序. 御言葉は生かされているか

 先週からアドベントに入っております。そして今年も年の瀬を迎えようとしております。今年の米子伝道所の年間目標は「御言葉に生かされる」でありました。今年一年を振り返って、私たちは御言葉に生かされて歩んで来たでしょうか。御言葉と向き合う機会を多く持つことが出来たでしょうか。御言葉を見たり聞いたりしたものの、心の中にまで届くことが少なかった、あるいは御言葉によって生き方や行動が変わるところまで至らなかったということがあるかもしれません。
 御言葉に生かされるかどうかということは、当然、一人一人の個人問題、自分が神様の言葉とどう向き合うかという問題でありますが、個人の問題であるだけではなくて、教会の問題でもあります。教会として御言葉をどう受け止めて来たかが問われますし、教会は御言葉を宣べ伝える使命を負っておりますが、その使命をちゃんと果たせたかということが問われます。その中で、牧師自身が御言葉をしっかりと受け止めて、それを礼拝の中で伝えることが出来たかということも問われなければなりません。――そのように考えて来ますと、私たちは恵み豊かな御言葉を差し出されていながら、それを真剣に受け止めて来なかったのではないか、御言葉に素直に聴き従うということを怠って来たのではないか、結局、備えられていた御言葉を生かすことが出来なかったのではないか、との反省の思いを抱かざるを得ないのであります。
 では、せっかく備えられていた御言葉を私たちが生かしきれなかったということで、私たちのところでは神様の救いの御業は進まなかったのか、もっと極端な言い方をすると、御言葉は私たちのところでは生かされず、もしかすると御言葉は死んでしまったのでしょうか。
 今日与えられております箇所は、人々に悔い改めを勧めて洗礼を授けることによって神様の御心を伝えた預言者ヨハネが、ヘロデ王によって無残にも殺されてしまったという出来事が生々しく記されているところであります。御言葉がこの世の権力者の都合によって封じられてしまった出来事であります。この出来事によって、もはや御言葉は死んだのでしょうか。そんな挫折をした洗礼者ヨハネのことを、なぜ福音書は揃って書き留めるのでしょうか。なぜ主の降誕に備えるアドベントには洗礼者ヨハネのことがよく取り上げられるのでしょうか。そのような問いを持ちつつ、今日与えられている箇所から聞こえて来る御言葉を聴き取りたいと思います。

