序.召天者を偲びつつ

 本日は1年一度行います召天者記念礼拝として、礼拝を守っております。召天者記念礼拝というのは、この教会に関係のある方で天に召された方々を、御遺族の方々と共に偲びつつ行う礼拝でありますが、それはただ、故人のことを懐かしんだり、御遺族をお慰めするというだけのものではありません。故人が信じておられた神様の御言葉を、改めて御遺族の方々と共に聴くことによって、故人の死を越えて、今も生きて働いておられる神様との交わりの中に、故人だけでなく、私たちも加えられ、私たちも故人と同じく永遠の命に与ることの出来る恵みを覚えて、神様を賛美し礼拝するのが召天者記念礼拝であります。
 永遠の命に与る恵みを覚える御言葉を聴くということであれば、聖書のどの箇所からでも聴くことが出来るのでありますが、今日は、4月以来聴いて参りましたマルコによる福音書の中の、先程朗読していただきました521節から43節までの箇所から聴くことにいたしました。(順番からすると、5章の初めからになっていて、そこからでも永遠の命に関わる御言葉を聴くことは出来るのですが、先程読んでいただいた箇所には死んだ人が生き返った話が書かれていますので、永遠の命ということが、よりストレートに伝わるのではないかと考えて、一足先に、ここを取り上げることにいたしました。)

1.癒しと甦りの物語

 さて、この箇所は、先程の朗読でもお分かりのように、二つの奇跡物語が重なって書かれています。ここには、十二年間も出血が止まらなかった女が「イエスの服に触れる」ことによって癒された話と、「(会堂長)ヤイロの娘」が死んでしまったのに、主イエスによって生き返えらされた話であります。この二つの話は別々に取り上げられることもあります。(昨年、日曜学校のカリキュラムに従って礼拝説教をしていた時は、そのようにしました。)しかし、一連の出来事として取り上げられることも多いように思います。少々長い箇所ですが、出来事そのものはそれほど込み入っているわけではありませんし、出来事の背景について詳しく説明しなければ理解できないことではなくて、一読して何が起こったかはよく分かります。
 しかし、起こった出来事そのものは、普通のことではありません。常識では考えられないような奇跡的な事柄であります。十二年間も出血が止まらなかった女の場合は、多くの医者にかかって、…財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった、とありますから、当時の医療技術ではどうすることも出来なかった病が、主イエスの服に触れるだけで癒されたという不思議な物語であります。一方、会堂長ヤイロの娘の場合は、どういう病かは分かりませんが、死にそうになっていて、恐らく以前から会堂で主イエスの行われる癒しの業などを見ていて、何とか主イエスに助けていただこうと、必死の思いでやって来ると、主イエスは快くヤイロの家に出かけようとされたのですが、出血が止まらない女の一件で手間取っている間に、会堂長の家から使いの人々が来て、娘が亡くなってしまったことを告げたのでありました。ところが、その知らせをそばで聞いておられた主イエスは、「恐れることはない。信じなさい」と言われて、家に向かわれたのであります。家に着くと、当時の習慣でもありましたが、人々が大声で泣きわめいて騒いでおりました。すると、主イエスは「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と不思議なことを言われました。人々はそれを聞いて、あざ笑いました。しかし、主イエスは子供のいる所へ入って行かれて、子供の手を取って、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」とおっしゃると、少女はすぐに起き上がって、歩き出したというのです。これは、死んでしまった者が生き返るという、あり得ないような出来事で、人々は驚きのあまり我を忘れた、とあるのも無理もない、不思議な奇跡の出来事であります。

