序. 以前には暗闇でした

 4月から毎月一回、エフェソの信徒への手紙によって御言葉を聞いて参りました。3章までは筆者のキリスト論・教会論が展開されていて、4章から、長い勧告(勧め)が書かれています。4章の初めでは、キリストの体である教会の一致について勧められおり、先月に学びました417節以下では、キリスト者としての新しい生き方が教えられていました。そこでは、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けることが勧められていました。そして5章から6章では、具体的な倫理的勧めが数多く語られて参ります。
 そのうち、今日の箇所には「光の子として生きる」という小見出しがつけられていて、8節を見ると、あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています、とあるように、キリストと出会っていない時の古い生き方とキリストに出会ってからの新しい生き方とが、闇と光という対比で描かれています。
 では、以前の暗闇の中の生き方とはどのような生き方のことを言っているのでしょうか。今日の箇所の初めに、むなしい言葉に惑わされてはなりません、とあります。これは実は前の425節以下の段落を受けていて、そこでは口から出る言葉の問題が繰り返し取り上げられていました。たとえば、25節では「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と言われていましたし、29節では「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」とあって、53節に至りますと、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません」と言われていました。暗闇の中に生きるというと、貧困や差別、暴力や戦争、災害や重い病といった悲惨な状況に苦しむことが思い浮かびますが、筆者は口から出る言葉のもたらす闇を重要に考えているようです。なぜでしょうか。主イエスはこう言われました。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイ1234「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。」(マタイ151819)このように、言葉は心を写し出すのであります。神様から離れて罪にまみれた心は闇の支配の中にあって、言葉を通して周りをも暗闇の中に陥れるのであります。私たちはこのような闇とは無縁の世界にいるのでしょうか。また私たちの語る言葉が、周りの人を暗闇に誘い込んでいることはないと言い切れるのでしょうか。7節では、だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい、と勧められています。私たちはいつも、暗闇に引き込まれたり、他人を引き込んだりする危うさを持っていることを自覚している必要があるのではないでしょうか。本日は衆議院議員の選挙が行われています。選挙戦では力強い美しい言葉が飛び交いました。しかし、今、わが国はどんどんと暗闇の中に引き入れられつつあると言ってよいでしょう。「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」との勧めは、今の私たちも耳を傾けるべき言葉ではないでしょうか。

1.光の子として歩みなさい

 さて、最初に見た8節に戻りますが、あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい、と言っております。ここでは、私たちが光となっていると断定されています。闇の力が強い中で、頑張って光となるように努力しなさいと言われているのではありません。以前は確かに暗闇の中にいたけれども、今や私たち自身が光となっているというのです。主イエスも、「あなたがたは世の光である」(マタイ514)と言われました。もちろん、私たちが努力して、自分の力で光を発するようになれた、ということではありません。あくまでも「主に結ばれて」光となったのであります。主イエスは、ヨハネ福音書の中で「わたしは世の光である」(ヨハネ812)と言われました。光の源はキリストにあります。14節の引用符の中は洗礼式の時に歌われたものではないかと言われておりますが、これを見ますと最後の行に、「そうすれば、キリストはあなたを照らされる」とあります。主イエスの光によって「照らされ」てはじめて、私たちは、光の子とされたのであります。私たち自身は、暗闇でしかありません。罪人の仲間でありました。そのような私たちを主イエスの光を照らす者としてくださったのであります。
 9節には、光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです、とあります。光のもたらす実として善意、正義、真実が挙げられています。これらは元々の私たち自身に備わっているものではありません。主イエスに私たちが結びつくことによって、光である主イエスからもたらされるものです。
 今日の箇所の中心メッセージは、今聴いたように、「光の子として歩みなさい」ということですが、その際に心得るべきことが4つばかり勧められています。それを順に見て行きたいと思います。

2.何が主に喜ばれるか吟味しなさい

 第一は10節にありますが、何が主に喜ばれるかを吟味しなさい、ということです。17節でも同じような主旨で、だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい、と勧められています。闇から光へと移し変えられた者の生き方・行動は、何が主に喜ばれ、主の御心が何であるかということから方向づけられるということです。パウロはローマの信徒への手紙の中で、同様のことを言っております。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ122)この世の価値判断に従うのではありません。自分の知識や経験や好みによるのでもありません。あくまでも神の御心を問うということであります。そこには当然ながら、祈ることが必要になります。祈りというのは、私たちの願いを申し述べるだけではありません。何よりも御心を問うのが祈りであります。

