間後にもう一度立ち帰って、恵みを報告し、霊的な補給をいただく、――それが礼拝の場であります。礼拝から出発し礼拝に帰って来るということがなければ、どれほど活発な伝道活動をし、成果を上げたように見えても、霊的な実を結ぶことにはつながらない、ということです。

2.飼い主のいない羊を深く憐れみ

 次に、第二の鍵が含まれる3234節を読みましょう。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 主イエスのお言葉に従って、一同は人里離れた所へ行ったのですが、そこには既に多くの人々が先に着いていたのです。このことは何を表わしているでしょうか。弟子たちが主イエスの教えを広め、癒しの業も行ったので、主イエスの集団に対して期待がますます高まったことの表れだと見ることが出来ます。しかし、同時に、彼らがまだ満たされないものを持っていたことの表われと見ることも出来ます。それは、一定期間の伝道だけではすべての人の期待に応えることが出来なかったということでもありでしょうし、まだまだ霊的な満足を得るところまでは至っていなかったことの表われと見ることが出来ます。

 人々のこのような様子を御覧になった主イエスは、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。先程、旧約聖書の朗読で、エゼキエル書34章の一部の御言葉を聞きました。そこにはイスラエルの牧者たちが群れをしっかりと養わず、むしろ自分自身を養っているという状況が嘆かれていて、主なる神様は、「わたし自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」(11)と言っておられました。更にエゼキエル書の少し先では(先程は読んでいただきませんでしたが)、「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである(23)と言われていて、これは主イエスのことを指し示していると、主イエス自身が受け取っておられたのではないでしょうか。つまり、弟子たちだけの働きでは、牧者としての働きは不十分で、未だ「飼い主のいない羊」のような状態の中にある人々を「深く憐れみ」られて、御自身が羊のために命をも惜しまない羊飼いとして働かねばならないと思われたのではないでしょうか。そこで、主イエス御自身が「いろいろと教え始められた(34)のでありましょう。ここの「深く憐れみ」という言葉は、これまでにも何度も説明しましたように、「内臓をえぐる」という意味の言葉です。主イエスは御自分の内臓をえぐるような思いで人々を御覧になったのであります。そこには、この人たちのために命さえ惜しまないという思いが込められているのであります。このことが第二の鍵です。

3.あなたがたが食べ物を与えなさい

 次に、第三の鍵が含まれる35節以下を見て参ります。そこにはまず、弟子たちによる提案が記されています。彼らはこう提案します。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」――人々は時の経つのを忘れて主イエスの話に聞き入っていました。その中で、弟子たちだけは覚めていました。人々が霊的な救いを求めて主イエスの話しに聞き入っていましたが、弟子たちは肉の糧のことが気になっていました。弟子たちは話を切り上げて解散させるように提案しております。人里離れた所でありましたから、近くに食べ物を売っている店もありませんので、簡単に食事をすることはできません。非常に大勢の人たちですから、まとめて調達することも出来ないので、解散して自分たちで町へ行って買うのが合理的であります。弟子たちの提案はもっともであります。弟子たちは自分たちのするべきことは神の国の福音を伝えることであって、食事の世話をするのは、自分たちの責任の範囲外だと考えて、責任を負わされることは避けたかったのでしょう。伝道旅行から帰ったばかりで、疲れていたということもあったでしょう。
 ところが、主イエスはこれに対して、37節にあるように、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになったのであります。主イエスも先ほどは弟子たちに「しばらく休むがよい」と提案されたのに、今は弟子たちが食物の世話をするように命じられるのは、どういうことでしょうか。
 そこで、弟子たちはすぐに反発いたします。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言いました。1デナリというのは労働者の一日分の賃金と言われますから、それを1万円とすると200万円になります。そんな多額の現金を自分たちは持ち合わせていなかったということかもしれませんし、たとえお金があったとしても、こんな辺鄙な場所では、とてもそれだけの買い物をすることは出来ない、と主イエスのおっしゃることが現実的でないことを指摘したつもりなのでしょう。それに、弟子たちがするべき仕事は、福音を伝えること、霊的な糧を与えることであって、肉の糧を与えることではない、という思いもあったかもしれません。
 しかし、主イエスの思いは違います。主イエスは飼い主のいない羊のような人々を深く憐れんでおられます。人々は主イエスによって自分たちの切実な問題を解決してもらいたい、満たされたいと思って、時の経つのも忘れて、話に聞き入っていたのであります。主イエスはそんな人々を何とか救いたい、彼らの心の飢えを満たしたいと思っておられます。それなのに、お前たちはそんな人々をここで帰してしまうのか、お前たちはそれで良いと思っているのか、もし食事が必要なら、それを何とかして自分たちで用意しようと思うのが本当ではないのか、と問いかけておられるのであります。
 これは重要な問いかけであります。弟子たちの考えが全く見当はずれだというわけではありません。確かに、弟子たちの使命は福音を宣教することにあります。教会の使命は、霊的な救い、即ち、罪の赦しを宣べ伝えることであります。また、常識で考えて、大量のパンを調達することも不可能であります。しかし、弟子たちの姿勢は一見正当なようでありながら、様々な問題の解決を求めて押し寄せて来ている人々の側に立って考えないで、自分たちの責任を回避しているに過ぎないことを、主イエスは指摘されたのではないでしょうか。
 私たちの身の回りにも、救いを必要とする人々が大勢取り巻いています。重荷を背負いながら、それを何とか軽くしてほしいと願っている人たちが、教会でなら何らかの癒しや解決の道が開かれるのではないか、重荷を軽くしてもらえるのではないかと思って、やって来られるのであります。
 それなのに、<自分達にはそんな力はない、教会はこの世的な助けを与えるところではない>などと言って、そういう人々を追い返して良いのか、そんなことで「御言葉が実を結ぶ」と思っているのか、と問いかけられているのではないでしょうか。主イエスは言われます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」、「あなたがた自身が親身になって、求めている人たちに必要なものを差し出しなさい」と言っておられるのではないでしょうか。