1.ヘロデ王――私たちの姿

 さて、今日の箇所は、小見出しにもあるように、洗礼者ヨハネが殺されたことが書かれているのですが、この直前には、先週学びましたように、主イエスが十二人の使徒に悪霊を追い出す権能を授けて派遣したことが書かれており、直後の30節には、彼らが帰って来て報告したことが書かれています。そうした記事の間に、なぜ、ヨハネが殺されたことを書いたのか。今日の箇所の最初を見ると、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデの耳にも入った、と書かれています。つまり、使徒たちが派遣されて福音が語られ、悪霊を追い出す活動が行われることによって、主イエスの名が知れ渡るようになって、「主イエスとは何者なのか」ということが問題になって来たのであります。そうした中で、人々は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と言いました。そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた、のですが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った、というのです。既にヨハネが殺されてからかなりの日数が経っていたと思われますが、主イエスの活動が顕著になる中で、人々の間で人気のあったヨハネのことが、もう一度思い返されるようになったわけですが、そのヨハネの働きを主イエスと結びつける考え方が広がっていたのであります。そしてマルコ福音書を記した人は、「イエスとは何者なのか」という問いの答えが、洗礼者ヨハネが殺された出来事の中にあると考えて、時間的には少し前の出来事ではありますが、この箇所に挿入しているのであります。
 ヨハネが殺された出来事と主イエスの関係を考えるには、ヨハネを殺したヘロデのことを知る必要があります。主イエスが誕生したとき、東の国から占星術の学者たちが、誕生した将来の王を拝もうとやって来ましたが、当時のヘロデ王はそのことを聞いて不安になりました。このヘロデ王というのは、ヘロデ大王と呼ばれる人で、ヨハネを殺したヘロデの父に当たります。このヘロデ大王は、新しい王の出現を怖れて、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにするという恐ろしいことをしたことがマタイ福音書に書かれています。このヘロデ大王は紀元4年に死んで、その子のヘロデ・アンティパスが16歳でガリラヤとペレア地方の領主になるのであります。彼はローマ帝国からはユダヤ全土の王となることは許されなくて、一部の地域の領主に過ぎなかったのであります。しかし、マルコ福音書は彼のことを「ヘロデ王」と記しています。なぜでしょうか。ヘロデは、ヨセフを殺した物語の中で踊りをおどって客を喜ばせた娘に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。・・・この国の半分でもやろう」2223)と言っておりますが、本当はそんな権限を与えられていませんでした。後に「王」にならせてもらうことをローマ皇帝に願うのですが、逆に謀反のかどで訴えられて、領土を取り上げられて流刑になるのであります。マルコはそんなヘロデを皮肉って、わざと14節で「ヘロデ王」と書いているのであります。
 ところで、洗礼者ヨハネがヘロデによって捕えられ、牢につながれるようになった経緯については、17節以下に記されています。ヘロデには既に妻がおりましたが、自分の兄弟であるフィリポの妻ヘロディアを横取りして結婚しました。と言うより、ヘロディアの方が夫に満足出来ずに、ヘロデ・アンティパスを口説いて、妻と別れさせて、その後釜に座ったというのが事実のようです。こうしたことは18節にありますように、律法(レビ1816)で許されていないことですので、ヨハネはヘロデを批判したのであります。それで牢につながれることになったのですが、不思議なことに、それを機会にヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたのであります。これは、御言葉が不思議な力を発揮したのであります。加藤常昭先生によれば、「ヨハネがヘロデを愛していたからだと思う」と言っておられます。ヨハネはヘロデのことを単に冷たく批判しただけでなく、愛をもって御言葉を語ったから、ヘロデの心に御言葉が響いたのでしょう。自分のしたことは間違っていたと悔い改めていたかもしれません。ところが、妻のヘロディアの方は、ヨハネが批判したことを恨んでいて、彼を殺そうと思っていたのであります。
 そんなヘロディアにとって良い機会が訪れました。聖書に書かれている通り、ヘロデの誕生日に、ヘロディアの娘が踊りをおどって、ヘロデとその客を喜ばせたので、先程見たように、ヘロデが大盤振る舞いをすると、娘はヘロディアに相談して、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願ったのであります。
 26節には、王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった、とあります。王の体面がありますし、妻の愛を失いたくないとの思いもあったのでしょう。こうして、むごいことに、ヨハネは首をはねられてしまいました。
 ある牧師はこの箇所の黙想の中でこう書いております。「ヘロデは、『正しい聖なる人』が語る言葉を聞こうとする心を持っていた。もしヘロデが領主でなく、民衆の一人であったなら、彼は荒れ野に出かけて行ってヨハネの説教を聞き、罪を告白して洗礼を受けていたかもしれない。しかし、王を演じようとする時、ヘロデは神の言葉を聞く機会を自分で潰してしまう」と。そしてこの牧師は更に、私たちもまた、一人一人が「王」になっているのではないか、と問いかけます。「わたしたちは自分の小さな王国を必死に守ろうとしているのではないか。・・・だれもが王であり得るわたしたちの世界は、神の言葉を聞き取りにくい世界であるかもしれない」と。確かに、神の言葉を聞くことに一定の喜びを感じていながらも、御言葉通りに生きることが出来ない私たちであります。主イエスの御言葉を喜んで聞いていた群衆もそうでありました。彼らは主イエスがエルサレムに入られる時には喜んで迎えたのでしたが、間もなく、主イエスが自分たちの望みをかなえてくれる王ではないということが分かって来ると、「十字架につけよ」と叫んで、神の言葉であるお方を殺してしまうのであります。

