序. 向こう岸に

 今日与えられているのは、マルコ福音書の5120節までの箇所であります。ここには、汚れた霊に取りつかれた人間が墓場を住まいとしていたとか、取りついた汚れた霊を豚の中に入れて、豚が湖になだれ込んだというような、一種異様な出来事が書き連ねられています。しかし、主イエスが汚れた霊を追い出されたのは初めてではありません。伝道を開始されて間もなくの頃、カファルナウムで最初になさった御業が汚れた霊に取りつかれた男の癒しでありましたし(12128)、主イエスが悪霊を追い出されたことは、134節や311節にも記されていることでありまして、主イエスの大切な活動の一つでありました。そして、後ほど御一緒に考えたいと思うのですが、汚れた霊(悪霊)に取りつかれた状態というのは、遠い昔の異常な人間のことに留まるものではなくて、現代の私たちにも関わる事柄なのであります。そして、汚れた霊に取りつかれた男は主イエスによって悪霊を追い出されると、自分の家に帰って宣教の業を始めました。こうして一人の人間の新しい人生が始まったのであります。ここにはそうした一人の人間の救いの物語が記されているのであります。
 さて、1節にはこう書かれています。一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。私たちは先に、すぐ前に書かれている、主イエスが突風を静められた出来事を聴きました。それは、カファルナウムで夕方まで人々に話をされていて、夕方になって、主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言い出されて、湖を渡っていた時に起こった出来事でありました。その「向こう岸」というのは、「ゲラサ人の地方」と書かれていますが、異邦人の地でありました。こうしてわざわざ湖を渡って来られたゲラサ地方でありましたが、そこで主イエスがなさったことはと言えば、今日の箇所の悪霊に取りつかれた人を癒したことだけであります。ですから、主イエスはこの人を悪霊の支配から救い出すことを目指して「向こう岸」に来られたということになります。こういうわけで、今日の出来事は、決して軽々しく扱うことの出来ない御業だと言えるのであります。

1.墓場を住まいとし――私たちの現実

 ところで、ゲラサという地は湖から60kmも離れたところでありますので、マタイ福音書ではもう少し湖に近いガダラと書き換えておりますが、場所は特定出来ていません。いずれにしろ、主イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人がやって来ました。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてつなぎとめておくことはできなかった、と書かれています。この人に何があったのかは分かりません。しかし、墓場に住むということは異常なことであります。何か大きな失敗をして身を隠さなければならなかったのか、あるいは人間関係に破綻が生じて、社会生活が営めなくなったのかもしれません。あるいは、この人の方が他人を信じられなくなって、孤独の中に逃げ込まなくてはおれなかったのかもしれません。墓場というのは「死」が支配する場所であります。そこに住むということは、生きることを放棄すること、神様から与えられている命に生きず、悪霊に支配されて生きるということであります。足枷や鎖で縛っておくことはできず、墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた、とあります。狂ったような状態ですが、自分自身を失って、自暴自棄になってしまっているということでしょう。悪しき力に支配されて、行き場のなくなった自我が、一方では墓場に住むという形で自閉的に閉じこもる姿になり、他方では、暴力という形で外に現れているのでしょう。

 このような姿は、病的な精神障害の現れと見ることも出来ますが、実は、私たちの奥深くにもある隠れた姿を指し示していると言えるのではないでしょうか。上辺は、人々とうまくやっていて、静かな表情を装い、暴力的な行為には及ばないながらも、内心では、絶えず心を苛立たせ、他人を厳しく裁いたり軽蔑している、――そういう私たちの姿を見る思いがするのであります。非常に柔和な人、おとなしい人、人当りの良い人であっても、このような凶暴さを内に秘めております。それは、私たちが征することの出来ない悪霊、即ち、罪の力が私たちの中に巣食っていて、それを隠し切ることが出来ないからであります。悪魔に支配されているのであります。ですから、ここに登場している汚れた霊に取りつかれた人を、異常な人間と見るのではなくて、むしろ私たちの代表と見た方がよいのではないでしょうか。主イエスは、そのような私たちが陥っている現実、悪霊に支配され罪に陥っている状態に立ち向かうために、わざわざ「向こう岸」にいる私たちの所にも来てくださるのではないでしょうか。

