序. 偶像が満ちる中で

 イザヤ書の中で、第二イザヤと言われる40章以降は、イスラエルのバビロン捕囚時代の終わりに近い頃に書かれたのではないかと考えられています。イスラエルの人々が捕囚となっていたバビロンには、偶像が満ちていました。真の神様を信じていたイスラエルの民にとって、違和感のある環境の中で生活をしなければなりませんでした。しかし、そうした環境の中で長く暮らしていると、だんだんと偶像にも慣らされて、違和感も薄くなって、そうしたものに手を合わせるようなことになって来たのではないかと思われます。真の神様は目で見ることが出来ません。人は目に見えるものに確かさを求めます。目に見えない神様には不安を覚えてしまいます。人には偶像を求める本能のようなものがあるのかもしれません。
 日本で生活する私たちの周りにも色々な偶像があります。偶像に手を合わせることによって、心に拠り所が出来て安心したり、他の人との一体感が出来たりします。偶像が日本人の生活の中に染みついていて習慣化していますから、それを拝まないとか排除することは、家族や地域の連帯感や礼儀を損なうように思われて、キリスト者でも偶像を捨てきれないところがあります。
 また、偶像は、目に見える彫像のようなものだけではありません。私たちの心の中にも偶像を作り上げてしまいます。自分の考えや経験が偶像化するとか、自分の欲望や感情をコントロール出来ないで、それが偶像化することがあります。また、お金や地位や名誉といったものが偶像化することがあります。そして、自分の生き方や生活がそれによって支配されるばかりか、それを守ろうとするために争って、他人を傷つけたり、時には命を奪ったりすることにもなりかねません。
 これは、昔も今も、洋の東西に拘わらず変わらない人間の現実であり、そこに様々な混乱や争いの原因があります。そこに留まっている限り、空しさから抜け出すことは出来ませんし、救いがありません。

1.創造主なる神

 預言者イザヤも、おそらくそうした現実の中で、真の神様の御言葉を聴いて語っているのでありましょう。先月に学びました43章では、イスラエルの神は、創造主であり、贖い主であることがはっきりと述べられていました。今日の44章でも、先ほどは21節以下を朗読していただきましたが、初めの方の1節を見ますと、こう言われています。そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。また、6節を見ると、イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない、と言われています。つまり、あなたを造ったのは創造主なる神様であり、歴史の初めから終わりまで御支配なさっているのも創造主なる神様であって、イスラエルを贖うのは、即ちイスラエルの罪を赦して、捕囚からを救い出すのはこの創造主なる神以外にはない、ということであります。だから、2節にあるように、恐れるな、わたしの僕ヤコブよ、と言い、8節で、恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない、と言われるのであります。「証人」という言葉が出て来ますが、これは先月にも説明いたしましたが、法廷での弁論の形を借りて述べていまして、イスラエルの民が真の神の恵みを証しする証人として法廷に引き出されているのであります。
 私たちも様々な偶像に取り囲まれて生活していますが、それは人間が作り出した虚像であります。それらは、大変力強く見えて、頼り甲斐があるようにさえ見えるのですが、私たちをお造りになったのは、創造主なる神様であり、私たちを罪の縄目から救い出すのも、贖い主なる神様をおいて他にはないのであります。私たちはそのことを証しするために、信仰に召されたのであります。

2.偶像の本質

 9節から20節までは、「無力な偶像」という小見出しがつけられていますように、偶像礼拝の本質が何であるか、その愚かさが述べられています。9節には、偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない、とあり、10から11節では、無力な神を造り/役に立たない偶像を鋳る者はすべて/その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず/皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける、と述べています。ここでは、偶像そのものよりも、偶像を造る人間に焦点が当てられています。偶像自体には、何の実体もないわけです。結局、すべての偶像は人間が造り出したものに過ぎません。人間の力以上のものである筈がないのであります。12節から13節にかけては、偶像を造る職人たちの製作作業の様子が書かれていて、偶像とは鉄工や木工が人の形に似せて作ったものに過ぎず、偶像が人間以上のものである筈はないという現実を直視させています。そして14から17節では、嘲笑するかのように、偶像の素材の木は、薪として体を温めたり、調理に使った余りものに過ぎないではないか、そんなものを拝んでいる、と言い、18から20節では、燃やせば灰になるようなものを拝んでも、結局は魂を救うことは出来ないと述べて、最後に「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」とすら言わない、と自分が作ったものが偽りであることに気づかない人々を徹底的に批判するのであります。
 偶像を拝んでいる人に言わせれば、人間が鉄や木で作ったものであっても、入魂とか言って、それに精神を注ぎ込むことによって、霊的なものに生まれ変わると考えているのでしょう。確かに、優れた仏像などには高い精神性が表現されていて、芸術作品としては素晴らしいものがありますが、人間が作ったものに過ぎないわけで、神に代わるわけではありませんので、決して人を救うことは出来ないということに気づくべきであります。