4.パンを裂いて、配らせ

責任回避をしようとする弟子たちに、主イエスはこう言われます。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは自分たちの身の周りを確かめて来て、「五つあります。それに魚が二匹です」と報告しました。大勢の人たちの空腹を満たすには、全く不足しています。
 しかし、主イエスは39節にあるように、弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになります。飼い主がいない羊のように無秩序に群がっていた人々が、整然と整えられます。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろします。すると主イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配されました。
 
この主イエスの行為は、普段、弟子たちと食事をとられるときの仕草でありました。そして、この時と同じように、最後の晩餐の時に、パンと杯を弟子たちに分かちながら、御自分の体と血とを人々のために与えると言われました。そして、復活の時にも、同じように弟子たちに、用意された魚を与えられたのであります。後にそのような体験を積み重ねることになった弟子たちが、この五千人を養われた出来事を思い出しながら、主が備えて下さる神の国における食事のために、主がご自身の身を削って用意されるとともに、自分たちの小さな持ち物が用いられることを、改めて実感することになるのであります。

結.主の憐れみによる満腹

最後の晩餐や復活後の食事は、まだ先のことになりますが、この時もこうして、すべての人が食べて満腹しました。弟子たちの心配が無用であったことが明らかになります。おまけに、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになったというのです。十二という数字は、イスラエルの十二部族を象徴していて、すべての選ばれた人々に恵みが行きわたったことを示していると言われます。主イエスによって与えられる十字架の恵み、罪の赦しの恵みは、私たちの心の飢えを満たすのに十分なだけのものが備えられているということであります。
 今年の米子伝道所の目標は「御言葉が実を結ぶ」であります。伝道所に連なる一人一人がこの目標のために用いられようとしています。今日の箇所から弟子たちと共に聴いた第一は、「休むがよい」という御言葉でした。私たちが実を結ぶための出発点は礼拝でありますが、また絶えず礼拝に立ち帰って、魂の奥底からの休みを与えられることを欠かせません。私たちは教会で、この世で生きて行くために役に立つこと、或いは世の人々のために貢献できることを学んで、あとは自分の力をフルに用いて、人生を全うする、というのではありません。私たちが成し得ることはほんのわずかのことであります。時には間違ったことさえしてしまいます。ですから、絶えず主イエスの所に立ち帰らなくてはなりません。礼拝ごとに霊の糧を補給してもらわなくては、御心にかなった実を結ぶことはできないのであります。
 
今日学んだ第二のことは、主イエスが大勢の群衆を見て、弟子たちとは違って、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」給うたということであります。私たちは自分のことで精一杯になりがちですし、自分でどれだけのことが出来るかを計算してしまいます。そして、神様の救いを必要としている羊たちに心を向けることを怠ってしまいます。しかし、主イエスは深い憐みをもって、御自分の命をも惜しまず、羊たちを愛し抜かれるお方である、ということであります。
 
今日弟子たちと共に聴いた第三は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という御言葉でした。私たちの持っているものは少ないのです。とても人々の飢えや渇きを満たすだけのものを持ち合わせていません。しかし、私たちが持っているものを差し出せば、主イエスがそれを用いて多くの人々の霊肉の空腹を満たしてくださり、救いの約束の御言葉は必ず実を結ぶということであります。
 これらのことを信じて、今年の歩みを進めたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

憐れみ深いイエス・キリストの父なる神様!
 私たちもあなたの目から見れば、飼い主のいない羊のような者でありましたが、憐れみの故に、こうして霊肉の養いを受けて、命をつなぐことが出来ておりますことを感謝いたします。
 この大きな恵みにお応えすべく、なお多くのさ迷っている方々を御許にお導きする役目を与えられておりますが、力不足、信仰不足を覚えざるを得ません。どうか、そんな私たちをも用いて、この地におけるあなたの救いの御業に与らせてください。そしてどうか、あなたの御言葉が一人でも多くの方々の中で実を結ぶことが出来ますように、計らってください。そのためにどうか、私たち自身が、主の日ごとに御言葉によって霊の糧を頂き続けることができますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年1月11日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 6:30-44
 説教題:「
憐れみのパン」         説教リストに戻る