序. 喜びの礼拝を求めて

 明けましておめでとうございます。
 新しい年の米子伝道所の年間目標は、委員会で「御言葉が実を結ぶ」といたしました。昨年の目標は「御言葉に生かされる」でありましたが、御言葉に生かされることによって具体的な実を結ぶところにまで到達したいという願いを込めたのが今年の目標であります。「具体的な実を結ぶ」とは、求道中の方々が洗礼に導かれるとか、礼拝出席者の数が増えるというようなことであります。
 ところで、昨年、「御言葉に生かされる」という目標を定めたのには、その前の年との関連がありました。一昨年の目標は「喜びの礼拝」でありました。教会が前進するためには礼拝が喜びに満ちたものになるところから始まらなければならないということで、そのような目標を定めたのでありました。秋の修養会のテーマも「喜びの礼拝」でしたが、多田先生の講演で教えられたことは、<私たちは礼拝において喜びを与えられることを願っているのだけれども、礼拝とは、ローマの信徒への手紙121節にあるように、自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げて、神様に喜んでいただくことである>ということでした。そして、そのような献身の礼拝へと導かれるためには、聖書の御言葉によって命を養われなければならない、ということを多田先生は強調されました。そのようなわけで、昨年の目標を「御言葉に生かされる」としたのでした。
 では、「御言葉に生かされる」という目標は達成されたのでしょうか。神様に喜んでいただける礼拝が出来るようになり、私たちの日々の営みが生き生きとしたものに変わったと言えるのでしょうか。それぞれの方によって違うでしょうが、私自身は、御言葉に込められた喜びを何とか聴き出して伝えようとしましたが、神様に喜んでいただけるような礼拝としてはまだまだ、という感を拭えません。礼拝の出席者数とか受洗者が与えられたかどうかといった、具体的な目に見える成果としても特筆できるようなことはなかったように思います。
 そういうわけで、今年の目標は、御言葉に生かされるということが、具体的な成果として実を結ぶことを願って、「御言葉が実を結ぶ」としようということになりました。
 しかしながら、そのような具体的な成果として実を結ぶためには、内実が伴わなければなりません。「礼拝厳守」を訴えるとか、求道者に受洗を促すといった表面的なことだけでは、実を結ばないでしょう。礼拝が神様に喜ばれるものになるとか、御言葉が生かされるといった、一昨年、昨年の目標に向けての努力が引き続き必要でしょうし、「御言葉が実を結ぶ」ということについて、聖書はどのように教えているのかをよく学ぶと共に、それを私たちの教会生活の中でしっかりと生かして行くことが必要でしょう。そこで今日は、主題聖句として掲げられましたヨハネ福音書15章の「イエスはまことのぶどうの木」という小見出しが付けられた箇所から御言葉を聴きたいと思います。この箇所は皆様が何度もお聞ききになった箇所でしょうし、私もここで何度かお話しておりますから、繰り返しになる部分も出て来ることになりますが、今日は、今年の目標との関係を意識しながら、改めてこの箇所から、「御言葉が実を結ぶ」とはどういうことなのかを問いつつ、今日の箇所の御言葉に耳を傾けたいと思います。

1.まことのぶどうの木

 この箇所は主イエスが最後の晩餐の中で語られた告別説教の一部であります。主イエスはこのあと、十字架と復活の御業へと向かわれます。そして復活の後、弟子たちを中心にして教会が形成されることを願って、このような説教を語っておられるのであります。
 1節で、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫であると言っておられます。「ぶどうの木」とか「ぶどう園」というのは、旧約聖書の中ではイスラエルの民のことを表しています。ユダヤ人は自分たちが神様から特別な選びを受けて、豊かな実を結ぶ「ぶどうの木」とされている、と思ってきました。それが彼らの誇りであり望みでありました。イスラエルの歴史を振り返るならば、彼らが神様から特別な恵みを受けて来たことは事実ですが、彼らはそれを裏切るようなことばかりをして来ました。とても神様に喜んでいただけるような豊かな実を結んで来たとは言えないのであります。
 神様はそのようなイスラエルの民の中に、独り子イエス・キリストを遣わされました。それは、実を結ばないイスラエルの民に代えて、イエス・キリストを信じる人たちによって、新しいイスラエルを建て直すためでありました。主イエスがぶどうの木になってくださり、主イエスを信じる者たちが枝となって、新しいイスラエルの民である教会が形成されるということであります。主イエスはここで、ただ「わたしはぶどうの木である」とおっしゃったのではなく、「わたしはまことのぶどうの木である」とおっしゃっています。実を結ばない「ぶどうの木」であるイスラエルの民に代えて、豊かな実を結ぶ「まことのぶどうの木」として、イエス・キリストのからだである教会をこの世に植えようとしておられるということであります。
 主イエスはここで、「わたしの父は農夫である」と言っておられることもまた重要です。父なる神様がぶどう園の園主でわり、神様が土地を耕し、ぶどうの木を植え、水をやって育ててくださる農夫なのであります。つまり、父なる神様がキリストの体である教会を建てて、それを養い育ててくださるということであります。