2.洗礼者ヨハネが指し示すイエス

 さて、このようにして殺された洗礼者ヨハネでありましたが、主イエスが活動を始められると、先ほど見ましたように、人々は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が働いている」と言いました。ヘロデも良心に呵責を覚えつつ、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言いました。彼らの見方によれば、洗礼者ヨハネを再評価して、主イエスはヨハネの再来またはヨハネの後継者であると見ていることになります。ということは、主イエスよりもヨハネの方が偉大な人物ということになります。彼らはヨハネを中心にして、そこから主イエスを理解しようとしました。現に、主イエスの時代にも、その後の初代教会の時代にも、そういう見方があったようで、ヨハネの弟子と主イエスの弟子とどちら偉いのかというようなことが議論されたようであります。しかし、福音書の記者がここで言いたいのは、ヨハネから主イエスを理解しようとするのとは違います。主イエスを中心にして、その光の下でヨハネを正しく見直そうとしているのであります。ヨハネの生涯の意味は何であったのか。それは主イエスを指し示す先駆者としての役割を果たす人生であった、というのが、聖書の見解であります。ヨハネが人々に悔い改めを説いたことは間違っておりませんし、大切なことを人々に教えました。ヨハネが勇気をもってヘロデを批判したことも、尊敬に値することであります。私たちが簡単に真似の出来ることではありません。しかし、ヨハネの死は、それだけを見れば、何の意味もない、非業の死であります。人々やヘロデの犯した罪の問題の解決にはなりません。けれども、ヨハネの死は、主イエスの死を指し示しております。そこに重要な意味があります。ヨハネ福音書によれば、洗礼者ヨハネは主イエスを指して、「見よ、神の小羊」と言ったと記しています。主イエスが犠牲の小羊になられることを告げたのであります。ヨハネがしたことは、自分の死をもって、犠牲の小羊となられる主イエスを指し示したのであります。そこに、ヨハネの死の大きな意味があります。マルコ福音書がこの場所に洗礼者ヨハネの死の出来事を書いた意図はそこにあるのです。マルコ福音書の初めに、預言者イザヤの言葉が引用されていました。イザヤはこう語っていました。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」――その預言のとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたと記しています。しかし、ヨハネのしたことはそこまでであって、ヨハネの死をもってしても、人々の罪を赦すことは出来ません。あくまでも自分たちの罪に気づかせ、悔い改めの準備をしたに過ぎなかったのであります。また、マルコ福音書は、ヨハネ自身の言葉として、こう伝えています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」178)正に主イエスは罪の赦しの洗礼を授けるためにこそ来られたのであります。