2.信仰と救い

 けれども、この二つの出来事は、その昔に、主イエスが奇跡的な癒しと甦りの御業をされたということの、単なる報告ではありません。イエスというお方は、こんな不思議な力を持っておられた方であった、ということを書き残しているだけではありません。この二つの物語の大事な点は、出血の止まらなかった女と会堂長の信仰がどうなったか、主イエスと二人の関係がどうなったのかということであります。
 女は、出血を何とか止めてもらいたいとの切なる願いを持って、藁をもつかむ思いで主イエスの服に触れたのでありますが、大事な点は、主イエスがその願いにお応えになって癒されたということにあるのではなくて、主イエスが「わたしの服に触れたのはだれか」と言って、女を探し出し、その女と人格的な関係を持とうとされたということ、つまり、女が主イエスの服に触れたのに対して、主イエスがこの女の心に触れようとされたということであります。それに対して、女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した、と記されています。これは、主イエスを礼拝したということです。それに対して、主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と宣言しておられます。彼女の元の信仰は、ただ病の癒しだけを求める功利的な信仰であり、迷信的な信仰と言ってもよいようなものでありました。主イエスはそのような女を探し出して、人格的な関係を生み出すことによって、彼女の中に本物の信仰を創り出されたのであります。単なる体の癒しではなく、新しい人生に生まれ変わる「救い」が与えられたのであります。主イエスは最後に、「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と言われました。これは、単に、病気から解放されて、残された人生を元気に暮らす、というだけのことではありません。この後は、主イエスとの人格的な交わりを続ける生涯を歩むことになったことでしょう。と言っても、この女も永遠に生き続けるわけではありません。やがて、何らかの病を負って最期の時を迎えたことでしょう。しかし、主イエスとの人格的な交わりはもはや断たれることはありません。主と共なる歩みは天国にまで続きます。それは言い換えれば、永遠の命に生きることが出来るようにされたということです。
 会堂長ヤイロの場合はどうでしょうか。彼も最初は娘が死にそうになって、やはり藁をもつかむような思いで主イエスのところにやって来ました。しかし、主イエスが出血の女のことで手間取っておられる間に、娘が亡くなってしまったことが伝えられると、がっかりして、使いの人が言ったように、もう主イエスを煩わすには及ばない、と思ったのではないでしょうか。死んでしまえば、主イエスですらどうすることも出来ない、と思ったでしょう。ところが主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃいました。これはどういう意味でおっしゃったのでしょうか。<この厳しい現実に対して、心の持ち方を変えれば、恐れを避けることができる>と言うような意味でしょうか。そうではありません。こういう意味ではないでしょうか。<あなたは今、出血の止まらなかった女が癒された事実に出会った。そしてあの女は私に深い信頼を寄せるようになった。あなたは、あの女以上の信仰をもって、私が死んだあなたの娘を生かすことが出来ると信じなさい。あなたは厳しい現実に恐れているようだが、私を信じなさい。そうすれば、決して恐れることはない>と言っておられるのではないでしょうか。会堂長は主イエスに対する一定の信頼をもって、やって来ました。しかし、死という現実を前にして、主イエスへの信頼が切れそうになっていました。しかし主イエスは、死という現実を前にしても、<主イエスとの人格的な交わり、命の関係が決して滅びることがないということを信じなさい。そこにこそ本当の命、永遠の救いがあるのだ>と、永遠の命の信仰へと招いておられるのではないでしょうか。そう言われても、会堂長にはピンと来なかったかも分かりませんが、やがて主イエスが家に来られると、大声で泣きわめいている人々に対して、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃいました。そして、子供の手を取って、少女を起き上がらせなさいました。これを見て、人々は我を忘れるほど驚きました。しかし、一番驚いたのは、会堂長であったでしょう。驚いただけではなかったでしょう。主イエスが「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたことを思い出して、主イエスのお言葉の確かさをはっきりと認識することが出来たでしょう。そして、自分の不信仰を恥じるとともに、主イエスに対する信仰を確かにすることができたのではないでしょうか。ヤイロは、これまで主イエスを、病を癒すことの出来るお方であるということは信じていましたが、今や、命をも支配されるお方であることを知ったのであります。ここに記されている出来事は、単にヤイロの娘が蘇生した(生き返った)出来事ではなくて、会堂長ヤイロの信仰が新たにされた(生まれ変わった)という、救いの出来事が書かれているのであります。

