序. 聞こえぬ民

 旧約聖書イザヤ書の中の、40章から始まる第二イザヤと呼ばれる部分から御言葉を聴いて来ております。この第二イザヤと呼ばれる部分は、紀元前6世紀後半のバビロン捕囚時代の末期に書かれたと言われております。既に、バビロンでの捕囚が50年近く続いておりました。神様から与えられた約束の地ユダから、遠い異国のバビロニアに捕囚の身として連れて来られたことは、大変屈辱的なことであり、また、生活の上でも苦難を伴うものであった筈でありますが、捕囚といっても、牢獄のようなところに幽閉されているわけではなくて、住む所も与えられて、一定の自由が与えられた生活であったようであります。そうした中で50年近くも住んでいますと、それなりに安定した生活を営むことが出来るようになっていたと考えられます。ユダヤ人としての宗教活動がどの程度許されていたのかは、はっきりとは分かりませんが、全く禁じられていたわけではないようであります。しかし、バビロンでの生活に安住し、異教的な環境の中で暮らすうちに、まことの神様への信仰が揺らぎ、神の民としての特別な使命も忘れられるようになっていたのではないかと思われます。そういう中で、第二イザヤと呼ばれる預言者は、信仰の覚醒を呼びかけ、神様による捕囚からの解放があることを告げたのであります。
 こうしたイスラエルの民の状況と今の私たちが置かれている状況とでは、時代や場所は違うし、政治的・経済的状況も全然異なるのでありますが、私たちがこうして教会に来るようになって、神様と特別な関係を与えられていながら、一方では、異教的な環境の中で、そこに順応し、安住してしまっていて、神様との特別な関係を第一にすることを疎かにし、神様のことを周りの人々に証しするという大切な使命が忘れられがちになっているという点で、当時の捕囚の民が陥っていた状態と私たちとの間には似通ったところがあるのではないか、と思わされるのであります。そういうわけで、預言者第二イザヤを通して捕囚の中にあったイスラエルの民に語られた神様の言葉は、現代の神の民としての私たちにも語られている御言葉として、耳を傾ける必要があるのではないかと思うのであります。
 今日の箇所の冒頭の438節で、こう呼びかけられています。引き出せ、目があっても、見えぬ民を/耳があっても、聞こえぬ民を。同じような呼びかけは前の4218節以下にもあります。こう言われています。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。」(1820節)――イスラエルの民は、その歴史の中の様々な出来事を見聞きすることを通して、神様の御心を認識することが出来た筈であるのに、その御心を信じて従うことをしなかったということが述べられているのであります。このことは、私たちも同様であります。私たちは聖書を通して、神様が歴史に働きかけられたこと、神の民に語りかけられたことを見聞きし、御心を知らされているのでありますが、御声が聞こえないかのように、御業が見えないかのように、御心に従うことをしていないのであります。

1.あなたたちがわたしの証人

 ところが、今日の箇所で預言者が語っていることは、そういう、目があっても見えず、耳があっても聞かない民を、「引き出せ」と言っているのであります。今日の箇所では預言者が、法廷での弁論の形を借りて語っているのですが、この法廷における裁判官は神様、被告は異邦の国々の国民と彼らが信じる神々であって、そこにイスラエルの民が証人として呼び出されているのであります。目があっても見えず、耳があっても聞こえないと言われているイスラエルの民が、神様の証人として引き出されているのです。これは驚くべき逆説であります。
 続けて9節を読みます。国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ/初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し/聞く者に、そのとおりだ、と/言わせうる者があろうか。――ここは被告人である異邦の民が呼び出されています。ここで「このこと」とか「初めからのこと」と言われているのは、神様が歴史の中でなさって来たことであります。具体的には、このあと、1617節で述べられる出エジプトの出来事を初めとする、神様がイスラエルの民を救い出された出来事であります。諸国の異邦の民の中に、神様のなさったことを証言することが出来る者がいるだろうか、そんな者はいないだろう、と言っているのです。そして10節で、わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを、と言われています。つまり、神様の救いの御業の証人の役目を果たすのは、あなたたちイスラエルの民以外には存在しない、と言われているのであります。
 なぜ、目があっても見えぬ民、耳があっても聞こえぬ民と言われるイスラエルの民が、神様の証人として用いられるのでしょうか。なぜ、御心を悟らず、御心に従わなかった不信仰なイスラエルの民が、証人になり得るのでしょうか。なぜ、ここで、「あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう」と言われるのでしょうか。大きな矛盾ではないでしょうか。――この証人としての呼びかけはまた、私たちに対する呼びかけでもあります。神様は不信仰な私たちをも証人として呼び出そうとしておられるのであります。(この呼びかけは、既に洗礼を受けて教会に加わった方々だけへの呼びかけではなくて、今教会へ招かれて、神様の御業や御言葉を聴いている求道中の方々への呼びかけでもあると思います。将来、神様のことを証しする証人にするために、こうして、教会へ召し出しておられるのではないでしょうか。)なぜ神様は、まだ神様のことをよく見聞き出来ていない者、信仰が未熟であると分かっておられる者、不信仰な者を、御自分の証人として呼び出されるのでしょうか。

