序. 御言葉に生かされているか

 今年の米子伝道所の目標は、「御言葉に生かされる」ということでありました。では、「御言葉に生かされる」とは、具体的にどういうことでしょうか。どうなることを「御言葉に生かされる」と言うのでしょうか。これは米子伝道所の目標ですから、教会としての米子伝道所が御言葉によって生かされるということですが、それは、米子伝道所に関わる一人一人が御言葉によって生かされているかどうかということと無関係ではありません。むしろ、私たち一人一人が、教会員も求道中の方々も含めて、皆が御言葉に生かされるということがなければ、米子伝道所全体としても御言葉に生かされるということにはならないでしょう。ですから、取り敢えずは、私たち一人一人が御言葉に生かされているかどうか、ということを考えて見たいと思います。
 ところで、私たちが「御言葉に生かされる」という場合、二つの側面があります。一つは、私たちは(一人一人も、教会全体も)、様々な問題や課題を持っていて、そのために日々の営みの中で苦闘をしているわけですが、そうした私たちが御言葉によって元気や力を与えられたり、希望や目標を見出すことによって、生き生きとしたものになる、という側面であります。精神的、内面的に活力が与えられるという側面であります。もう一つの側面は、私たちの具体的な行動、生き方が御言葉によって変えられるという側面であります。御言葉が私たちの日常生活の中で、行動的、倫理的な面において具体的に生かされて、形になって現れるという側面であります。御言葉というのは、単に私たちの内面に作用するだけに留まらず、外面に形となり、行動となって現れる筈であります。日々の生き方が変わってくる筈であります。
 今年も残すところ1か月半となりました。今年の目標である「御言葉に生かされる」ということが、一人一人においても、教会としても、起こったのでしょうか。起こったとしたら、具体的にどのように起こったのでしょうか。それとも、目に見える形ででは起こっていないとすれば、どこに問題があるのでしょうか。これは、皆さん一人一人が点検していただかなくてはならないことではありますが、何よりも御言葉を取り次ぐ役割を与えられている牧師がしなくてはならないことであります。そして、これは大変厳しい点検であります。というのは、「御言葉が生かされる」というのは、礼拝において御言葉が語られたという前提がなければ空しいことであります。一体、牧師は御言葉をきっちりと聴き、それをきっちりと伝えて来たのだろうか。聖書の話をしたことは間違いないのですが、それを神様の御心通りに語っただろうか、聞く人に伝わるように語ることが出来たであろうか、ということが問われなければなりません。第一、自分自身が御言葉を聴いただろうか、聴いて従っただろうか、御言葉が具体的な言動の中で生かされたか、ということが問われます。
 さて、この手紙では、4章からは信徒に対する勧め(勧告)が始まっているのですが、そのうち、先月に学んだ116節では、教会における一致ということが述べられたのに続いて、今日の箇所では、キリスト者の新しい生き方が語られております。小見出しは、前半の1724節は「古い生き方を捨てる」、後半は「新しい生き方」となっていて、信仰に入る前の古い生き方と、信仰を与えられてからの新しい生き方が前半と後半で対比されているような小見出しになっていますが、内容は必ずしもそのように明確に分けられているわけではなくて、各所で古い生き方と新しい生き方を対比的に述べながら、新しい生き方を始めることを勧めていて、更に、そのような生き方がどこから来るのか、どのようにして新しい生き方に転換できるのかという、新しい生き方の根拠も、この中に折り込まれているのであります。
 そこでまず、古い生き方として書かれていることをピックアップしながら、私たち自身のこれまでの歩み、特に今年の歩みがどうであったのかということを思い起こしつつ、必ずしも御言葉に生かされていない自分の現実を見つめ直してみたいと思います。

1.異邦人と同じように歩んでいないか

 まず17節で筆者はこう言っております。そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。
 エフェソの教会の信徒はほとんどが異邦人であったと考えられます。その人たちにこのように勧めるということは、これまでの生き方を根本的に変えなければならないということであります。私たちも異邦人であります。神様を知らない者たちの中に生まれ育って来ました。しかし、神様に出会い、御言葉に生かされる、そしてキリスト者になるということは、異邦人でありながら、異邦人ではない生き方をするということであります。
 