3.贖い主に立ち帰れ

 そこで預言者イザヤは21節で、イスラエルへの呼びかけをいたします。冒頭の思い起こせ、というのは、何を思い起こせと言っているのでしょうか。すぐ前で述べて来た、「偶像の本質をよく考えて見よ」ということでしょうか、あるいは、それより前の8節までに語った、創造主である神の贖いのことを思い起こせということかもしれません。あるいは、後に述べられている、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした、ということを思い起こせということかもしれません。21節最後の、イスラエルよ、わたしを忘れてはならない、と訳されている文章は、「あなたはわたしに忘れられることがない」(新改訳)あるいは「わたしはあなた忘れられない」(口語訳)とも訳すことが出来ます。つまり、神様がイスラエルの民のことを忘れておられないことを思い起こせ、というように読むことも出来るのであります。その方が、ここで言おうとしていることが明確になるように思います。イスラエルの民は真の神様のことを忘れて、偶像に心が支配されてしまっているのですが、神様は、<わたしは決してお前たちを忘れてはいないよ>と呼びかけておられるのであります。
 続けて22節ではこう言われています。わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。――雲や霧が吹き払われて、明るい青空が現れて、まぶしい日の光が射しこんで来るように、イスラエルの民の罪が贖われて、吹き払われて、明るい希望の光が射し込むのであります。「わたしに立ち帰れ」と悔い改めが呼びかけられていますが、イスラエルの民が回心して真の神に立ち帰るならば神様が罪を赦してくださる、というのではありません。神様が罪を贖い赦してくださっているから、立ち帰ることが出来る、ということです。神が罪を贖ってくださったという事実に基づいて、「わたしに立ち帰れ」と招かれているのです。――これはまた、現代の私たちに対する神様の呼びかけでもあります。私たちも諸々の偶像に支配されています。自分ではそんなものに心を奪われたり支配されているとは思っていないかもしれませんが、真の神様以外のものに頼ろうとしたり心を奪われて、そうしたものを捨てきることが出来ないという罪の現実があります。けれども、そのような私たちのことを、神様は決してお忘れになりません。そして、わたしたちの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払ってくださるのです。こうして神様が私たちを贖ってくださるのです。だから、「わたしに立ち帰れ」と招いてくださっているのであります。
 更に23節では、贖われたことによる喜びの叫びへの招きが語られています。天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。山々も、森とその木々も歓声をあげよ。主はヤコブを贖い/イスラエルによって輝きを現された。――「天よ」「地の底よ」、「山々も、森とその木々も」と呼びかけられています。天地万物、被造物全体が喜びの叫び、歓声をあげるように呼びかけられています。イスラエルが贖われたことによって、神様の輝きが現されるのです。それはまた、イスラエルだけでなく、神の民とされた私たちが贖われ、罪から救われること、私たちを支配する様々な偶像から解放されることが、創造の世界全体の喜びとなり、ひいては神様の御栄光が輝くことにつながるということであります。

