序. イエスの誕生の意味は?

 今から2000年余り前に、神の子イエス・キリストがこの地上にお生まれになったという出来事、その経緯については、マタイ福音書とルカ福音書に、かなり詳しく書かれているのですが、今日与えられているヨハネ福音書には、出来事そのものというより、イエス・キリストの誕生の意味が語られていると言ってよいと思います。先程の聖書朗読では114節から18節までを読みましたが、その中でも特に14節と18節に、イエス・キリストの誕生の意味が簡潔に述べられていますので、そこをもう一度読みます。
 14節。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。18節。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 先ほどは、子供たちと一緒に、午後に皆で演じる劇の「クリスマスものがたり」の内容にも触れながら、イエスさまの誕生の意味を考えてみました。この時間は、それをもう少し深堀して、私たちにとってのクリスマスの出来事の大切な意味を聴き取りたいと思います。

1.神を見た者はいない/独り子である神(イエス)が示された

 まず、後の18節の方から参りましょう。「いまだかつて、神を見た者はいない」と言われています。
 神を見る、神を知るということは、全ての宗教が目指すところであって、全ての宗教は、(「神」と呼ぶかどうかは別として)神について教えています。しかし、聖書は「いまだかつて、神を見た者はいない」と言うのであります。神の声を聞いたという者は時々あります。夢か幻の中で神を見たという者も(少々胡散臭いですが)、時々現れます。しかし、人は神そのものを見ることは出来ないのであります。
 旧約聖書の出エジプト記には、イスラエルの民の指導者であるモーセに神様がこう言われた言葉が記されています。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできない。」(出エジプト3320)――モーセのように、神様から十戒を授けられたような人でも。神様のお姿を見ることは許されなかったのであります。人は神を見ると、生きていることが出来ないのであります。だからこそ、人は神について色々想像したり、思索をしたり、自然の偉大さに感動して神の存在を感じたり、時には霊感を受けて、神とはこういう方だ、と語ったり、教えたりするのであります。
 
ところがキリスト教では、神のことを、想像や思索から語りませんし、自然を見ることから神を知るということもしません。18節にありますように、「父のふところにいる独り子である神(すなわちイエス・キリスト)、この方が神を示されたのである」と受け取っているのであります。イエス・キリストが「神を示された」というのは、イエスという人が自分の考えを示されたとか、自分の体験を語られたとか、霊感を受けてそれを人々に示されたということではありません。イエス・キリストそのものが神を示している、イエス・キリストの地上の御生涯・その御業そのものが神を示している、ということであります。このことを、難しい言葉では「啓示」と言っております。神はキリストによって御自身を啓示されたのであります。これがキリスト教の神認識の中心であります。キリスト教では、このキリストによって示される(啓示される)以外に、神を知る方法はない、と考えているのであります。神がそのような方法で御自身がどのようなお方であるかを人間に示されたと信じているのであります。
 ですから、このキリストの啓示以外の手段でもって、人が神について何事かを語るならば、それは人間が勝手に作り出した偶像に過ぎないと考えます。神は、自然の事物の中に示されているのではありませんし、人間が営む歴史を通して御自分を表されるということもありませんし、教師や哲学者や宗教家の教えや思想によって示されることもないのであります。人が神について語り得るとすれば、キリストによる啓示について、すなわちキリストの御業と御言葉について語ることが出来るだけであります。
 
もちろん、神様は人間とは縁のない遠いところにおられて、人間世界には何も関与されないのではなくて、自然に働きかけ、人間の歴史に働き、人間に語りかけ、私たちの日常にも働きかけられるお方でありますから、それらを通じて神様の御力を覚えたり、神様の導きや恵みを感じることは大いにあるのでありますが、それらのことから神様の本質、神様の御心の真髄を知ることは出来ないのであります。神様御自身がどのようなお方であるか、ということは、イエス・キリストに出会わなければ、その本質は見えないし、間違って把握してしまうのであります。
 
17節を見ますと、こう書かれています。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
 
旧約聖書に記されている、十戒を初めとする律法はモーセを通して神様から与えられました。そこには、神様の御意志が表されています。神様が人間に何を望んでおられるか、ということが示されています。そういう意味では、律法によって神様の御心を知ることが出来るのであります。旧約聖書に書かれている律法とイスラエルの歴史を見れば、神様の思いと、歴史に働き給うその力を知ることが出来ます。ユダヤ人はそう思っていました。――しかし、それだけでは、不十分だったのであります。
 人間は神様から与えられた律法を守ることをせず、神様に背いてしまいました。神様に対して罪を犯してしまいました。そのような人間を神様はどう扱われるのか、正しい神様は人間の罪の決着をどうつけられるのか、そのことが示されなければ、神様がどのようなお方であるのか、分かりません。それを現されたのが、イエス・キリストでありました。罪深い人間をどう扱われるのか、いかに大きな恵みと真実とをもって扱われるのか、ということが、イエス・キリストによって現されたのであります。そのことを、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と述べているのであります。