 このように、今日聴いた二つの出来事は、単に不思議な奇跡の物語ではなくて、出血の女と会堂長の信仰が成長した物語であり、二人と主イエスとの人格的関係が永遠の関係へと、即ち、永遠の命へと導かれる、救いの物語なのであります。

3.死と復活

 ところで、この出来事を聖書が記しているのは、ただ2000年前の昔に、驚くべき奇跡的出来事が起こって、一人の女と会堂長ヤイロが救われたという物語に過ぎないことではありません。これを聴いた皆がこの出来事のことを知って、これは自分たちのことでもある、自分たちにも起こることであると受け止めたからこそ、こうして書き綴られ、2000年以上もの間、語り継がれて来たのであります。
 私たちも、出血の止まらない女のような、苦しい病や災害や不幸と向き合わなければならないことがあります。そして、近親者や自分自身が「死」という、どうすることも出来ないと思える大きな力の前に立たされることがあります。私たちは、そういう嫌なこと、恐ろしいことはなるべく考えないでおこうとします。あるいは、心の持ち方を変えるとか、体は死んでも魂はどこかで生きているということで慰めを得ようといたします。そして、主イエスとの人格的な関係ということには、あまり心を用いようとはしません。せいぜい、もう少し切羽詰まった状態になったら、もう少し年齢が進んで死が目の前に迫ってから、というようにして、厳しい現実に正面から向き合おうといたしません。しかし、死がそこまで来てから慌てたのでは遅いかもしれないのです。否、今日聴いた物語のように、本当の信仰へ、永遠の命への救いの道が開かれているのですから、もっと早目に主イエスとのしっかりとした人格的な関係へと前進したいものであります。
 私がこの伝道所に遣わされてから11年半が経ちますが、伝道所の関係者の死と向き合わされたのは、K.T姉とY.K姉さのお二人だけです。高齢者が多い中では、少ない方だと言えるかもしれません。しかし、お二人の死に際しては、多少苦い思いが残っております。心残りがあります。
 K.T姉の場合は、大分以前から心臓を患っておられて、死と向き合って生きておられましたが、死ということについて、K.T姉と心を割った話をしたことがありませんでした。そして、K.T姉はお寺との関係もあって、亡くなった場合の葬儀は教会でではなくて、仏教式で行うことに決めておられたようであります。そのことも残念なことですが、いよいよ死の間際になって、苦しい時に、私が散髪屋にいたときに是非来てほしいという知らせが入って、急いで病院に駆けつけましたが、ベッドの横に行く前に聞かされたことは、お医者さんが最善の治療を行っておられるから回復の望みがあるということでありました。しかし、私がご本人のベッドに行って、そのように申し上げると、K.T姉は、「家族も医者も、牧師も本当のことを言ってくれない」とおっしゃいました。ご本人は自分の死が近いことを感じておられたのでありましょう。もし、死が近いことがはっきりしているのであれば、信仰を持っておられたのでありますから、その場で、永遠の命が与えられていることをもう一度思い起こしていただいて、すべてを神様に委ねて、平安の内に死を迎えることが出来るようにして差し上げるべきではなかったかと、未だに心残りなのであります。もちろん、K.T姉は信仰を持って召されたので、最期の時にも、終わりの日の復活を信じて、平安の内に亡くなられたと信じるのですが、出来れば死の床で、そのことを共有できたらよかったと思うのです。
 K.Y姉の場合は、洗礼を受けておられませんでしたが、死の病に伏されるようになって、御家族からはそう長くはないというお話しを聞きましたので、御長男を通じて、病床で洗礼を受ける御意志の有無を確認しましたところ、「受けたい」とのうれしい返事が参りました。しかし、教会側の手続きに手間取りまして、病床洗礼を予定していた日の直前に天に召されたのでありました。その3日前に病床にお伺いした時は、もう大変苦しい状況で、ベッドの上に起き上がるのが気の毒なような状態でしたが、その時も、まだ洗礼を受けることが出来ると思っておりましたから、「頑張ってください」ということしか言えず、永遠の命のことをお話しして死の準備をすることが出来ませんでした。そのことが未だに心残りであります。もちろん、洗礼を受ける決心をしておられましたので、信仰をもって召されたことは信じておりますが、はっきりと死と復活の命のことを病床でお話しできなかったのが悔やまれるのであります。
 このお二人の死から私たちが学ばなければならないことは、私たちが、自分の死について、そして永遠の命について、救いについて、しっかりとした信仰を与えられ、確信を持つことであります。そして、主イエスとの深い交わりに入れられている自分を知ることであります。
 そうすれば、残された地上の命の生き方が変わる筈であります。これまでの、不安と怖れを抱えた生き方から解放されて、地上におりながら、神の国に生き始めることが出来るのであります。
 