4.廃墟の再興

 24節から次の45章の7節までの箇所は、小見出しにもあるように、キュロスによる捕囚からの解放のことが告げられています。キュロスというのはペルシャ帝国の初代の王となる人物の名前であります。彼は紀元前539年にバビロン帝国を征服し、翌538年に「キュロス勅令」を出して、バビロンに捕囚になっていたイスラエルの民がエルサレムに帰還することを許すことになるのですが、預言者イザヤは、そのことが起こる前に、キュロスによる捕囚からの解放のことをここで告げているのであります。今日はそのうち導入部に当たる44章の24節から28節までの箇所から御言葉を聴きます。
 最初の24節には、「贖い主」という言葉と「万物の造り主」という言葉があります。この二つのことは、43章でも言われていたことでありますし、44章の初めでも言われていたことの繰り返しでありますが、第二イザヤが語る一貫したテーマであります。キュロス王によるバビロンからの解放も、たまたまイスラエルの民にとって好都合な王が現れたということではなくて、万物の造り主である神様の計らいによるのであり、贖い主である神様がイスラエルの民の背きの罪を贖ってくださったからだ、ということを述べているのであります。
 25節には、「むなしいしるしを告げる者」「占い師」「知者」というのが出て来ますが、これらはバビロンにおける宗教指導者たちのことを指します。バビロンでは彼らが力を持っていました。様々な偶像を造り出し、それをもって人々の心や生活を支配していた者たちでありましょう。しかし、今や造り主にして贖い主なる神様によって、彼らが混乱し、狂い、愚かなものとされるのであります。――私たちの心や生活を支配している諸々の偶像も同じことです。それらを私たちから払い除けてくださるのは、造り主にして贖い主なる神様であります。
 26節では、僕の言葉を成就させ/死者の計画を実現させる、と述べられています。「僕」「使者」というのはイスラエルの預言者たちのことであります。神様はバビロンの宗教指導者たちには混乱と動揺をもたらされるのですが、一方、イスラエルの預言者たちを用いて神様の救いの御計画が実現することを約束されるのであります。
 どのような計画が実現するのでしょうか。エルサレムに向かって、人が住み着く、と言い/ユダの町々に向かって、再建される、と言う。わたしは廃墟を再び興す。――これは正にバビロン捕囚からの帰還とエルサレムの復興のことを意味しています。続けて27節では、深い水の底に向かって、乾け、と言い/お前の大河をわたしは干上がらせる、と言う、とあります。「深い水の底」とか「大河」と言われているのは、バビロンの都をうるおす水源とユーフラテス川のことでしょうか。それらが乾き、干上がるというのは、繁栄の都バビロンがキュロスによって滅ぼされることを象徴的に語っているのでしょうか。
 そして、28節では重要なことが語られます。キュロスに向かって、わたしの牧者/わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い/神殿には基が置かれる、と言う。――キュロスのことを「わたしの牧者」と言っております。次の451節では「主が油注がれた人キュロス」とまで言っております。しかし、これらは、キュロス自身がエルサレムの再建を意図したとか、イスラエルの王や祭司・預言者と同じ位置に置かれたということではなくて、あくまでも神様の御計画を成就するのに一定の役割を果たす、という意味でしょう。ユダの町々を再建し、エルサレムの廃墟を再興して神殿を再建される主体は、あくまでも神様であります。キュロスはその神様に用いられるのであります。
 ところで、26節では「わたしは廃墟を再び興す」と言われていました。これはバビロニア帝国によってエルサレムの都が滅ぼされて廃墟になっていたものが再建されるということでありますが、エルサレムの都を滅ぼして廃墟にしたのは誰でしょうか。バビロニア帝国のネブカドネザル王であります。しかし、預言者イザヤは、そこに神様の御意志があったと受け取りました。イスラエルの民の背きと罪に対する裁きとして、エルサレムが滅ぼされ、バビロン捕囚となったのであります。しかし、その神様が今度はキュロスを用いて、イスラエルの民を救い出し、廃墟となっていたエルサレムを再興なさるのであります。
 このエルサレムの滅亡と再建の歴史は、現代の私たちに何を教えているのでしょうか。私たちの生活の舞台や礼拝の場である教会が、私たちの背きや不信仰の故に、破壊されて廃虚になるのと同じようなことが起こりかねないということを示しているのではないでしょうか。しかし、神様はイスラエルの歴史をそれだけで終わらせることはなさいませんでした。バビロンでの捕囚生活の後に、キュロスを用いて、廃墟となっていたエルサレムがもう一度再興する道を開かれたのであります。神様は創造主であり、贖い主であります。悔い改めて立ち帰る機会を作ってくださるお方であります。
 このような神様の救いの御心は御子イエス・キリストが地上に遣わされたことによって一層明確になりました。創造主なる神様は、私たちの背きや罪を放置されることはありません。罪の結果の裁きを避けることはできせん。しかし、神様はその死の裁きを独り子イエス・キリストに負わせられました。そして、主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪の贖いと救いを成就してくださいました。キュロスの出現は、この主イエス・キリストの出現を指し示す出来事でありました。神様は昔も今も変わりなく、お選びになった民を愛し、教会を用いて、その救いの御計画を進めておられるのであります。

結.御言葉の成就

 今日は本年最後の礼拝であります。今年の年間目標は「御言葉に生かされる」でありました。神様は今年も豊かな御言葉を私たちのために備えてくださっていた筈であります。そして、救いの御業を進めて来られた筈であります。しかしながら、そのことは不信仰な私たちの目には必ずしもはっきりと見ることが許されていません。けれども、神様の御心は変わりませんし、着実に救いの御業を進めておられる筈であります。そのことを明らかにするために、預言者イザヤは今日も主の御言葉を私たちに取り継いでくれました。「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」そして断言されます。「わたしは廃墟を再び興す」。この御言葉の成就を信じつつ、新しい年も御言葉に聴き続け、主に従う者たちでありたいと思います。祈りましょう。

祈  り

創造主にして贖い主なる、父なる神様!
 本年も間もなく終わろうとしておりますが、この小さな教会の歩みを今年も導き続けてくださり、多くの恵みをもって満たしてくださいましたことを感謝いたします。特に、先週行いましたクリスマス合同礼拝には、多くの新しい方々、子供たちをお送りくださいまして、ありがとうございました。
 どうか、この方々が、新しい年もあなたの導きのもとに、この場所であなたとの関係を深めることができますように。また、クリスマス礼拝に来ることが出来なかった兄弟姉妹も、新しい年には、あなたの招きに応えて、このところに集められ、あなたの贖いの御心を共に喜ぶ礼拝生活を続けることが出来ますように。そしてどうか、御言葉が実を結ぶのを見ることが許されますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年12月28日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 44:21-28
 説教題:「
廃虚の再興」         説教リストに戻る