2.実を結ばない枝

 ところが2節では、こう言われています。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」――父なる神様は、ぶどうの木が育つように水を遣り、養分を与えてくださるだけでなくて、実を結ばない枝を取り除いて、実を結ぶ枝がますます豊かに実を結ぶように剪定されるのであります。私たちは主イエスの弟子となって、主イエスというぶどうの木につながっても、実を結ぶことが出来なければ、父なる神によって取り除かれてしまうのであります。大変厳しい言葉であります。事実、イスカリオテのユダは、主イエスの弟子とされていながら、裏切ったために、弟子の群れから取り除かれねばなりませんでした。私たち自身を振り返って、イスカリオテのユダのように主イエスを売るようなことはしていないにしても、周囲の人たちに対して躓きを与えるようなことばかりをしているのではないか、とても実を結んでいる枝とは言えない、むしろ、ぶどうの木の成長を妨げている枝のようにさえ思えてしまうのであります。そうであれば、豊かに実を結ぶ枝のために、邪魔になる枝として神様によって取り除かれなければならないのでしょうか。あるいは、求道中の方々であれば、自分はまだこの世の様々なことに心を奪われていて、主イエスだけにしっかりと付き従って行く決心が出来ていないし、聖書で言われていることについても様々な疑問を抱いている、神様を礼拝することにおいても熱心とは言えない、こんな者は教会というぶどうの木の枝になれるとは思えない、とお考えになるかもしれません。――このような私たちに対して、主イエスはここでどのように語っておられるのでしょうか。

3.御言葉によってつながる

 3節を見ると、こう言っておられます。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」。これはどういう意味でしょう。ここで「清くなっている」という言葉は、2節の「手入れをなさる」という言葉と同じ言葉から来ています。つまり、農夫である父なる神様の手入れは、実を結ばない枝を取り除かれる一方、主イエスの御言葉をもって、一層豊かな実を結ぶように手入れをなさるのであります。神様は実りが期待できない人間を教会の群れから取り除いて、有望な人間だけを生かされるというように考えては間違いのようです。誰でも、その内側には、良い実をもたらさないような要素があります。罪があります。神様は罪があるからといって、その人を直ちに取り除こうとはされません。むしろ、主イエスの御言葉を注ぐことによって、私たちの中にある実を結ばせない悪い部分、すなわち「罪」を赦されて、清くされるということです。少なくとも、今日こうして御言葉を聴かせていただいている者たちは、罪の赦しへと招かれているということです。「あなたがたは既に清くされている」と言われています。これから精進して清くならなければならないとか、これから清くしてあげよう、と言っておられるのではありません。既に主イエス・キリストにおいて罪が赦されて、実を結ぶことが出来る者とされているのです。ですから、ぶどうの木から取り除かれることはないのです。
 では、清くされた者は、自動的に豊かに実を結ぶことになるのでしょうか。4節でこう言われています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」――ここでは、主イエスにつながっていなければ実を結ぶことが出来ないと言われていて、主イエスとつながっていることの大切さが強調されています。では、「つながっている」と言われていることにはどのような意味があるのでしょうか。
 ぶどうの木である主イエスにつながることは、端的に言えば、洗礼を受けて教会員になることです。しかし、そういう表面的なことだけを意味しているのではないでしょう。
 ここで疑問になるのが、2節の言葉との関係です。2節では、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」とおっしゃいました。つながっていても実を結ばないケースがあるということですが、4節では、つながっているかいないかが、決定的であるように語られています。そのことは5節になると、もっとはっきりと語られています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶと断言されています。2節と4節や5節の言葉とでは矛盾しているようにも思えます。5節で言われていることは、どうも、形の上でつながってさえおればよいということではなさそうです。そこで、「つながっている」という言葉について、もう少しよく見る必要があります。まず7節をご覧ください。「あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と言われていて、御言葉によるつながりがあることによって、私たちの望むことを、主イエスがかなえてくださることに結びつくのであります。もう一つ、6章56節ではこんなことが言われています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」。この「内にいる」と訳されている言葉が、15章で「つながる」と訳されている言葉と同じなのです。6章の方は、正に聖餐式のパンと杯によって示される十字架の贖いのことが言われています。これらのことから分かることは、「つながる」という言葉は、単に細い糸のようなものでかろうじてつながっているような関係ではなくて、主イエスの十字架の犠牲と御言葉によって、しっかりと結ばれた関係を表す言葉だということであります。単に物理的につながっているとか、洗礼とか入会といった形式によってつながっていることでもなくて、ぶどうの木から枝へと養分が流れて、枝についているぶどうの実に供給されるように、命を支えるものが注がれる、そういう生きた命の関係が表されているのであります。上辺だけの形式的なつながりでは、実を結ぶことはなくて、2節で言われていたように、父なる神によって取り除かれてしまいます。しかし、主イエスの肉と血と御言葉によってつながれた関係は、決して切れることはないし、実を結ぶことが出来るということであります。

