(ことば)が肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。14)・・・・いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。18
                        (ヨハネによる福音書11418 

 標記には、イエス・キリストの誕生の意味が簡潔に述べられている。人は神について想像したり、思索したり、自然の偉大さに感動して神の存在を感じたり、時には霊感を受けて、神について語ったり教えたりするが、神そのものを見ることはできない。イスラエルの民は神から律法を与えられて、神が人間に何を望んでおられるかを知ることが出来たが、その律法に背いて、神に対して罪を犯してしまった。そのような人間を神はどう扱われ、罪の問題にどう決着をつけられるのかが示されなければ、神がどのようなお方であるかを知ることが出来ない。それを現されたのが神の独り子イエス・キリストである。この方にこそ神の恵みと真理が示されている。
 ヨハネ福音書は、イエス・キリストの誕生の出来事を「言は肉となって」と語る。言葉は語る者の意志や思いを伝えるが、神の意志・思いが実体(出来事)となったのがキリストである。「肉」とは、精神的・肉体的な限界を持った存在としての人間のことである。イエス・キリストは、真の神でありつつ、人間の弱さ・悲しみ・苦しみが分かる方として地上に宿られた。
 受肉されたキリストは、その生涯を通して、特に、十字架と復活の御業を通して神を示されたのであるが、イエスの降誕物語を通しても、神の御心を知ることが出来る。以下は、聖誕劇の各場面において示されること。
1)「受胎告知」の出来事では、神の子が一人の人間の胎に宿ることが告げられる。罪と悪に満ちた世界に、独り子を惜しまず送り給う神の愛を知ることが出来る。
2)「誕生」の場面では、身勝手な為政者の下で、主を迎える何の準備もない地上世界に、神は入り込んで来てくださる方であることが分かる。
3)「羊飼い」の場面では、宗教的な専門家などではない普通の人間である羊飼いが日常生活を営んでいる只中で、神の子に出会う。神は普通の私たちに出会ってくださり、召し出されるお方であることが示される。
4)「博士たち」の場面では、異邦人である東の国の占星術の学者たちが星に導かれて乳飲み子イエスに出会う。真の神とは縁がないと思っている人たちをも、神は救いに招き入れるお方であることが示される。
5)「馬小屋」の場面では、乳飲み子イエスは家畜小屋の飼葉桶に寝かされる。これはイエスの苦難の生涯を暗示する。人は神に干渉されたくないのだ。そんな私たちを神と共に生きる本当の幸せな道へと招き入れようと、独り子を遣わされたのだ。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年12月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:14-18 
 説教題:「言
(ことば)は肉となって」 説教リストに戻る