2.苦しめないで/出て行け

 さて、この悪霊に取りつかれた人は、主イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と叫びました。ここで、悪霊に取りつかれた人と主イエスの出会いが起こっています。死の世界に住みついて、生ける屍でしかなかった男、人々から見捨てられ、社会から疎外され、自分では暴力をふるったり、叫びまくるしか出来なかった男、悪しき力に支配されて、人間ならざる振る舞いをするしかなかった男が、主イエスの前に出て来ます。そして、ひれ伏して、「いと高き神の子イエス」と叫んでいます。彼が主イエスに出会ったのは初めてでありましょうが、直感的に主イエスの正体を見破ったということでしょうか。しかし、これは本当の礼拝でも告白でもないでしょう。なぜなら、「後生だから、苦しめないでくれ」と嘆願しております。大きな力を感じて、苦し紛れの叫びを上げたに過ぎません。この男に対して、主イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」と言われます。主はこの男が汚れた霊に蝕まれている状態を憐れまれて、そこから解放しようとされます。そして、「名は何というのか」とお尋ねになります。これは、彼の失われた人格を探し出そうとされる主イエスの問いかけであります。「本来のあなたはどこへ行ったのだ」「汚れた霊に蝕まれない前の自分に戻りなさい」との呼びかけです。しかし、彼は「名はレギオン。大勢だから」と答えます。レギオンというのは、ローマ軍の最大軍団のことです。おびただしい数の悪霊が彼に入り込んでいたことと関係があるのかもしれません。そして彼は、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願います。悪霊から解放されるのを拒否するのであります。私たちもこの男と同じように、自分が悪霊の支配の中にあって苦しんでいながら、その状態から救い出そうとなさる主イエスと出会っても、主の御手に自分を委ねようとしないのであります。自分を差し出すことを恐れるのです。

3.汚れた霊を追い出す/出て行ってもらいたい

 しかし、主イエスは諦めることなく、この男を蝕んでいる汚れた霊と忍耐深く向き合われます。すると、汚れた霊は苦し紛れに、その辺りの山でえさをあさっていた豚の大群に自分たちを乗り移らせてくれるように、主イエスに願います。主イエスがお許しになると、汚れた霊どもは、豚の中に入り込みます。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだのであります。悪霊どもは、豚の中に入り込むことによって、この地方で働き続けようとしたのかもしれませんが、こうして、主イエスによって豚もろともに滅ぼされてしまったのであります。
 このことによって、汚れた霊に取りつかれていた人はどうなったのでしょうか。15節を見ると、レギオンに取りつかれた人、すなわち汚れた霊に取りつかれていた人は、服を着て、正気になって座っていたのであります。これまでは、鎖を用いてさえつなぎとめておくことは出来ず、大声で叫んだり、石で自分を打ちたたいていた人が、今は何にもつながれずに主イエスの足もとに座っています。「正気」と訳されている言葉は、「健全な理性」という意味です。悪霊から解放されて、本来の人格を取り戻すことが出来たのであります。
 先程、旧約聖書の朗読で、サムエル記上161423節を読みました。そこには、サウル王が悪霊に悩まされていた時に、少年ダビデが竪琴を奏でて、サウル王の心が休まったという故事が書かれていました。主イエスは、そのダビデの子孫として生まれると預言されていたメシアであります。主イエスは、悪霊に悩まされる者たちから悪霊を追い出して、平安を与えてくださるお方であります。主イエスは、悪魔に住みつかれて罪を犯し続けていた私たちをも、このように解放して、本来の人格を取り戻させて、主イエスの前に座る(礼拝する)人間にしてくださるお方なのであります。
 ところで、1617節を見ると、成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語りました。すると、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだしました。彼らは、この男に起こったことが何であったのかが分かっていません。彼らは豚が全滅したことだけを見て、怖れをなして、一人の失われた人間が解放されたことを見ようとしていません。彼らにとって豚が失われることの方が重大で、人間の回復には関心を持たないのであります。「豚のこと」とは、この世的な楽しみや満足のことであり、「人間のこと」とは神様との関係のことであります。人々は神様との関係よりも、この世的な満足を求めるのであります。
 かつてわが国で、キリスト教の布教が禁止された時代がありました。当時の為政者たちは、キリスト教の信徒が急速に増えることで、外国に乗っ取られるのではないかということを恐れました。一人一人の人間が罪から救われることの尊さを見ていませんでした。現代の多くの人々も、教会で何が起こっているのか、その真実の働きを知らないまま、深入りすることを避けたり、子供を日曜学校に預けることを恐れたりします。私たち自身も、自分の人生を、キリストに委ね切ることを恐れるところがあるのではないでしょうか。目先の楽しみや満足を確保しておきたいと思ってしまうところがあるのではないでしょうか。そうであれば、ゲラサの人々と同じく「豚のこと」に留まったままの人生を送ってしまうということになります。