4.父の栄光と愛の掟 

 このような、主イエスと私たちの生きた関係について、8節以下で更に深く語っておられます。
 まず、8節ではこう言われています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」――ここで「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら」と言われているのは、ここまで語られてきたように、単に洗礼を受けて形式的に弟子となるというようなことではなくて、<主イエスの御言葉と十字架の贖いによって結ばれた関係があるならば>、ということです。そのような関係で結ばれた弟子となるなら、「それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」とおっしゃるのであります。つまり、私たちが、御言葉と十字架の贖いによって主イエスと結ばれたなることによって、神様が神として崇められるようになる、ということであります。これはとても大きいことであります。冒頭で、今年の目標のルーツには一昨年の「喜びの礼拝」ということがあるということを申しました。そして、その「喜びの礼拝」とは、私たちが喜ぶというよりも、神様が喜ばれることだということを多田先生から教えられたことを改めて思い出したのでありました。ここで、「わたしの父は栄光をお受けになる」と言われていることは、言い換えれば正に<神様が喜ばれる>ということではでしょうか。つまり、私たちが御言葉と十字架の贖いによって主イエス・キリストと結ばれるならば、そのことによって、神様が喜ばれるところの「喜びの礼拝」が実を結ぶ、ということであります。これは何とすばらしいことでしょうか。
 更に910節ではこう言われています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」――主イエスは父なる神の愛のうちにとどまるお方として、父なる神の命じられるままに生きられ、十字架の死に至るまで愛にとどまり続けられました。そのことを主イエスは、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗うことによって示されました。その時、こう教えられました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と。それは、主イエスの十字架の愛を模倣しなさい、ということであります。これが、主イエスが弟子たちに与えられた「新しい掟」と呼ばれるものであります。こんな風に言われても、私たちには大きすぎる掟で、とても担いきれないように思ってしまいます。しかし、主イエスは、ぶどうの木から離れたところで、自立してこの愛の掟を全うしなさいと言われているのではありません。あくまでも、ぶどうの木の枝としてつながっていて、身に余る愛の養分を受けながら、弟子たち同士も、すなわち、私たちも互いに愛し合うことが出来るようになる、ということであります。ここで、愛の養分とは、先ほどから聴いているように、主の御言葉と十字架の肉と血による贖いであります。具体的に言えば、礼拝で説教によって聴く御言葉と今日も後で行われる聖餐式を通して与えられる罪の赦しであります。これらによって、私たちはぶどうの木である主イエスと命の関係、愛の関係が結ばれているのであります。ですから、私たちのような者であっても、人を愛することが出来るし、赦し合うことも出来るし、そのことによって神様の栄光を表すことも出来て、神様が喜んでくださる礼拝が出来るのであります。

結.神の喜びと私たちの喜び

 今日は、今年の米子伝道所の目標として掲げた「御言葉が実を結ぶ」ということについて、主イエスが語られた「まことのぶどうの木」の御言葉を聴いて参りました。私たちは「実を結ぶ」ということを、目に見える具体的な成果に結びつけて考えがちでありますが、今日の御言葉で大事な点は、ぶどうの木である主イエスにつながっているということであり、それも形式的につながっていることよりも、そこに主イエスの御業によって現実となった愛の結びつきこそが、私たちに真の命をもたらすし、神様を心から崇める真の礼拝となって父なる神様の御栄光をあらわすことになる、ということであります。受洗者が与えられるとか、礼拝出席者数が増えるといった具体的な成果が上がることももちろん望ましいことではありますが、その内実に、私たち一人一人が主イエスと愛の結びつきを深められるということがなければ、そこには私たちの喜びも神様の喜びもありませんし、血の通った命の働きや、愛の交わりも産み出されません。では、主イエスとの愛の結びつきを深めるためにはどうすればよいのでしょうか。聖書をよく読み学ぶということも益があるでしょう。礼拝やその他の集会にせっせと出席することも大切です。しかし、そうした私たちの努力の結果が実を結ぶというよりも、既に主イエスが私たちのために行なってくださった愛の御業に気がつくこと、そして主イエスに自分を委ねるということ、そこから新しいぶどうの枝としての喜びと感謝に満ちた生き方・生活が始まるのであります。この年が、そのような主イエス・キリストとの生き生きとした愛の結びつきが深まる年となりますよう、祈りましょう。

祈  り

まことのぶどうの木であるイエス・キリストの父なる神様!
 私たちが気付く前から私たちを愛してくださり、私たちをぶどうの木の枝として養い育ててくださっていることを覚えて感謝いたします。そして新しい年の初めの今日の礼拝においても、御言葉をもって私たちをぶどうの木である主イエス・キリストにしっかりとつなげてくださいました。どうか、この御言葉が私たちの心と実際の生活の中で実を結ぶために、御言葉を絶やさず聴き続けることができるようにしてください。どうか、あなたの愛を私たち同士の間でも実を結ばせることができるようにしてください。人と人とのいがみ合いがあり、様々な困難や災いが人々の心を苦しめる中にあって、主のぶどうの木である教会が愛と希望の源であり続けることができますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2015年1月4日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 15:1-10
 説教題:「
御言葉が実を結ぶ」         説教リストに戻る