「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
                            (ヨハネによる福音書155 

 米子伝道所の今年の目標は「御言葉が実を結ぶ」で、主題聖句は標記の箇所である。では、「実を結ぶ」とはどういうことなのか。
 主イエスはまず、「わたしはぶどうの木、わたしの父は農夫である」1)と言っておられる。旧約聖書ではイスラエルの民が「ぶどうの木」とされ、父なる神がぶどう園の農夫であるとされた。しかし、ぶどうの木が神に喜んでいただけるような実を結ばなかったので、神はイスラエルの民に代えて、御子イエスをぶどうの木とし、イエスを信じる者たちが枝となって、新しい民、即ち、教会を形成しようとされたのである。
 だが主は、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」2)と言われる。私たちは、周囲に躓きを与えることしかできずに実を結ばない枝ではないかと厳しく問われる。
 しかし、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」3)とも言われる。父なる神は実を結ばない枝を直ちに取り除かれるのではなくて、御言葉をもって、私たちの罪を清め、実を結ぶ枝に変えてくださるのである。
 そこで大切になることが、「わたしにつながっていなさい。…あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」4)ということである。では、「つながっている」とはどういうことか。主は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり(つながっている)、わたしもその人の内にいる」(ヨハネ656)と言われた。主イエスの十字架の贖いによって、ぶどうの木から枝へと養分が流れるという生きた関係で結ばれたということである。
 その生きた関係について、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」8)と言われた。一昨年の目標は「喜びの礼拝」であったが、それは私たちが喜ぶというよりも、神が喜び給う礼拝となってこそ実を結ぶのである。
 更に主は、「わたしの愛にとどまりなさい」9)と、愛の掟について語られる。主は、私たちに十字架の愛の養分を送ってくださる。だから、私たちも互いに愛し合うことが出来るようにされる。そこに愛の交わりが実を結ぶことになるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2015年1月4日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書15:1-10 
 説教題:「
御言葉が実を結ぶ」 説教リストに戻る