2.贖う神

 その疑問を解き明かす鍵は、今日の説教の題にした「贖う神」ということであります。「贖う」という言葉は、(先程の聖書朗読では読んでいただきませんでしたが、)43章の1節に出て来ます。ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。この「贖う」という言葉は、借金があって拘留されている者を、金を払って釈放させることを意味する言葉です。「ヤコブよ」とありますが、これはイスラエルの民のことですね。負い目のあるイスラエルの民でありましたが、それを神様が贖って、買い戻してくださるということです。イスラエルの民が優れていたからとか、良い働きをしたからとか、信仰深かったから証人として相応しいというのではないのです。4節を見ると、こう言われています。わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。イスラエルにもともと価値があり、立派だからではありません。神様がイスラエルを価高く、貴い者と見做してくださるのであります。神様が彼らを愛しておられるので、身代わりを用意なさってまでして救い出されるのであります。

 更に13節では、今後のことについて、こう言われています。今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神/主はこう言われる。わたしは、あなたたちのために/バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて下ろし/カルデヤ人を歓楽の船から引き下ろす。――ここにも、「あなたたちを贖う方」という言葉が出て来ます。イスラエルの民は罪深いし不信仰なのであります。それ故にバビロン捕囚という憂き目をみなければなりませんでした。しかし、そのイスラエルを愛される神様は、彼らを贖われる、即ち、犠牲を払ってでも買い戻されるのであります。「かんぬきをすべて下ろし」とあります。これは、イスラエルの民をバビロンでの捕囚状態から解放することを扉の閂を下ろすという比喩で語っているのでしょう。「カルデア人」というのは、バビロニアを構成する民族のことであります。繁栄を謳歌していたバビロニアが滅ぼされる日が来ることを「歓楽の船から引き下ろす」という表現で預言しているのであります。

 イスラエルの民は罪深いのであり、神様についての証人となる資格はないのでありますが、神様がそのイスラエルの民の罪をも贖われるので、その恵みによって、異邦の諸国の民の前で、神様の御業を証言することが出来る者とされるということであります。

3.新しいことを行う

 1617節については先程も触れましたが、海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方/戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方とあります。これは明らかに、イスラエルの民がエジプトを出る時に、海が開かれるという奇跡が起こって、海を渡ることが出来て、その後を追ってきたエジプトの大軍が水の中で滅ぼされたという、神様の救いの御業のことを表わしています。
 しかし、1819節では、初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちは悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河をながれさせる。・・・と言われています。「初めからのこと」とは先程9節でも出て来ましたが、出エジプトの出来事のことです。そんなことを「思い出すな」「昔のことを思いめぐらすな」というのは、思い出してはいけないとか、思い出すほど重要なことではないということではないでしょう。「新しいこと」即ち、バビロンからの解放という素晴らしい出来事によって、昔のことが陰に追いやられて、忘れられてしまうほどになるということでしょう。イスラエルの民はバビロン捕囚の中で、過去の良い思い出を振り返って、現在の状態を嘆いていたのかもしれませんが、もっと大きな解放の時が来るということに目を開きなさい、ということを語っているのでしょう。バビロンとユダの地の間には、旅をするにも困難な荒れ野や砂漠が拡がっています。しかし、そこに新しい道が敷かれ、大河が流れるようになるというのです。その「新しいこと」が起こるので、神様の証人としてのイスラエルの新しい希望に満ちた道が開かれるということです。