2.(ことば)は肉となって

 それでは、イエス・キリストは神様の御旨を受けて、罪を犯した人間のために何をして下さったのか。イエス・キリストはどのような神様を現わされたのでしょうか。――14節前半にはこう書かれています。
 
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

 ここで日本語聖書では「言」という字を用いて「ことば」と読ませています。この「言(ことば)」というのはイエス・キリストを表わしているということはすぐ分かりますが、なぜわざわざこんな語を使って表現したのでしょうか。ここに使われているギリシャ語は「ロゴス」という語で、それには「言葉」という意味がありますが、「出来事」という意味も持っていますし、当時から哲学用語としても用いられていて、「道理」とか「理性」を表わす言葉でもありました。筆者のヨハネがこの「ロゴス」という語を使った時に、そういう哲学的な意味合いも念頭にあったかもしれませんが、今日の個所を理解するには、必ずしもそういう哲学的な概念を持ち出さなくてもよいと思います。取り敢えずは、普通の意味で用いられる「言葉」のことを考えればよいと思います。「言葉」というものは、人間の間で情報を交換したり、意志や思いを伝える役割をいたします。言葉が媒介となって人と人とが結び付けられることは非常に多いわけでして、そこが人間と他の動物との違いでもあるわけであります。ヨハネ福音書が、その「言」という語を用いてイエス・キリストのことを表わそうとしたのは、イエス・キリストが、神様の御意志や思い・御心を人間に伝えて、神様と人間との関係を結びつける役割を担っておられるからであります。「言葉」というと、実体の伴わない良い加減なものという感触があるかもしれませんが、ギリシャ語のロゴスという語は、「出来事」という意味も持っているということを申しましたように、イエス・キリストも神様の実体をもった言葉でありまして、神様の御意志・御心が実体(出来事)となったのがイエス・キリストなのだ、ということです。

 そのような「言」が「肉となって」と言われています。「肉」というのは、聖書では単に<肉体>という意味ではなくて、罪に支配されて、死を免れることの出来ない存在となっている人間のことであります。精神的にも肉体的にも限界を持った存在としての人間のことです。

 イエス・キリストのことを「神の子」、あるいは18節にあるように、神の「独り子」という言い方をします。これは、イエス・キリストは神様と同じ性質を持っておられ、神様の御心そのものであり、真の神であるという意味ですが、その神の子である方が、「わたしたちの間に宿られた」と語っています。これは、神の御子である方が私たちと同じ姿をとってこの世に来られた、ということを意味しています。「宿る」というのは、<天幕を張ってそこに住む>という意味の言葉ですから、神の御子が私たちと同じ人間となってこの世に来られ、この世にお住まいになったということです。このことを神学的な用語で「受肉」と言います。これは、人間に似た姿をとったとか、一時的に仮の姿をとられたということではなくて、人間と同じ肉体や精神を持って、人間の弱さや悲しみ・苦しみが分かる方として来られた、ということであります。私たちと同じ人間になられたといっても、神様の御心に反するような罪を犯されたわけではないので、その点は私たちと違っていますが、その他の点では私たちと同じ人間になられたのです。つまり、神の言であり神の御子であるキリストは、真の神であることをやめることなく、私たちと同じ真の人となって、私たちの只中に来られたということであります。

 こうして、神様はイエス・キリストを通して、御自分がどのようなお方であるかを啓示されたのであります。

3. 啓示された神とは――イエスの誕生物語の中にも

 では、そのようにして受肉されたイエス・キリストによって啓示された神とはどのようなお方なのでしょうか。それは、ヨハネ福音書がここから先で書き記していることであり、主イエスがご生涯において語られたこと、為された御業の全体によって示されることであり、そのことは聖書全体によって私たちに伝えられているのでありますが、今日は主イエスの御降誕を祝うクリスマスの礼拝でありますので、御降誕の出来事の中に神様がどのように啓示されているかということを見て行きたいと思います。
 今日の午後に全員で演じようとしています「クリスマスものがたり」の劇では、聖書に書かれている御降誕の出来事の中から、5つの場面を取り上げています。一つ一つの場面には神様の大きく深い御心が込められているので、それを詳しくお話ししていると、何時間あっても足りないので、今日はそれぞれの場面から聴き取るべきことを一つずつピックアップして取り上げたいと思います。

