あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。
                                (イザヤ書432425

 イスラエルの民はバビロンでの捕囚中であったが、それなりに安定した生活を営む中で、異教的な環境に同化し、信仰が揺らぎ、神の民としての特別な使命が忘れられていた。そうした中で、預言者イザヤは、「引き出せ、目があっても、見えぬ民を/耳があっても、聞こえぬ民を。……初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し、聞く者に、そのとおりだ、と/言わせうる者があろうか」と述べて、忘れかけていた出エジプトの恵みの出来事を思い起こさせ、信仰の覚醒を呼びかけ、神の証人としての使命に再び引き出そうとする。
 だが、神の御心を悟らず、御言葉に従わなかった不信仰なイスラエルの民が、どうして証人になり得るのだろうか。その疑問を解き明かす鍵は、イザヤが「あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神」(14)と語っているように、イスラエルの神は「贖う神」であるからだ。イザヤは更に告げる。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う」と。「初めからのこと」とは出エジプトの際の救いの出来事のことであるが、それよりももっと大きな解放、すなわち、バビロンからの解放の道が開かれることを告げているのである。
 イスラエルの民の罪は大きかった。彼らは、神を礼拝し、献げ物をすることを「重荷とした」(2223)。だが、神は彼らに重荷を負わせたこともない」(23)。かえって、彼らの罪と悪の重荷を神に負わせた(24)。だが神は、標記のように、「あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする」との愛の決断をなさったのである。こうして、第二の出エジプトと呼ぶべきバビロン捕囚からの解放が行われることになる。
 私たちも、異教的環境の中に順応し、安住してしまって、神との特別な関係を第一にすることを疎かにし、神の恵みを証しするという大切な使命を怠っている。だが、そんな私たちのために、御子イエス・キリストを遣わして、私たちの背きの罪を贖ってくださるのだ。それは、第三の出エジプトとも言うべき救いの御業である。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年11月23日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書43:8-28 
 説教題:「
贖う神」 説教リストに戻る