4.罪を思い出さない――キリストによる完全な救い

 21節から24節には、「重荷」という言葉が3回出て来ます。最初は22節です。しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。ここでは、イスラエルの民が、神様を呼び求めることをせず、礼拝することを重荷と感じていたということを告発しています。これは捕囚前のイスラエルの民の礼拝のことでしょうか。あるいは、バビロンの捕囚地における礼拝のことであるかもしれません。私たちも、礼拝することが喜びではなく重荷となることがあります。礼拝することが義務のようになってしまって、何か口実があれば、休んでしまいたいという思いに駆られることがあるかもしれません。日曜日が来ることを待ち望んで、喜び勇んで礼拝にやって来るというのではなくなっていることがあるかもしれません。そのような私たちの姿が告発されているのではないでしょうか。
 しかし、23節ではこう語られています。あなたは羊をわたしへの焼尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。――イスラエルの礼拝では、罪の贖いのために動物の犠牲を献げました。それは神様の救いの御業を喜んで感謝をもって献げるべきものでしたが、そのような献げ物ではなくて、義務のようになったり、献げ物をすること自体を止めてしまっていたのかもしれません。しかし、神様は、そうした献げ物のことで、イスラエルの民を苦しめたり、重荷を負わせたことがない、とおっしゃるのであります。祭司サムエルもこう言っております。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上152223節は、具体的な献げ物、今の教会の言い方で言えば献金のことが言われているのでありますが、それだけでなく、私たち自身を神様に献げること、献身の生活のことを言っておられると受け取ることも出来るのではないでしょうか。しかし、神様は、それらのことで、私たちに重荷を負わせたことはない、とおっしゃるのであります。神様は、献金や献身を義務のようにして私たちに求められるのではなくて、神様の大きな恵みに対する応答として喜んで献げることを喜ばれるのであります。
 「重荷」という言葉の三つ目は24節の後ろ2行の中にあります。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。――イスラエルの民は、献げ物をしないだけでなく、罪を犯すことによって、神様を苦しめ、重荷を負わせたと告発するのであります。私たちもまた、神様から多くの恵みを与えられていながら、神様に心を込めた献げ物をしないばかりか、神様との関係を軽んじ、御心を喜ばせるよりは御心を痛めることをして、神様を苦しめ、重荷を負わせているのではないでしょうか。
 しかしながら、25節に至って神様はこう言われます。わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。――これは神様の驚くべき愛の決断から出た言葉であります。イスラエルの民はバビロン捕囚の中にあって、神様の恵みを忘れて、不信仰になり、罪を犯しています。しかしながら、そんなイスラエルの民の罪を思い出さないことにして、19節にありましたように、「新しいこと」、即ち第二の出エジプトの御業を行うと決断しておられるのであります。そして、この不信仰なイスラエルの民を神様の救いの出来事を証しする証人として立てようとしておられるのであります。
 私たちはこの神様の驚くべき決断の御言葉から、更に大きな救いの御業、第三の出エジプトとも言うべき救いの御業のことを聴くことが許されるのではないでしょうか。それは、主イエス・キリストを地上にお遣わしになって行われた御業であります。主イエス・キリストの十字架と復活によって成就される罪の贖いについての最終的な救いの御業であります。そして、私たちの背きの罪を拭い去られるだけでなく、私たちのような者をも、神様の救いの恵みを証しする者として用いようとなさっているのであります。

結.子孫への祝福

 今日の聖書の箇所は、4328節まででありましたが、実は、この神様の大きな決断の御言葉は、44章にも続いているのであります。そのうち、1節から3節までを読んで終わりたいと思います。そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしに選んだエシュルン(イスラエルの愛称)よ。わたしは乾いている地に水を注ぎ/あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。――このイスラエルの民に与えられた祝福は、主イエス・キリストを信じる教会の民にも与えられる祝福であります。その祝福は、私たちだけに留まるものではなく、私たちの子孫にも与えられると言われているのであります。異教の地にあって、神様に向き合うことを疎かにしている罪深い私たちであります。しかし、そんな私たちの罪をぬぐい、罪を思い出さないと言われます。それだけではありません。私たちとその子孫を神様の証し人にしようと決断なさってくださっているのであります。キリストによる贖いの恵みの大きさを知らされた私たちであるだけに、証し人として相応しいと見てくださっているのであります。大変有難いことであります。感謝して、祈りましょう。

祈  り

贖い主なる父なる神様!
 私たちはあなたに重荷を負わせるだけで、献げるべき物を何も持たない罪人でありますが、あなたの証人として立てようとしてくださっているとの恵みの御言葉をいただき、感謝いたします。
 どうか、私たちの重い罪を、御子イエス・キリストの贖いの故にお赦しください。どうか、聖霊を豊かに注いでくださって、あなたの証人としての使命を果たすことが出来る者としてください。また、私たちの子孫にも祝福を与えるとの約束を感謝いたします。どうか、私たちの血のつながりの子孫、そして教会につながる次世代の者たちにも祝福が受け継がれますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年11月23日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 43:8ー28
 説教題:「
贖う神」         説教リストに戻る