3-1.[受胎告知]の出来事から(ルカ12638

 まず、天使ガブリエルが処女マリアに主イエスの誕生を知らせた「受胎告知」の場面ですが、これは御承知のように、ヨセフという男性と婚約はしていたけれどもまだ夫婦の営みをしていなかったマリアが子を宿す、処女懐胎という不可能と思える事がマリアに告げられたのであります。そのような人間にとっては不可能と思えるようなこと、人間にとっての限界を打ち破る方として御自身を現わしておられるということも、ここから聴き取るべきことなのですが、そのことよりもっと驚くべきことがあります。そのことについてある牧師は、ここには<神の冒険>ともいわれる一面が示されていると言います。それは、罪と悪に満ちた人の世界に独り子を送り込むということにおける冒険であります。神様は人間を愛し、その人間が陥っている罪から何とか解放しようと、独り子を惜しまず、人間の一人として、一人の女の胎に身ごもらせなさったのであります。ここに神の愛の冒険があります。このことをヨハネ福音書は316節で、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記しています。
 
3-2.[誕生]の出来事から(ルカ217

 二つ目の場面は、ローマ皇帝から人口調査の勅令が出たために、ヨセフの出身地であるベツレヘムで住民登録をしなければならず、身重のマリアとヨセフがベツレヘムにやって来るのですが、宿屋には泊まるところがなく、結局、家畜小屋に泊まることになり、そこでマリアが出産し、赤子の主イエスは飼い葉桶に寝かされたという場面です。
 ここには、皇帝という当時の世界の支配者の強引な政策に振り回されるヨセフとマリアの姿があり、また一般の人々の誰も、二人を歓迎することはなく、家畜小屋という最低の場所で神の子が誕生しなければならないという、人間の側の恐ろしい姿、暗い、醜い現実があります。そうした中で神様は、そんな現実の中に入って来て下さるお方であり、しかもその中で、旧約聖書であらかじめ預言しておられたベツレヘムで救い主が誕生するという救いの御計画を実現して行かれたのであります。地上の世界は、そして私たちの心は、手前勝手であり、神様をお迎えするような何の準備もないのですが、そうした中へこそ、神様は救いの御計画に従って、入り込んで来て下さるお方だということが、ここに示されていることではないでしょうか。

3-3[羊飼い](ルカ2820

 三番目の場面は、野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちのところに、天使たちが現れて、救い主がお生まれになったことを知らせたという出来事です。この出来事からも神様について多くのことを聴き取ることが出来ると思いますが、今日は一つのことだけに注目したいと思います。それは、救い主誕生のことを、天使たちを遣わして知らせた相手は、羊飼いたちであった、ということです。羊飼いというのは、イスラエルの国では普通に見られる仕事であります。庶民の仕事の一つでありました。そして、彼らが夜、野宿しながら羊の群れの番をするということは、彼らにとって日常的な姿でありました。つまり神様は、王さまや金持ちの人や、宗教家や聖書のことに詳しい学者にではなく、庶民である羊飼いを選んで、しかも、特別に宗教行為をしているわけではない彼らの日常生活の只中で、救い主の誕生のことをお知らせになったということなのです。主イエスの弟子のペトロやアンデレも、彼らは漁師でありましたが、仕事を終えてガリラヤ湖の岸辺で網を洗っていたという日常生活の只中で招きをうけて、弟子となりました。神様はこのように、私たちのような普通の人間であって、宗教的な専門家でもない者が、普通の生活を営んでいる中で、出会ってくださり、召し出してくださるということです。
 このような知らせを聞いた羊飼いたちは大変驚いたに違いありません。私たちも、自分の方から求めたわけでもないのに、何かの機会で、または誰かの誘いで、神様の救いの御業のことを知らされて、最初は驚いたり、いぶかったりせざるを得ないのであります。羊飼いたちはどうしたでしょうか。彼らは天使の知らせを聞くと、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合って、急いで出かけて、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子の主イエスを探し当てたのであります。そうして、彼らは、天使が知らせてくれたことを人々に知らせたというのです。神様はこのような普通の人間を用いて、救いの御業を人々に伝える役割をさせられるのであります。私たちも、神様の救いの御業の深い意味や全貌を最初からよく知っているわけではないのですが、神様はそのような者をも、神様の大きな御計画のためにお用いになるということです。