では、異邦人の生き方のどこが悪いのでしょうか。17節の最後から19節にかけて、こう言っております。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。――ここには、「愚かな考え」「無知」「心のかたくなさ」「放縦な生活」「ふしだらな行い」と言った言葉で、非常にひどい状態や生活ぶりが述べられています。ここを読んで皆さまはどう感じられるでしょうか。<確かに世の中には、こういう生活をしている人はいる。しかし、教会へ来ていない人、信仰を持たない人が皆、こういう生活をしているわけではなくて、立派な生き方をしている人もいるのではないか>と思われるかもしれません。また、御自身についても、<ここで言われるようなひどい生き方はしていない>とおっしゃるかもしれません。しかしそれは、社会的な体面を保つため、或いは小市民的な幸いを壊さないために極端な状態に至っていないだけで、私たちの中にある本当の姿は、自分さえよければ他の人はどうでもよいというエゴイズムであります。神様から離れ、御言葉に生かされない生活とは、ここに描かれているような危険を秘めているのではないでしょうか。
 また、25節以下は、新しい生き方への勧めが語られているのですが、ここにも、神様から離れている者、信仰を持っていない人の姿が、特に「隣人」との関係においてどうかという面で、示されています。25節:だから、偽りを棄て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。26節:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。28節:盗みを働いていた者は、今から盗んではいけません。29節:悪い言葉を一切口にしてはなりません。――ここには、「偽り」「怒り」「盗み」「悪い言葉」といったことが述べられています。隣人とは真実をもって語り合える間柄のことであります。しかるに、私たちは「偽り」を語り、うそをついて、自分を守ろうとします。真実を主張しようとすると、そこに「怒り」が生まれてしまいます。隣人の思いに寄り添うのでなくて、自己主張や自己弁護が先に立って隣人を傷つけてしまいます。「盗み」というと犯罪性のある行為を思い浮かべるかもしれませんが、他の人の権利を侵害したり、弱い立場の人から利益を貪ることも盗みであります。私たちはいつのまにか「盗み」を働いてしまっています。「悪い言葉」というのは原語の意味は「腐った言葉」であります。隣人に対する悪口・中傷を無責任に語って、傷つけてしまいます。54節には、卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません、とも書かれています。御言葉を聴いた者は、神の恵みを語り、人を高め、元気を与え、喜ばせる言葉を語れる筈でありますのに、隣人を悲しませたり、落胆させる「悪い言葉」を語ってしまう私たちであります。私たちはこのように、教会に来ていない、信仰を持っていない異邦人と同じように歩んでしまっているのではないか、と問いかけられているのであります。
 そして、筆者は2021節でこう語ります。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。ここで、「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ」と訳されていますが、元の言葉は、「彼に聞き、キリストにあって学び」であります。つまり、キリストについての情報を得たり、学習をしたりするのでなくて、キリストの生の言葉を聞き、キリストその方を学びとるということであります。礼拝における説教というのは、そういうものです。説教は、キリストについての説明ではありません。キリストの言葉そのものを聴き、キリストの人格に触れ、キリストとの人格的な交わりが起こることであります。そこから、古い生き方を捨てて、新しい生き方が始まるのであります。
 もし、私たちが礼拝において、そのような仕方でイエス・キリストと出会っていないとすれば、何よりも説教者に問題があります。しかし、礼拝に来られる方々の方にも、そのようなキリストとの出会いの場であるという認識が忘れられているということがあるかもしれません。そこからは新しい生き方は始まらない、ということであります。

2.古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける

 では、どうすれば、古い生き方から離れて、新しい生き方を始めることが出来るのでしょうか。どうすれば、キリストとの人格的な交わりが出来るのでしょうか。筆者はそのことについて、2224節でこう語っています。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

 昔、「変身」という言葉がはやりましたが、正に、着物を脱ぎかえて変身しなさいと命じております。シンデレラ姫が汚いボロ服を脱いで、お姫様の衣装を身にまとうように、<古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着なさい>と言われているのです。しかし、これは外側に着る衣装を変えて、外見だけを整えるという話でないことは明らかです。私たちが脱ぎ捨てないといけないのは、「古い人」、つまり罪にまみれた人であって、私たちが着なければならないのは、「新しい人」、つまり罪から解放された人であります。これは、明らかに外見上の変化ではありません。人間がすっかり変わるということです。シンデレラが王女に変身するようなわけにはいかないことであります。脱いだり着たりというようなことではすまないことであります。醜いところをいっぱいに持っている古い人間が、明日から急に立派な人間に変身するということは殆んど不可能に思われます。私たちは、自分自身が、そんなに急に変われないことを知っています。

 それでは、ここで言われていることは、私たちの現実とは程遠いことなのでしょうか。それとも、人目につくところだけを繕うことを言っているに過ぎないのでしょうか。そういうことであれば、私たちが今までやって来たことと、あまり変わりがないのではないでしょうか。

 神学者のカール・バルトは、この21節から32節について、1943年に説教をしています。彼はその説教の中で、この聖句の「古い人を脱ぎ捨て」と、「新しい人を身に着ける」ということについて、イエス・キリストにある真理が語られているとして、それぞれ3つの点に注目しております。その要点をご紹介したいと思います。

 まず、「古い人を脱ぎ捨て」という方ですが、第1に注目すべき点は、古い人が着物にすぎないものとして扱われているという点です。古い人は着物にすぎなくて、皮膚や心ではないし、その人自身ではない、ということです。私たちが罪の中にあるということは、私たちがどっぷりと罪の中に浸ってしまっていて、どうしようにもないように思えるのですが、ここでは、私たちの罪の状態は着物だと言っているのです。先程、古い人の状態について見ましたが、そこで述べられていた「愚かな考え」「無知」「心のかたくなさ」「放縦な生活」「ふしだらな行い」「偽り」「怒り」「盗み」「悪い言葉」といったことが、私たちの着物に過ぎなくて、私たち自身なのではない、というのです。