3.神の言葉は死なず

 ところで、マタイ福音書によると、洗礼者ヨハネは荒れ野に現れて宣べ伝えた言葉は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」ということでありました。(マタイ32)後に、主イエスがガリラヤで伝道を開始された時に語られた第一声も、同じく「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ115)でありました。ヨハネの言葉も主イエスの言葉も神の御言葉であります。
 洗礼者ヨハネは人々に厳しく悔い改めを勧めましたが、その矛先はヘロデにも向けられました。そして、旧約聖書に記された御言葉をもとに、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と、遠慮なく厳しく語りました。その結果ヨハネは牢につながれることになりましたが、ヨハネの言葉はヘロデの心に通じて、ヨハネの教えを「当惑しながらも、なお喜んで聞いていた」のでありました。神の言葉の働きによって、ヘロデは自分の罪を認めるところまで行っていたのかもしれません。しかし、ヘロデは、ヘロディアとの生活をやり直すところまでには至らず、妻のヘロディアに引きずられるように、遂には、ヨハネの命を奪ってしまうのであります。こうして、神の御言葉を語ったヨハネは殺されました。そして、ヨハネの遺体は29節にあるように、ヨハネの弟子たちの手によって墓に納められるのであります。こうして、ヨハネが語ったせっかくの御言葉も死んで、ヨハネの遺体と共に墓の中に埋められたかのように見えるのであります。
 しかし、神様の言葉は決してそれで死んでしまったのではありませんでした。主イエスがヨハネに入れ替わるようにして登場されて、ヨハネが語ったと同じように、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られました。しかし、その御言葉はヨハネよりも鋭く力強く語られたに違いありません。ですから人々は「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言いました。そして、ヘロデをして、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」とまで言わしめたのであります。ヨハネが語っていたのと同じ御言葉が甦ったかのように、人々やヘロデの中に響き渡ったのであります。神の言葉は死んでいなかったのであります。神の言葉は語り続けられるのであります。
 マタイ福音書によれば、洗礼者ヨハネは大勢の人が洗礼を受けに来たのを見てこう言いました。「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ39)と。これは、神様の厳しい裁きのことを述べた言葉でありますが、裁きだけではなくて、その向こうにある神様の赦しと救いのことを指し示している言葉でもあります。また、主イエスも、群衆が賛美して叫ぶのをファリサイ派の人たちが抑えようとした時に、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」(ルカ1940)と言われました。神様の御心に反する動きがどんなに強く動き出したかに見えても、そして神の御言葉が聞こえにくくなり、御言葉が絶えてしまったかのように見えても、神の言葉が死ぬことはありません。旧約聖書の創世記に、カインがアベルを襲って殺したことが書かれていますが、これに対して主なる神はこう言われました。「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記410)と。つまり、カインがアベルを亡き者にしたとしても、その血の呪いは消えないということであります。洗礼者ヨハネの血も流されました。しかし、ヨハネを殺した者の罪は消えることはありませんし、ヨハネの語った言葉は消し去られることはないのであります。そして、主イエスが十字架で流された血は、もっと大きな人間の罪の結果であります。しかし、その血によって、人々の罪がすべて贖われることになったのであります。カインやヘロデたちの犯した罪の結果、サタンが勝利を収めるのではなくて、キリストが勝利なさり、罪の赦しの御業が完成するのであります。こうして、神の愛の御心、神の御言葉は決して死ぬことなく語り続けられ、人々の中に生き続けることになるのであります。

結.神の言葉は生き続ける

 今日最初に、<今年の目標である「御言葉に生かされる」ということが出来ているか>ということを問いかけました。振り返ってみて、必ずしも御言葉が生かされていない現状を思わざるを得ません。
 しかし、今日の聖書の箇所が語っていることは、<ヘロデは御言葉を語ったヨハネを殺してしまったが、主イエスによって御言葉は確実に語り続けられた、御言葉は決して死なない>ということでありました。そして今日、私たちにも語られていることは、<御言葉が決して死ぬことはない><御言葉は私たちの中にも生き続けている>ということではないでしょうか。私たちが御言葉を十分に受け止めていないかもしれない。私たちが伝える言葉は貧しく、弱々しいかもしれない。しかし、神様の御言葉は豊かで強くて、決して死ぬことはなく、生き続けているのであります。そのことを信じて、私たちも引き続き御言葉に聴き続け、語り続けるものでありたいと思います。  祈りましょう。

祈  り

神の言であるイエス・キリストの父なる神様!
 御言葉によって世界を創造し、預言者たちを通して御言葉を語り続けてくださり、イエス・キリストの救いの御業によって、今も御言葉を語り続けて、私たちを御言葉によって生かしていてくださる恵みを感謝いたします。
 私たちは、御言葉を疎かにし、御言葉に従って生きることをしない愚かな者でありますが、どうか、引き続き御言葉を語り聴かせ続けて下さい。どうか、御言葉を真摯に受け止め、御言葉に生かされる喜びに満たして下さい。どうか、この待降節と降誕節に、多くの方々が御言葉に出会い、御言葉に生かされますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年12月7日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 6:14ー29
 説教題:「
神の言葉は死なず」         説教リストに戻る