3-4[博士たち](マタイ2112

 四つ目の場面は、東の国の占星術の学者たちが、星の導きを受けて救い主として生まれた乳飲み子イエスを礼拝したという出来事です。
 この学者たちというのは、ユダヤ人ではありません。遠い東の国の、真の神様を知らない異邦人でありました。その彼らが、占星術で新しい王の誕生をしめす星を見つけて、その星に導かれてベツレヘムでお生まれになった主イエスを探し出して、黄金、乳香、没薬という高価な贈り物を献げて礼拝したというのです。
 神様はこのように、神様には縁がなかった人たちをも救いに招き入れようと働きかけるお方であるということであります。私たち日本人も多くの人は、真の神様とは縁のない環境に生まれ育って来ておりますが、神様の御意志は、すべての人をお救いになるということであります。そして、このようなクリスマスの出来事に参加させて、私たちをも神様の救いの御業に加えてくだささっているのであります。

3-5[馬小屋](ルカ21520、マタイ2912

 最後の場面は、家畜小屋の飼葉桶に寝かされている乳飲み子イエスを羊飼いたちや占星術の博士たちが訪れて礼拝した場面です。ここで注目したいのは、主イエスは多くの人々に歓迎されて誕生されたのではなく、神様に選ばれたほんのわずかな人たちだけが訪れたということと、お生まれになった場所が王の宮殿などではなく、寝かされたのが温かいベッドではなくて飼い葉桶であったということです。これらのことは、主イエスの苦難の御生涯を象徴しています。十字架の死に至る主イエスの苦難の御生涯がここから始まっているのであります。
 私たちの本当の姿は、神様などに関わって貰いたくないのであります。自分勝手に生きたいのであります。時々、困った状態に陥った時には、助け舟を出してもらえる存在が欲しくなることがありますが、出来れば神様などに干渉されたくないのであります。そのような人間たちが、そして私たちが、主イエスを苦難へと追いやり十字架に架けてしまうのであります。しかし、神様はそんな私たちのことをよく御存知の上で、神様と共に生きることの本当に幸いな道へ私たちを招き入れようと、主イエスをお遣わしになったのであります。そこに、神様の大きな愛があります。家畜小屋で飼い葉桶に寝かされている主イエスは、そんな神様の愛の御心を表しているのであります。

結.恵みと真理とに満ちていた

 14節の後半に、それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた、と書かれています。「恵みと真理」という言葉は17節にもあります。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。主イエスの御降誕、そして主イエスの御生涯の全体は、神様の恵みと真理の現れであります。そしてそこに表わされている恵みと真理は、今も変わることなく、私たちに差し出されているのであります。
 教会の主の日ごとの礼拝は、そういう神様の恵みと真理に出会う場であります。礼拝ではいつも、聖書に記された御言葉が語られます。聖書に何が書かれているかと言えば、主イエス御自身がこう言っておられます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。」(ヨハネ539)私たちは礼拝において、聖書の御言葉を聴くことによって、主イエス・キリストに出会うのであります。そして、主イエスに出会うということは、今日の18節にあるように、主イエスによって現わされている神様に出会うということ、神様の愛の御心に触れるということであります。
 今日はクリスマス礼拝ということで、主イエス・キリストをこの地上に送ってくださった出来事を通して、神様の恵みと真理に触れることが出来ました。来たるべき新しい1年の歩みにおいても、絶えず礼拝において御言葉を聴き続け、主イエスによってもたらされた恵みと真理に立ち続けることによって、喜びと希望に満ちた日々を過ごして参りたいと願います。
 祈りましょう。

祈  り

御子イエス・キリストをこの地上の私たちのところにお送りくださった恵み深い父なる神様!
 クリスマスの礼拝に参加し、2000年前に為してくださり、今も為し続けてくださっている恵みの御業を通して、そこに示されているあなたの深い愛の御心に触れることが出来まして感謝いたします。
 
私たちはこのような御心を蔑ろにし、勝手な歩みをして、過ちを繰り返している愚かな者でありますが、どうかお赦しください。
 
どうか、恵みの御言葉を聴き続けることによって、あなたの御愛に押し出されて、御心にかなった歩みをすることができますように。
 どうか、あなたを知らずして、悩みや苦しみに中にある人たちに、あなたが出会ってくださり、喜びと希望へと導き出してください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年12月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 1:14-18
 説教題:「言
(ことば)は肉となって」         説教リストに戻る