主イエスは、泣き騒いでいる人々に向かって、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃいました。死のことを眠りとされたのであります。このことから、教会では亡くなった方のことを「眠っている」という表現をします。やがて、終わりの日に甦られることを信じているからであります。しかし、原田史郎という牧師は、この箇所の説教の中でこういうことを言っておられます。「ここから私たちが、死とは眠りのようなものだと考えるなら、それは大きな間違いです。死が眠りであるなら、何故主が十字架にかかり給うのでしょうか。死は、使徒パウロの言葉のように『罪が支払う報酬は死です』(ロマ613)。葬儀によく読まれる詩編90編の詩人は、死を神の怒りとみました。死は罪の報いとして絶望以外の何ものでもありません。その死が眠りとなるのは、そこに主が立っていて下さるからであります。」――この牧師が言われるのは、死が罪に対する裁きであるという厳粛な事実を誤魔化してはいけない、ということです。死のことを「永眠」と言うことがあります。「死」という不吉な言い方を避けた言い方ですが、死というのは神様から見捨てられることであって、「永眠」という言葉によってそのことが忘れられてはならないでしょう。しかし、主イエスはそのような罪の結果である私たちの死を、御自身の十字架で代わって負ってくださったのであります。そのことによってはじめて、死が眠りに変えられたのであります。ヤイロの娘の死を前にして、主イエスは御自身の死をもって、ヤイロの娘の死の肩代わりをしようと決意なさったからこそ、「眠っているのだ」とおっしゃったのです。もっとも、このことによってヤイロの娘が死ななくなったわけではない。いずれは死ぬ時がやって来ます。しかし、その死は、永遠の死ではなくて、終わりの日の復活の時までの眠りなのであります。

結.私たちの死の備え

 このことは、私たちの死についても当て嵌まることであります。主イエスは私たちの死に対しても、十字架の死の贖いをもって、眠りに変えてくださるお方であります。私たちも必ず死の時を迎えざるを得ないのですが、主イエスを信じてその時を迎えることが出来るならば、そこから先は永遠の死ではなくて、眠りに変えられるのであります。そして、終わりの日には、主イエスの贖いの故に、眠りから覚めて、復活することができるのであります。
 主イエスは一人でも多くの方が、そうなることを願って、今日も、御言葉をもって、私たち一人一人と向き合おうとしてくださっています。どうか、そのことを覚えて、残された地上の生涯を、この主イエスと共に歩み続けていただきたいと思います。この主としっかりと向き合うことが出来るならば、もはや、私たちが犯して来た数々の罪のために死を恐れる必要はありません。死と正面から向き合うことが出来ます。そして、残された地上の日々を悔いなく過ごし、死の時のための最善の備えをすることが出来るのではないでしょうか。
 祈りましょう。

祈  り

私たちの死と命を御支配なさる父なる神様!
 罪なき御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架の死を受けてくださり、私たちを死から解放し、永遠の命を備えてくださいましたことを覚えて、感謝し、御名を賛美いたします。
 
そのような恵みを受けながらも、なお主イエスの御言葉に聴き続けることを疎かにし、罪を犯し、死を恐れてしまう私たちであります。どうか、お赦し下さい。どうか、ここに集いました全ての者が、信仰をもって召された故人と共に、復活することを信じさせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年11月2日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書5:21ー43
 説教題:「
眠りから起き上がる」         説教リストに戻る