3.明るみに出しなさい

 第二の勧めは11節です。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい、と言っております。「実を結ばない暗闇の業」とは、先ほど「以前の暗闇」の内容として見た34節に書かれていたことで、「みだらなこと」「汚れたこと」「貪欲なこと」「卑わいな言葉や愚かな話」「下品な冗談」です。それらの業に加わらないことが勧められています。しかし、それだけではありません。「むしろ、それを明るみに出しなさい」と言っております。「暗闇の業」に加わらないで、そうした行いやそうしたことをしている人と関係を断つというだけではないのです。「明るみに出しなさい」と言います。みだらなこと、汚れたこと、貪欲なことなどは、いつも隠れて密かに行われます。12節で、彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです、と言っている通り、大っぴらには行われません。では、そうしたことを「明るみに出す」とはどういうことでしょうか。彼らのやっていることを人々の前で暴き出して罪を問うということなのでしょうか。そうではないようです。1314節を見ますと、こう言っております。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。つまり、光でいます神様の御前に持ち出すということです。そして、私たちが暗闇から導き出されて光の子とされたように、彼らもまた神様の光のもとでキリストの救いを受けて光の子とされるということです。そして、先ほど一部を読んだ洗礼の時の言葉が語られます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」――神様を知らずに闇の中にある者の生活というのは、霊的には死んだ者の生活であります。しかし、そこから立ち上がってキリストの光によって照らし出される時には、光の子として甦るのであります。私たちはそのためにお手伝いができるということです。

4.時をよく用いなさい

 光の子に対する第三の勧めは15節~17節に書かれていることです。
 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。ここには、愚か者としてではなく、賢い者として心得るべきことが、「○○しなさい」という命令形で3つ書かれています。
 一つは、「細かく気を配って歩みなさい」です。「気を配って歩む」という言葉は、「丹念に見る」とか「厳密に見極める」という意味の言葉です。何を見極めるのか。自分自身と周囲の人々や状況をよく見極めるということでしょう。どうすればよく見極められるのでしょう。それはキリストの光によって見るということでしょう。それは細部まで詳細に見るというよりも、御心に適っているかどうかをキリストの愛の光のもとで見るということでしょう。
 二つ目は、「時をよく用いなさい」です。ギリシャ語には「時」を表わす言葉が二つあって、ここでは「カイロス」という言葉が使われています。これは、「機会」とか「時期」という意味で、もう一つの「クロノス」という一定の期間を表わす言葉とは違います。ですから、ここで「時をよく用いる」というのは、<機会を最善に用いる>という意味で、神様によって与えられた掛け替えのない機会を逃さないということです。礼拝もそのような掛け替えのない「時」であります。キリストとの出会いの機会、悔い改めの機会、光の子とされる機会、そして、周りにキリストの光を照り返す機会を逃さないようにしなければならないということです。
 三つ目は、17節です。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と言われています。その前に「今は悪い時代なのです」とあります。「悪い時代」というのは、私たちの望み通りにならない、悩みの多い時代という意味ではなくて、神様の御心に反している時代、光のない暗闇の時代ということです。そういう時代であるからこそ、神の光に照らされた分別が必要です。主の御心が何であるかを見極める分別が必要であります。

5.霊に満たされなさい

 大きな第四の勧めは1819節です。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
 冒頭の「酒に酔いしれてはなりません」という戒めから始まっていますが、禁酒を勧めるのが主旨ではありません。もちろん、お酒に酔いしれて身を持ち崩すというようなことが、光の子にあってはならないのですが、ここでは酒に酔うことと対比して、「霊に酔うこと」「霊に満たされること」が勧められているのであります。面白い対比ですが、パネンベルクという人は、「酒に酔うことと聖霊に満たされることの共通点は、人間がそれによって自分自身を超え出て行くことにある」と言っております。しかし、酒に酔うのと霊に満たされるのとでは、もちろん大きな違いがあります。酒の酔いは、自分を見失い、自覚的な生活を失わせて、身を持ち崩すことにつながります。酒に酔いつぶれることによって現実から逃避することになります。しかし、精神生活の向上や命を高めることにはつながりません。命を高めるのは「霊に満たされる」ことによってはじめて実現します。
 「霊に満たされる」というと、理知的な判断を捨てて、ものに憑かれたように精神が高揚することを思い浮かべるかもしれませんが、そうではなくて、19節に「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」とあるように、ここでは礼拝が想定されています。礼拝において御言葉を聴き、賛美と祈りによって神様と語り合うことによってもたらされるのが「霊に満たされる」ということであります。光の子とされた者が、光を照り返して暗闇の世界を明るくすることが出来るのは、礼拝において霊に満たされることによる以外にはありません。