4.自分の家に帰りなさい

 18節を見ると、主イエスがそんなゲラサの地から去ろうと、舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願いました。主イエスは、「人間のこと」に関心がなく、「豚のこと」ばかりを気にする人々を見捨てて、この地を去ろうとされたのでしょうか。―イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、自分も一緒に行きたいと言い出しました。もっともな気持ちです。彼は悪霊から解放されたのですが、主イエスと離れると、またもとに戻ってしまうのではないかという不安があったでしょう。「豚のこと」にしか関心のないこの地方から逃げ出したいという思いもあったことでしょう。しかし、主イエスはそれを許さないで、こう言われました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐み、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」――主イエスは彼の家族のもとに帰ることを命じられました。そして、身内の人に主イエスのなさったことを伝える使命をお与えになりました。主イエスに出会って、家族を捨てて従ったペトロやアンデレたちの道もありますが、この男に対しては元の家庭に帰って、身内の伝道から始める道に進むことを命じられたのであります。主イエスはこの地を去られます。しかし、主イエスはこの地を捨てられたわけではありません。悪霊に取りつかれていた人を通して、まずその家族に救いが拡がり、そこからこの地方をも救う道筋を考えておられたのでありましょう。これまでのこの人の状況を知っている身内の人たちに伝道するということは、困難な道であったかもしれませんが、彼が主イエスによって救われたことを証しすることの出来る最善の道であるということでしょう。彼が救われたのは、主が彼を憐れみ、主が彼を支配していた汚れた霊を追い出してくださったからであります。こうして彼は、墓場を住まいとしていた生活から、自分の家に帰ることが出来るようになりました。
 彼はそのことを語れば、主を証しすることが出来るのであります。

結.言い広める

 20節を見ると、その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた、とあります。彼は、主イエスのお言葉に従って、示された道を歩み始めました。デカポリス地方というのは、ゲラサを含む異邦人の地であります。異教の偶像の神々が礼拝されていた地、「豚のこと」にしか関心がなかった地に、福音が伝えられることになったのであります。
 私たちもまた、主イエスと出会うことによって、私たちに取りついている汚れた霊(悪霊)の支配から解放されます。死が支配する墓場の生活から、永遠の命に生きる生活へと解放されたのであります。そこからの具体的な新しい生き方は、それぞれの人に相応しい道を、主が備えてくださいます。これまでの住み慣れた家を離れて、献身する道が示されるか、「自分の家」に帰ることによって、そこで、自分がどれだけ変わったかを証しする道が示されるのか、それは主がお示しくださることでありますが、いずれにしろ、主と共にあり、主の御業を言い広める新しい道が開かれるのであります。祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い主イエス・キリストの父なる神様!
  死が支配する墓場の生活から離れられなかった者を憐れみ、悪霊の支配から解放してくださり、あなたの御業を証しすることの出来る者へと変えてくださった恵みを感謝いたします。
 私たちはなお、慣れ親しんだ古い生活から離れられないところがありますが、どうか、主の御言葉によって指し示される新しい道に、勇気をもって従って行く者とならせて下さい。どうか、死に支配された墓場から、新しくされた「自分の家」に帰って、救われた恵みを証しする者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年11月9日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書5:1ー20
 説教題:「
墓場から自分の家へ」         説教リストに戻る