 注目すべき第2の点は、古い人は、もう使い古されて、ほころびてしまって、駄目になった着物だというのです。22節に「滅びに向かっている古い人」と記されています。罪の力はもう滅び行くものだと言われているのです。私たちには、先程述べられていた人間の罪の姿は、まだまだ猛威を振るっていて、やがて過ぎ去るとか、使い物にならなくなるとは思えないのです。しかし、この御言葉では「滅びに向かっている古い人」だと言われているのであります。

 第3ことは、驚くべきことですが、古い人は脱ぎ捨てることができるということです。先程から見た様々な罪の姿は、私たちの体にぴったりとまとわりついていて、私たち自身になってしまっているようにさえ思えます。私たちは外見を繕うことは出来ても、私たち自身の中身の汚れはどうすることも出来ないことを知っています。そうでありますのに、この御言葉は、罪にまみれた古い人は脱ぎ捨てることが可能だと言うのです。だから、それを脱ぎ捨てるべきだし、それは出来ると言うのであります。

 次に、今度は「新しい人」の方ですが、ここでも3つのことに注目しています。第1は、新しい人もまた、身に着ける着物であるということです。自分自身ではないのです。私たち自身が新しい人になるのではなくて、新しい人を身に着けるのです。新しい人が私たちに代わって生き始め、生活を始めるのです。25節以下で述べられていた新しい生き方、即ち、偽りを捨て、隣人に対して真実を語るとか、怒ることをやめて、罪を犯さないとか、悪い言葉を口にしないといったことが起こるとすれば、それは、身に着けた新しい人が着物として生活しているのであって、私たち自身は新しい人ではないというのです。ですから、私たちは新しい生き方を始めたことを誇ることは出来ません。ただ感謝し喜ぶことは出来るだけだと言うのです。

 注目すべき第2の点は、24節で「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」と述べられているように、新しい人は、神にかたどって造られた美しく立派な着物であって、私たちがそれを身に着けると、「真理に基づいた正しく清い生活を送るように」と言われていることが現実となって、生き生きと喜びに満ちて生活することが出来るということです。

 第3の注目点は、「新しい人を身に着け、・・・正しく清い生活を送るようにしなければなりません」とはっきりと命じられているように、新しい人は私たち自身によって着ることが出来るということです。私たちにピッタリのサイズに出来ていて、すぐにでも着ることが出来るように用意されているので、もはや「私には着ることが出来ません」とは言えないということです。

結.キリストの愛によって

 さて、私たちは今、バルトの説教を参考にしながら、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けなさい」という御言葉を聴いて来たのですが、なおまだ、そのような命令が私たちにとって可能なのであろうか、そのような命令はどこから出て来るのだろうか、という疑問を拭い切れないかもしれません。バルトはその疑問に対する答えは、21節の「真理がイエスの内にある」という言葉にあると言っております。主イエスが十字架にお架かりになって死んでくださって、私たちの罪を、つまり古い人を自らのものとして、御自分と共に死なせてくださった。そのことによって、私たちの罪は、単なる着古した着物に過ぎないものとされた。そして、主イエスが死人の中から甦られたことによって、私たちのための新しい着物を用意してくださった。だから私たちは、それを着ることが出来るし、着る必要がある、と言うのです。
 そのことは、32節以下でも語られています。互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。私たちの罪で汚れた古い着物は、キリストによって新しい着物に作り変えられたのであります。また、隣人との関係についても、51節以下でこう述べられています。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。12節)ここには、「神に倣う者となりなさい」と言われています。私たちがどうして神様に倣うことが出来るでしょうか。到底、神様と同じように出来る筈がありません。だからこそ、キリストが私たちに代わって、いけにえとなってくださいました。私たちはこのキリストを身に着けることによって、新しい人になることが出来ます。そして、愛によって歩むことが出来る者とされました。5節の最後に書かれているように、私たちは異邦人と同じように歩んでいて、キリストと神との国を受け継ぐことはできない者でありましたが、キリストを身に着けることによって、神の国を受け継ぐ者に変えられたのであります。 お祈りいたします。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 古い生き方を捨て、新しい生き方をするようにと勧められて、当惑を覚えざるを得ない私たちでありますが、そのような私たちのために、御子をお遣わしくださり、御子の贖いによって、私たちが古い人を脱ぎ捨て、神様にかたどって造られた新しい人を身に着けることが出来るようにされたという、大きな愛の恵みを受けたことを覚えることが出来まして、感謝いたします。
 私たちは、今日聴きました、この御言葉を聴き続け、これに従うほか、神の国を受け継ぐことが出来ません。どうか、残された生涯において、この御言葉のもとに立ち続ける者とならせてください。そしてどうか、あなたの愛を証しする者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年11月16日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙4:15ー5:5
 説教題:「
新しい生き方へ」         説教リストに戻る