結.賛美と感謝の礼拝

 最後に20節の言葉を聴きましょう。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。――今日は「光の子として歩みなさい」との勧めを中心に御言葉を聴いて参りました。その最後の勧めは神に感謝の礼拝を捧げなさいということであります。私たちは以前には暗闇の中を歩んでいた者でありました。しかし、礼拝においてイエス・キリストと出会い、神様の御言葉を聴くことが出来て、光の子とされました。それは、私たちが立派な人間で内に光があったからではありませんし、私たちが努力した結果、光を獲得したのでもありません。主イエス・キリストの十字架の救いの御業の光を受けるという、恵みを賜わったことによります。このことは、感謝を持って受け取るしかないことであります。
 こうして私たちは光の子としての新しい歩みをしている者ですが、私たちを取り巻く暗闇が一切消え失せたわけではありません。私たちを悩ませる暗い現実があります。光が見えて来ないように思える解決のつかない問題があります。光を消し去ろうとするような困った動きがあります。その中で、光の子である私たちは、どのように歩めばよいのか、困惑してしまうことがあります。そうした私たちに対して、今日は、いくつかの勧めの御言葉を与えられました。
 まずは、「何が主に喜ばれるか吟味しなさい」という勧めでした。主の御心はどこにあるかということを聴き取るということが第一に必要なことであります。そのことが出来るのは主の御言葉が語られる礼拝の場であります。続いて、「暗闇の業を明るみに出しなさい」ということが勧められました。これは、暗闇の業を批判したり攻撃したりするだけのことではありません。キリストの光によって照らし出すということでありました。キリストの光が霊的に死んだ者をも甦らせるのであります。光を照らすためには、私たち自身が光の源であるキリストの光のもとに来なければなりません。礼拝においてわたしたち自身が光を受けなければ、光を照り返すことができません。また、三番目に「時をよく用いなさい」と勧められました。神様によって備えられた特別の時をよく用いなければならないということでした。私たちの生活の中で、神様が特別に備えてくださっているのが礼拝の時であります。この時を疎かにしては、光を受けることも、照り返すことも出来ません。そして更に、「霊に満たされ、語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いなさい」と勧められました。礼拝において、御言葉の説教と賛美と祈りのうちに、聖霊に満たされるのであります。私たち自身を超えたもの、キリストの霊が、私たちの命を高め、また他人の命をも救うことができるのです。このようにして、私たちは賛美と感謝の礼拝へと導かれます。
 来週はいよいよ、世を照らす光としてこの世に誕生されたイエス・キリストを、私たちの心にお迎えするクリスマスの礼拝を行います。この機会に、多くの方々が礼拝において、大きな光のプレゼントを受けることが出来るように、そして、その光を照り返して、この世の中の暗い所に明るさが灯されて行くように祈りたいと思います。
 お祈りいたします。

祈  り

世の光であるイエス・キリストの父なる神様!
 私たちは以前には暗闇の中に住み、闇に支配されている者でしたが、あなたの憐みによって、主イエス・キリストの光に出会うことを許され、光の子とされましたことを感謝いたします。
 どうか、御心に耳を傾け、主の光を照り返す者とならせて下さい。
 どうか、備えられた礼拝の時を重んじ、また与えられた人生の貴重な時をよく用いる者とならせて下さい。そして、どうか、聖霊に満たされて、賛美と感謝を捧げる者とならせて下さい。
 どうか、主の御降誕を祝うクリスマス礼拝において、多くの方々が御子イエス・キリストの光を喜んで迎えることができますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメ

主日礼拝説教<全原稿> 2014年12月14日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙 5:6-20
 説教題:「
光の子として歩む」         説教リストに戻る